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第五世 心に触れて

「どう、どう……やって?」


「んぅ?」


 どのくらいこの白く柔らかい手を握り、耳で吐息を感じていただろう……どもりながらもようやく絞り出した言葉に彼女が小首を傾げているのを吐息の当たる位置が変わった事で理解する。


「どうやって俺の事を……鬼って人に化ける事も出来るとか?」


「くふっ……面白い事を言うのう、人に化ける事は……出来なくも無いじゃろうが、人の世界はちと面倒な構造をしておってな」


「……面倒?」


「うむ、お主ら人の住む世界は『現実世界』というのじゃが……そうさな、簡単に言えば規模に対してかなり閉鎖的と言えば分かりやすいかの? 外からは入りづらく、中から出る事は容易い事では無い……故に人は現実世界の中でばかり輪廻を繰り返す」


 ここに来てからというもの目にするもの耳にする事全てが新鮮で噛み砕くのにどうにも時間がかかってしまう、再び黙ってしまうものの肩に乗った軽く小さな頭が俺を急かす言葉を漏らす事は無い……何も言わずに俺の小指をつまみ、曲げたり伸ばしたりして遊んでいる。


「なら……俺はどうしてここに? 出るのも難しい、んだよね?」


「本来はな、というより現実という世界の一側面のみが全てであると誰もが無意識に思い込んでおるのが原因かもしれんが……まぁその事は今はよかろう、お主と儂をずっと繋いでおったのはな……」


 言葉を一旦区切り、俺の顎を右手の人差し指と親指で軽くつまんで自分の方へ顔を向けさせると左手の人差し指と中指をピンと伸ばしてニヤリと笑い……こちらを見つめたまま自らの右目に突き刺したではないか!


「なっ……!」


 唖然とする俺をよそに二本の白い指がもぞもぞと動いている、やがて何かを見つけたのか指の動きが止まり……ゆっくりと引き抜かれていく。


「あったあった……長い事入れておったからのう、どこに置いたか忘れてしもうたわ」


「そんなコンタクトじゃあるまいし……っていうか怪我は!?」


 思わず膝立ちになって前のめりになり、墨白の頬に手を添えて上を向かせて明かりで目の状態を確認しようとするが……ぱちくりと瞬きをする両の瞳はしっかりと俺の姿を捉えており、怪我どころか血の一滴すら垂れていない。


「おや……急に随分積極的になったのう、よいぞよいぞ……これから儂は何をされてしまうんじゃろうなぁ?」


 目を細め、心底嬉しそうに笑みを浮かべながら伸ばされた真っ赤で小さな舌先がぺろりと唇の傍に置かれた俺の親指の先を舐めた、ぎくりと体が跳ねて仰け反るように後退る。


「ごめっ……別にそういうつもりじゃ……!」


「どんなつもりでも構わんのじゃがなぁ、夫であるお前様が妻である儂の身体を好きにするのは当然の権利であろう?」


「いや、多分そんな事は無いんじゃ……それは?」


 俺の言葉につまらなそうに口を尖らせる墨白の左手には小さなガラス玉が二本の指の間に収まっていた、大きさはちょうどビー玉ぐらいだろうか。


「レコードスフィアという。人であろうが虫であろうがあらゆる命を繋いでその一生を映し続ける道具でな、コレを通して儂はお主の事を見続けておったという訳じゃ」


「これで……」


 そっと手渡され、手のひらの上で光を反射し続けるそれはガラス玉よりも遥かに軽く……少しでも力を込めて握れば途端に割れてしまいそうな気がする。


「これはな、一生を映す道具であると同時に一種の道標でもあるんじゃ。対象の死後、魂が本来の輪廻の輪に戻るのを良しとするか……もしくはこちらに呼び寄せるか、どちらかを選ぶ事になる」


「じゃあ……」


 スフィアを転がす手の上に白い手が重なると卵の殻が砕けるような小さな音が二つの手のひらの間で響いた、粉々になったスフィアの欠片が風も吹いていないのに意志を持っているかのように手の隙間から飛び立ち……囲炉裏の火の中へと飛び込んでいく。


「全て見ておったよ……お主の善行も悪行も、喜びも悲しみも。ほんの瞬きの長さでしかない筈なのに随分と長く、もどかしい時間じゃった」


 両手を広げた墨白がゆっくりと迫ってくる……やがてその両手はしっかりと背中に回され、彼女の全身と隙間無く密着する。

 自分のものではない体温がここまで心地良いとは思わなかった、今感じている鼓動は俺の体から発しているものなのか彼女の体からのものなのか分からない……分からないが、このまま時が止まってしまえばいいとすら思える。


「儂のエゴでお前様を輪廻の輪から外した事は本当にすまないと思っておる……じゃがずっと見ておって、どうしても……どうしてもお前様だけは儂が甘やかしたいと思ってしまった、愛してやりたいと思ってしまったんじゃ……」


 背中に回された十の指が背中に食い込むこの感触を、俺は一生忘れないだろう。

 仮に全てが嘘だったとしても、悪鬼が見せた束の間の夢だったとしても構うものか……こうして感じている温かさも今にも口から溢れ出そうな幸福感も、俺が人生の中で求め続けたものなのだから。




 ひとしきり泣き、ぐしゃぐしゃになった顔を袖で拭っている俺を見かねたのか墨白が風呂に入る事を提案してくれたので深く考えずに同意すると布団が敷いてある部屋から和柄のタオルを一つ手に戻って来ると風呂場への道順を教え、着替え等を用意すると言い残して部屋を出ようとする墨白に俺が一人で屋敷内を歩いてもいいのかと問うと馬鹿な事を言うなと笑い飛ばされて座ったまま見上げる俺の鼻をピン、と軽く弾いた。


「……嬉しいけど、どこで何をしてもいいってのはさすがに大雑把だよなぁ……」


 弾かれた鼻を片手で擦り、思わずニヤリと口角が上がってしまう……気持ちが浮ついている自覚はあるが、こんなにも女性に受け入れられた経験が無いからかどうにも抑えられない。


「それにしても静かだな……」


 墨白の話ではここには虫一匹いないとの事だったが……さすがにあれは何かの比喩だろう、湖から見えたあれだけ立派な森もあるのだし生態系が無いとはとても思えない。


「まぁ鬼がいるんだからビビって出てこないだ……け」


 そんな事を考えながら廊下の角を曲がり……言葉を失った、まっすぐに伸びる木製の廊下を挟んで左側には大きく円形に格子の埋め込まれた窓が連なっており、そこから紅葉のように深い赤と鮮やかな緑に輝く竹林が窓の向こうで風を受けてその身を揺らしている。

 窓から差し込む幻想的な光を受ける廊下の向かいには金色の襖が連なっており、こちらもまた現実離れした美しさを放っているではないか……生きている時にこんな事を考えた記憶は無いが、今カメラを持っていない事が心から悔やまれる。

 まるで博物館にでもいるかのようにキョロキョロと左右を見回しながら廊下を進んでいくと突き当りに大きく鳥が描かれた扉にようやく気付いた、墨白に教えてもらった浴室の扉だ。

 カラカラと音を立てて俺を迎え入れた先は脱衣所だった、これまた広く……大の大人が五人同時に入っても余裕だろう、着替えを置くのであろう棚も中央に鎮座する恐らくは休憩用のベンチも洗面台も全てが黒っぽい木材や石で統一されており、先程の廊下とは違うモダンな雰囲気が昂ぶった気持ちを落ち着けてくれる。


「おっと……」


 適当な棚の前で服を脱ぎ、出来るだけ綺麗に畳んでみたつもりだがお世辞にも綺麗とは言い難い姿にしかならない。

 これ以上俺が手をつけたところで好転はしないだろうと諦めてタオルを片手に浴槽への扉のノブを握り横へスライドすると僅かに開いた隙間から熱気を孕んだ湯気が飛び出し、仰け反った俺の頬を舐めた。

 脱衣所の空気に冷やされたのか薄くなっていく湯気と開いたままの扉から香る檜の匂いに誘われるように浴室内へと歩を進める……ほどよく温められた空気に全身を包まれながら後ろ手に扉を閉め、辺りを見回して思わず笑ってしまう。

 壁も天井も炭のような黒い木材で覆われてはいるが閉塞感などは無く、天井を覆う(はり)から間接照明のようなオレンジ色の光が浴室全体を照らしており、むしろ柔らかい印象を受ける。

 何より新鮮なのは床だ。びっしりと張り巡らされた青々とした畳、少しザラついているので水場用なのかもしれないが……そんな畳で出来た十数段ほどの階段が目の前に伸び、右側に設置された手すりから下を覗くと木枠で作られた大きな浴槽が見えた……恐らくはこの濃厚な檜の匂いの元だろう。

 肺を檜とい草の匂いで満たしながら階段を下りる、やってる事といえば家の中を歩き回って風呂に入ろうとしているだけだが小さな冒険でもしているような気分だ、墨白の言葉を素直に受け取って屋敷中を探検してみるのもいいかもしれない。




「ふぅー……」


 何故かご丁寧に二人分並んでいた洗い場の温かいシャワーを浴び、広い浴槽にどっぷりと浸かると全身の疲労が長い吐息となって立ち上る湯気に混ざっていく。

 考えが多すぎて目まぐるしい時間だったがこうして全身にお湯を染み込ませながらぼんやりと天井を眺めていると体内の時間の感覚が徐々に戻っていく気がする。視線を落とし、お湯から右手を持ち上げて握り拳をつくり……ゆっくりと開いてみる。

 ──俺の体だ、手も足も自由自在に動かす事が出来るし考え方も生前と変わっていない……と思う。


「でも……死んだんだよな、俺」


 腹部を軽く擦ってみる……が、傷痕は無い。

 どの辺りを刺したんだったか……激痛に苦しんだような気がするが記憶がぼんやりとしていてハッキリ思い出せない、そんなに時間は経っていない筈なのに。

 ふと俺をこの世界へ連れてきた張本人である鬼の顔が浮かんだ。美しい銀髪に二本の角、切れ長の紅の引かれた目に小さいが鋭い牙を持ち、見事に着物を着こなし古風な口調……背が小さいので威厳があるかと問われたら言葉に詰まりそうだが俺を見つめる瞳や言動から発せられる妖艶な雰囲気は思い出すだけで胸が痛いほど高鳴る、そんな非現実的とも言える彼女が俺を……ダメだ、思い浮かべるだけでも顔が熱くなる。


「……墨白さん」


 再び天井を見つめて胸の内に抑えきれなかった名が口から飛び出す、誰に向けたものでもない声は湯気と共に消えゆく……筈だった、ニマニマと笑顔を浮かべながらこちらを見下ろす鬼の顔を見るまでは。

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