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第六世 火照る指切り

 跳ねた、無言のまま激しく水飛沫を上げながら。

 本当に驚いた時は声が出ないと言うがあれは本当のようだ、慌てて浴槽内を数歩後退り両手で股間を押さえるが驚かせた当の本人は水飛沫をモロに浴びたのか顔や髪が濡れているが一切気にする様子も無く、手にしたタオルでどこかを隠そうという気も無いらしい。


「くふっ、それだけ元気に動かせるなら問題は無さそうじゃな」


 これがもし紳士なら即座に彼女に背を向けて見ないようにするのだろう、しかし俺は紳士ではないので彼女の肢体から目を離せずにいた。

 黒い着物からも覗かせていた白い肌は今や湯気のせいかほんのり赤みがかり、起伏こそ少ないがそれが逆に彼女の存在そのもののの魅力を際立たせているように思える。


「お前様よ? そのように風呂より熱い視線を向けられてはいくら儂といえどのぼせてしまいそうなんじゃが?」


「ご、ごめん!」


 軽く胸に手を添え、意地悪な笑みを浮かべながら小首を傾げる墨白を見てようやく理性が働いたのか視線が彼女の裸体から外れた。

 本当に何をしているんだ俺は、欲望に正直なのは生きている間ずっとそうだったが今彼女に嫌われてはここにもいられなくなるかもしれないというのに!


「よいよい、ここで何をしてもよいと言ったのは儂じゃし……無論その対象には当然、儂も含まれておるしのう」


 ここを追い出されるかもしれない、そんな考えが頭を掠めたせいか背中に冷たいものが走ったが墨白はけらけらと笑うと数度頷くと浴槽に入り、肩まで浸かって俺と同じように息を吐き出すと恐る恐る視線だけを戻した俺に向かってニコリと笑い、手のひらを広げて右手を伸ばした……というか今、彼女はとんでもない事を口にしなかっただろうか?


「……とはいえ今のお前様はまだ万全ではない、まずは儂と一緒にゆったりと湯に浸からんか?」


 あまりに魅力的な誘い、断れる訳が無い。

 股間の防御力を半減させながら差し出された彼女の手を握り……間違っても触れないよう慎重に隣に腰をおろすとしばらくは静寂が辺りを包みこんだ、聞こえるのは時々長く吐き出すお互いの吐息と体の動きに連動して揺らめく湯の音のみ。

 沈黙に耐え切れなくなったのか彼女はあまりにも何でも受け入れてくれるので心のどこかで調子に乗ったのか……むずむずと口が言葉を紡ぎたがり、やがて我慢出来なくなってしまう。


「俺って……死んだんだよね?」


「うむ、最初こそ激痛に悶えておったがやがて静かになり……ほんの僅かに痙攣し、事切れた。随分と怖かったろうに……よく頑張ったのう」


 想定通りと言うべきか……唐突な質問にも気分を害した様子も無く答え、わしゃわしゃと彼女の手が俺の頭を撫でた。頭を撫でられるなど何年ぶりだろう……あんな事をして褒められるなんて異常なのは間違い無い筈なのに、堪らなく喜んでしまっている自分がここにいる。


「……でも、あの時の感覚……っていうか記憶? がおぼろげっていうか……イマイチ思い出せないんだけど、何でか分かる?」


「ああ、それは恐らくお前様の脳の自己防衛じゃろうて。鮮明な記憶を持ったままでは刃物に対して強い苦手意識が残ってしまうからのう」


 儂は記憶はいじっておらぬしな、と続けた墨白の言葉にすんなり納得してしまった。

 要するにトラウマとなる可能性を回避した訳だ、確かにこの先がどうなるか分からないが刃物を扱えない状態では料理もままならないだろう……片手を顎に当て数度頷いているとふと視線を感じた、何事かと振り向くと墨白が何かを求めるような目でこちらを見つめているではないか。


「のう、実はずっとやってみたかった事があるんじゃが……いいかのう?」


 ずい、と俺の膝に手を乗せながら前のめりに問われた主語の無い願いに首を縦に振る以外の選択肢など無かった。




 鬼、英語で言えばデーモン……もしくはオーガ、つまりは悪魔だ。

 童話では悪役で登場する事ばかり、悪魔というもっと広い括りにすれば数も膨大になり物語も多いのだろうが結局のところはその名の通り悪と表現される事の方が多いのだろう。


「……どうじゃ、痛かったりせぬかのう?」


「あ……うん、平気」


 しかしこの背後の悪魔ときたらどうだ? 鼻歌交じりに髪を洗ってくれるなんて物語を俺は聞いた事がない……そもそもとして彼女の言動といい行動といい、風貌以外に鬼っぽくないと言った方が正しいか。

 というか今の俺の状況は一体何なのだろう? 鬼に捕まったと言えば正しいのか助けられたと言うべきか……俺を甘やかしたいという彼女の言葉は魅力的だが、まさか本当にそれだけという事は無いだろう……多分、だが。


「そういえば俺ってこれからどうなる……っていうかせっかく呼んでくれたんだし、何かして欲しい事とか……あるんじゃ?」


 言葉を選んでいたせいかしどろもどろになってしまった。そんな俺の言葉に髪の中を蠢いていた十本の指の動きがピタリと止まり、ふむ……と墨白が小さく唸る。


「して欲しい……そうさな、とりあえず最低でも一週間は安静にして欲しいかのう? 自分では不自由なく体を動かせておるつもりじゃろうが今のお主の体は本調子とは程遠い、しばらくは食って寝て体力の回復に専念じゃ」


「……え、それだ……けっ!?」


 想定外の墨白の言葉に思わず顔を上げて聞き返そうとした俺の背に墨白の体がピッタリと寄り掛かった、首越しに右腕をピンと伸ばしてシャワーのレバーを操作しようとしているのはすぐに分かったが届いていないし何より背中に当たるプニプニとした感触は非常にマズい、今の俺は本調子では無いとのことだが一足先に調子を取り戻したやつがいるらしい。


「よしっと……お前様よ? 泡を流すゆえ、頭を少し……もう下げておるな」


 丁度良い温度のお湯を吐き出し続けるシャワーを片手に握ったまま墨白が首を傾げている気がする。何を疑問に思う事があると言うのか、確かに俺は先程よりも前屈みだがそれはあくまでも洗髪の最終段階に備えて染みついた習慣であるし、何なら前屈みになった事でシャワーに手が届いたのだし……誰に向けるでもない言い訳を脳内でぐるぐると繰り返していると不意に温かいお湯が勢いよくかけられ、細く白い十本の指が丁寧に髪から泡をこそぎ落としていく。

 もし疲労が限界な時であればこれだけでウトウトしてしまいそうなくらいに気持ちがいい、しかしこの背中に刺さる視線……笑い声を噛み殺し、どういじってやろうかと思考を巡らされているようにしか思えない……どうか願わくば、この妄想全てが気のせいでありますように……!


「……ああそうだ、お前様よ?」


 願いが届いたのか何事も無く洗髪が終わり、顔に残った水分を拭ってもう一度浴槽に戻ろうとすると前を歩いていた墨白がピタリと足を止め、こちらに振り向いた。

 今度はしっかりと顔を逸らしてタオルで前を隠す、鬼と人間の文化の違いなのかもしれないが……今後の事を考えると隠す努力をして頂きたい、何より俺の心と体の一部の平穏の為に!


「今しがた儂はお主に激しい運動は控えるように言ったが……別に少しぐらいなら構わんからな?……くふふっ」


 いつの間に移動したのか吐息がかかるぐらいの距離まで迫ってきた墨白の白い指が一本、脇腹の辺りを胸に向かってなぞっていく……思わず身震いしながらハッキリと思い出す、俺の願いなんて神様に届いた事は一度として無いのだった。

 ……とはいえ、これまでの不幸も全て彼女と出会う為だったとすればどうだろう? 今もなお鋭い爪の先で肌をひっかいては俺の反応を見て嬉しそうに少しいやらしい笑みを浮かべる彼女、共に過ごした時間は一日にも満たない筈だがするりと心の奥まで滑り込んで来る彼女に嫌な気持ちが湧く事は無く、我ながらちょろいと言わざるを得ないが彼女に対して明確な好意の感情を抱いている事は最早誤魔化しようが無かった。




「──ああお前様よ、あれは見たか?」


 どうにか風呂を終え、脱衣所から出ると墨白が廊下の右側……連なって並んでいる大きな丸い窓の一つの前で立ち止まった。


「もちろん」


 窓の前で墨白の隣に並び、外を覗き込む。来た時と変わらず赤や黄色、そして元々の青々とした緑が鮮やかな竹林が風に(なび)いて揺らめいている……幻想的なこの景色を独り占め出来るのだからなんて贅沢な窓なのだろう。


「紅葉、と言うのじゃろう? お前様を通して山々が色付いておるのを見て気に入ってのう」


「なるほど、紅葉……」


 言われてみれば赤に黄色に緑と言えば紅葉の景色と言えるだろう、しかし……思わず小さく吹き出してしまい、墨白が不思議そうに首を傾げている。


「どうしたのじゃ? お前様よ」


「本当に凄いなって思って、この屋敷を建てたのもあの硝子玉(がらすだま)も墨白さんが作ったんでしょ?……まるで魔法使いだ」


「くかかっ! 魔法使いときたか、褒められて悪い気はせぬのう。とはいえ一つだけ訂正しておこうかの、この家もこの世界も確かに儂の手によるものじゃが……あのスフィアは違う、あれは儂が露店でたまたま見かけて買ったものじゃよ」


「そうなんだ、露店で……露店?」


 すんなりと飲み込んでしまいそうな言葉に何か引っかかりを感じて墨白の方へ顔を向ける、彼女が言うにはこの世界に俺達以外の生物はいない筈だ。


「うん?……ああ、案ずるでない。確かにお前さんを見つけたのはたまたまじゃが、一目惚れというのは本当じゃぞ? むしろたまたまである事が一種の運命とも……」


「じ、じゃなくて! 露店なんてあるの? ここに?」


 何故か誇らしげに話す墨白の言葉に被せて詰め寄る、どうしてこの鬼はこっちまで照れてしまうような事を平気そうに言えるのか。

 一瞬きょとんとした墨白だったがすぐに俺がどこに疑問をもったのか理解したらしくニヤリと笑い、ピンと伸ばした人差し指で自らの顎をトンと叩いてみせる。


「そっちも案ずるでない、儂の知っている事はゆっくりと時間をかけて全てお前様に伝えるでのう。それに……そう遠くない内にお前様を連れて行く事になるじゃろうしな」


「連れて……って、どこに?」


「そうさな……『あらゆる場所に繋がる世界』とでも言っておこうかの」


 そう言ってニコリと笑う墨白に何故か俺は更に疑問をぶつける気が失せてしまった、聞けばきっと彼女は答えてくれるだろうが……そうすると単純に、明日の話題が一つ減ってしまうような気がしたからだ。


「……ちなみにだけど墨白さん、竹の紅葉は……っていうか紅葉で木の部分の色は変わらないよ?」


「なにっ!? そうなのか!?」


 どうせ一度失った命だ。全てが嘘で彼女に食われるならそれもよし、彼女に振り回されるでもよし。

 ──本当に彼女の言葉通り共に生きられるなら、更によしだ。




 発作で気絶した俺が運び込まれた場所であり、食事の場でもある囲炉裏の間から襖をあけて廊下に出て右手に伸びる廊下を真っすぐに進むと突き当りが墨白さんの部屋、そして左に曲がった次の突き当りが俺にあてがわれた部屋だった。

 他の部屋と同様に綺麗な畳の敷き詰められた純和風の部屋かと思いきや頑丈そうなソファが壁に沿って鎮座し、恐らくは竹で作られているのであろう衝立の奥には畳で出来たベッド……黒い木製の天井には幾何学模様のように磨りガラスが埋め込まれており、そこから落ち着くオレンジ色の光が部屋全体をほんのり薄暗く照らしている……どうやら墨白はこういった雰囲気が好みらしい、俺自身もこういう雰囲気は好きだし高級旅館顔負けであろうこの部屋が自分の部屋になると思うだけでテンションが上がるが……しかしそれにしては物が少ない。

 ソファの脇には小さなテーブルと香炉が置かれているが今上げた以外の物は本当に何も無く、そのせいでただでさえ広い部屋が余計に広く感じる……キョロキョロと部屋を見回す俺を見かねたのか墨白が声を上げながら笑いだしてしまった。


「くふっ、とりあえず必要そうな物は揃えておいたが……他はお主の好きな物を置くがよい、もし気に入った物がこの屋敷にあれば持ち込んでも構わんぞ。ああ……そこの扉から洗面所や厠に繋がっておるからの」


 指し示された部屋の隅の扉を開けるとその言葉通り黒い洗面台が照明をじんわりと反射する綺麗な洗面所があり、脇の扉を開くとトイレもある。

 歯ブラシなども一通り用意してあり正に至れり尽くせり……見よう見まねだと墨白は謙遜するが、現実世界での自分の生活水準を軽く超えるこの部屋を見ているだけで変な笑いが出てくる。


「お前様よ」


 背後からの声に振り向くと墨白が小さく笑みを浮かべて立っていた。右手を軽く浮かせ、ピンと小指を立てている。


「まだ分からぬ事も多くて不安じゃろう……もしかしたら儂の事が怖いと思っておるかもしれぬが今はそれでも構わぬ、じゃが敢えて言わせておくれ。儂はお前様の味方じゃ、お前様にだけは嘘はつかぬし、いずれ全ての不安を取り除いてみせると誓う」


「お、おぉ……うん」


 まるでプロポーズか何かのような言葉に思わず間抜けな声が口から漏れた、恥ずかしさ半分困惑半分で反射的に伸ばした右手の小指を彼女の指に絡めると当の本人は恥ずかしさなど欠片も無いかのように満足そうに笑みを浮かべている。


「本音を言えば多少お前様を困らせても同衾(どうきん)したいところじゃが……今は我慢するとしよう。何かあればいつでも儂の部屋に来るがいい、部屋の場所は覚えておるな?」


 覚えているも何もこの部屋を出て突き当りだ……忘れる筈が無い。もちろん、と頷くと墨白も同じように頷いて絡め合った二本の小指に自らの唇を押し当てる。


「ではおやすみ、お前様よ。改めて、これからよろしく……じゃ」


「……おやすみ」


 名残惜しそうに小指が離され、ひらひらと手を振りながら部屋を後にした墨白の扉を閉める音でようやく緊張の糸が解けたかのように体が動かせるようになり床にへたり込む。

 空気に触れるとひんやりと冷たい小指に反して顔や胸は激しく熱を持っている……長い一日だった、どうやら今日はまだ眠れそうにない。

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