第七世 世界を持つ、ということ
てっきり今朝は寝不足になるとばかり思っていたが洗面所でしばらく呆けた後に畳のベッドに潜り、目を覚ます頃には自分でも驚く程にスッキリと目覚める事が出来た。
まず体の軽さが違う、昨日はあれでもほぼ万全だとばかり思っていたがやはり墨白の言う通り本調子ではなかったようだ……不思議な点といえば眠って調子を取り戻した、というよりベッドが寝ている間に全身の不調を吸い取っていったという感覚があるのだが……さすがに気のせいだろう、こんな事を言ってはまた彼女に笑われてしまう。
ちょうど起きて着替え終えた頃に現れた彼女に連れられて囲炉裏の間に行って相変わらず舌によく馴染む食事をし、食後に温かいお茶をすすっているとふとこんな疑問が湧いて出た。
「そういえば……この世界が墨白さんの世界だってのは分かったけど……そもそも世界が自分のものって、どういう事なの?」
我ながら間の抜けた質問だ、あまりにも漠然とし過ぎている。
「そうさなぁ……ふぅむ」
やはりというべきか、質問をぶつけられた墨白も言葉を探すように湯飲みを握ったまま宙を見つめてしまっている。
言葉にしてしまった以上無かった事には出来ない、あと出来る事といえば問いかけの内容をもう少し明確にする事ぐらい……しかしこれも簡単な事ではなく、結局二人揃って宙を見つめる事になってしまった。
「……ま、説明するより見た方が分かりやすかろう」
先に答えを決めたのは墨白だった、湯飲みに残ったお茶を一気に飲み干すとニヤリと笑って立ち上がると襖を開けた……どこかへ移動するらしい、つられて立ち上がると墨白と並んで廊下を歩きだす。
「まず世界というのはお主が思っておるよりもずっと身近なものなんじゃ、土地と言い換えれば分かりやすいかの? 数も大きさも特性も様々で到底把握なぞできぬ、要するに何でもありって事じゃな」
「……特性?」
「うむ、例えば常に花弁が舞っておるとか七色に光る海月が宙に漂っておるとか……もちろん良い事ばかりではないぞ? 常に謎の異臭がするとか、触れたものを全て腐らせる沼が広がっておるなんてこともあり得る」
「うへ……そんなところ、誰も欲しくないんじゃ?」
「儂らの場合はそうじゃな、しかし何に価値を見出すかなどそやつにしか分からぬ。泥を啜って生きる種族がおるとするのであれば花の芳香よりも腐れた樹木の発する臭いの方が好みのやつもおるかもしれぬじゃろう?」
なるほど、これは俺の方が考えを改めるべきなのだろう……『売買が人間同士のみで行われる』なんて常識は墨白が現れた時点で前提が崩壊しているのだから。
「さて、ここいらでよかろう」
少し考え込みながら歩いていると不意に墨白が立ち止まった、ハッとして顔を上げるが目の前にはまっすぐに広がる廊下が伸びるのみ……左右は閉め切られた障子に挟まれており何も無い。
「ここって……ここで何するの?」
「ほれ、そこに壺が一つあるじゃろう?」
墨白が指差す廊下の一角……そこには確かに引き出し付きの和風チェストの上に大きな壺が鎮座していた、黒を基調とした底の方から口に向かって伸びる草が鮮やかな緑で描かれており、壺の価値なんてこれっぽっちも想像がつかないが何故墨白に言われるまで気が付かなかったのか分からないぐらいにハッキリとした存在感を放っている。
「お前様よ、それを持ち上げる事は出来るか?」
「えっ?」
反射的に声が出る、これを? 持ち上げる?……正直な気持ちだけで言えば出来る出来ない以前にやりたくない、実際重量もかなりありそうだ……こんなところにあるのだから何で出来ているの分かったものでは無いが、とりあえず首を横に振っておくのが無難だろう。
「そうか、ではそのまま手で押して壺を叩き落としてみよ」
「はっ!?」
恐らくここに来てから一番の大声が出た、何を企んでいるのかは知らないがいくら頑丈そうな壺でもこんな板張りの床に落とせばどうなるかなんて子供でも分かる、なんなら昔のトラウマもついでに刺激されそうな気がして首が落ちそうな程に激しく振ってみせるが、何故か楽しそうな墨白にがっしりと後ろから羽交い絞めにされてしまった。
「だぁーいじょうぶじゃ、この壺だってお前様の教材になれるのであれば本望じゃろうて」
掴まれた手首が振りほどけない、スナップをきかせてどうにか逃れようとするが大元を掴まれては時間稼ぎにしかならず……やがて抵抗も虚しく指先がひんやりとした壺の側面に触れ、そのままビリヤードのように突いてしまう! あれほどの重量感を放っていた壺だったが軽い一押しで大きくその身を揺らし……一瞬の間の後に台の向こうへと落ちていく。
「っ……!」
脳内で勝手に流れる破砕音、一つの芸術が消え去ってしまう場面を直視出来ず目を閉じて顔を逸らしてしまう。
「……?」
何秒経った? もう十秒は過ぎている筈だが何も聞こえてこない。
「お前様よ、目を開けてみよ」
背後からの墨白の言葉に従ってゆっくりと……顔をしかめながら目を開く、そして二度三度と更にゆっくりと瞬きをして……息を漏らす。
「……なんで?」
チェストの上からこちらを見つめ返すのは先程俺が突き落としてしまった壺。割れるどころかヒビが入った様子も無く、突き落とす前と向きも同じな気がする。
アンティーク調とでもいうのだろうか? 格調高そうなチェストの上に乗ってるせいか相変わらず高級感が漂っているが今となっては小馬鹿にされているような印象が強く、少しだけ腹が立ってきた。
いつの間にか墨白の拘束が解かれていたので意を決して壺に詰め寄り、今度はベタベタと触って確かめてみるが……いくら調べても想定よりも重く、頑丈そうだし中にも何も入っていないという壺の立派さを裏付ける結果にしかならない。
「くふふっ、もう遠慮する必要は無いと分かってあろう? さぁもう一度落としてみるがよい」
振り向くとそこには一人だけクイズの答えが分かって優越感に浸っているかのような表情を浮かべた鬼の姿があった、しかし考えみれば確かに持ち主が良いと言っているのだ……ならば彼女の言う通り、遠慮する必要は無い……はず。
再び壺の方へと向き直ると両の手のひらを向けてゆっくりと近づける、皮膚と噛み合ったざらざらとした表面からひんやりとした感触が伝わってくる。
「ふっ……!」
心のどこかで期待していた気もするがやはりというか墨白が俺を止める事は無かった。
やるしかない、どうにでもなれという気持ちで両手に力を込めると思い切り前に突き出す……多少の重さはあるとはいえ突き出しに耐える程ではない、あっさりと宙に投げ出された壺が板張りの床に向けて落下していく。
俺が自らの目を疑うのはここからだった。落下した壺が床に触れた瞬間、床の材質がまるでゴム……いや、もっと柔らかい羽毛布団のように変化してその身に壺を優しく沈めると壺自身も反発力を利用して再び宙に浮きあがり……まるで何事も無かったかのようにチェストの上へと戻ったではないか。
「これが世界を持つという事じゃ、おもしろかろう?」
目の前で起きた事が理解出来ず、呆然とする俺の前でいつの間にか壺の隣へと移動していた墨白が鋭い爪の先で壺をつついてみせた。
どう返事したらいいのか分からず壺を落とした地点まで移動すると軽く何度か踏みつけてみる……しかしそこだけ柔らかいなどという事も無く、しっかりとした感触が足から伝わってくる。
「世界の主となった者はその中であればかなり自由に作り変える事が出来る、家も建てられるし竹を光らせ花火を上げる程度造作も無い……まぁ生物を生み出す事に関しては多少の制約がかかるが、この壺のような無機物には制約はかからぬし……常識も変えられる」
「常識を……変える?」
呆然と言葉を繰り返す俺に墨白はニッコリと頷き、片手を伸ばして俺の頬を優しく撫でる。
「うむ、この壺……というよりこの家にある物には現状を維持するように常識を変換しておる。じゃから例えばお主が誤って湯飲みを落とそうと割れる事無くお主の手に戻るし、何かを壊そうともすぐに元に戻る……じゃが全ては儂の裁量次第、お前様がここで食べたり飲んだりしたものはしっかりとお前様の血肉になっておるし……」
一旦言葉を区切り、俺の方を見ながら空いた手で壺を軽く押す……するとやはり壺はあっさりと落下し、凄まじい破砕音と共に見るも無残な姿へと変化した。
背筋に冷たいものが走る、これはつまり……この世界で生まれた俺もこの壺と同じように出来る、という事なのだろうか? 最初こそ自信満々、胸を張って『どうだ』とでも言いたげな墨白の表情が俺の引きつった笑みに気付いた瞬間に崩れ去り、慌てた様子で両手を勢いよく振ってみせる。
「ち、違うぞお前様よ! お前様は元々こことは違う世界から来ておるから儂の自由になぞできぬ!」
「お、落ち着いて墨白さん……」
縋りつくように俺の両腕を掴む墨白をどうにか宥めようと声をかける。それに脅しのように感じた事が勘違いである事にはすぐに気が付いた、そもそも彼女は鬼なのだから世界の常識とやらを使わなくても俺を好きなように出来るではないかと……ここまで彼女の好意に甘えておきながら、卑屈な考えを捨てきれない自分にほとほと嫌気がさす。
「変な勘違いしてごめん墨白さん、ところで……一つ聞いてもいい? これ……なんか変じゃない?」
「……うん?」
がっしりと抱き着いてしまっている墨白が顔を上げ、俺と同じく床に視線を向ける……そこには一面に割れた壺の破片が散らばっている、のだが細かい破片が墨白の草履風のスリッパにはかかっている割に俺には一粒もかかっていない……というか割れた瞬間、大きめの破片が俺の足元に飛んできたが当たる事無く避けるように滑って今は俺の後方で停止している。
「ああ……お前様が来た時にこの家、というかこの世界に新たに常識を一つ追加したんじゃ。この世界にある物がお前様を傷付けんようにな、壁にぶつかろうがタンスの角に足の指をぶつけようがこの世界にある物がお前様に痛みを与える事は無い」
相変わらずこの鬼はとんでもない事をサラッと言う、再び抱きつく事に専念した墨白を抱きとめながらチラリと足元の破片に視線を落とす。
「この世界にあるものが……」
ボソリと呟くと片足だけスリッパを脱いで意を決し、素足で破片を思い切り踏みつける……! しかしやはりというべきか痛みは無く、足の下の破片はまるで発砲スチロールのような柔らかさへと変化している。
「なーるほど……」
経験に勝る説得力は無しというやつだ。モヤモヤとした思いはすっかりどこかへと消え失せ、いつの間にか俺の心には腕の中の彼女や世界そのものへの興味が強く芽吹いていた。