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第四十九世 初めての言葉

「……ふぅ、助かった」


 食事中に催してしまい、席を立ったはいいがこの店にトイレがあるのかどうか……そしてそもそもトイレの表記が読めない事を思い出した時はどうなるかと思ったがそれっぽい客を見つけ、後をつける事でどうにか事なきを得る事が出来た……付いて来ようとしてくれた墨白に見栄を張って大丈夫だと言って出てきただけに無事に済ませる事が出来て本当に良かった。

 気になる点と言えば男女表記があると思っていたトイレの扉は一つしかなく、中も綺麗だが随分と人間向けだった事か。


「多分……あれだ、扉の先は種族と性別に適応したトイレに繋がってるとか……なんかそういうあれなんだろうな、うん」


 思えば随分とこっち寄りの考えになってきたものだ、魔法であれ現象であれその都度驚きこそすれ何を聞いても『あり得ない』と思う事は殆ど無くなった気がする……この世界では様々な事が起こりうる、それは良い方向にも悪い方向にもあり得るが……今の俺には心強い味方が五人もいるのだ、何が起きても必ず何とかなるとある程度楽観視出来るぐらいには心の余裕も出てきた。


「……あれ? フィル?」


 トイレへと繋がる通路から月と星明りに照らされた店内へと戻ると本棚に寄り掛かるようにして立っているフィルの姿が目に留まった、薄暗い店内のせいか普段とは少し違う色に見える二色の髪を揺らしながら俺の声に気付いたのかこちらに振り向き、小走りで駆け寄って来る。


「良かった、場所が分かるかなって思ったんですケド……無事に辿り着けたみたいですネ!」


「ちょっとウロウロしたけどね、ってまさかその為に来てくれたの?」


「ハイ……えっとそれも、あるんですケド……」


 なんだろう? 歯切れが悪いと言うか顔も赤いし妙に体をくねらせている……。


「っ!」


 いつもであればどうかしたのだろうかと首を傾げるところだが今日は違う、食事処に加えてこの通路の先にあるものとヒントが並べばさすがの俺でもピンとくる。


「あっ……そうか! ありがとね、俺はもう大丈夫だから行って来なよ!」


 トイレの前でどうしたのだろうとはさすがに愚問が過ぎた、男の俺にはあまり無い感覚だがフィルは幼いところはあってもやはり立派な女性だ、俺に悟られるのは恥ずかしいのだろう……みんなの待つ部屋の場所は分かるので礼を言いつつ先に戻ろうと数歩踏み出したところでぐっと後ろから服を掴まれ、引き戻された。


「ちっ……違いマス!」


「え、違うの!?」


 赤らんだ顔、トイレの前と答えを示すヒントは揃っていた筈なのに……驚きながらも足を止め、再びフィルと向き直る。


「あの……人間サンってこっちの言葉はまだ、全然分からないんですよネ?」


「言葉? そうだね、露店とかに書いてある文字とか……ほら、そこの本のタイトルとかも全然分かんないよ」


「……その本のタイトルはワタシにもちょっと難しいデスけど、それなら一言だけ……練習してみませんカ?」


 おずおずとフィルが差し出したのは一枚の小さな紙だった、何も書かれていない無地の白い紙……ずっと手に持っていたのかほんのり温かく、心なしかしっとりとしている。


「書くの? いいけど……戻ってテーブルの上の方が書きやすくない?」


「い、イエ! ここで、ここで書いてくれません……カ?」


「わ、分かった!……それで、何を書けばいいの?」


 ずいっと前に踏み出し、ぐっと顔同士が近くなったことに鼓動を早めながら一歩後退る……フィルがここまで積極的なのもなかなか珍しい。


「えっと……これ、デス」


 俺に渡した紙を再度受け取り、本棚から突き出した僅かな出っ張りを頼りに紙に何やら書き込み……再び手渡された紙には真ん中に縦の折れ目が付いており、左半分に文字が書かれている。


「おぉ……これを真似すればいいの?」


「ハイッ! お願いしまス!……あ、ペンはこれを使ってくだサイ」


「分かった……ちなみにこれ、悪口とかじゃないよね?」


「人間サンにそんな事、絶対言いまセン!」


「あはは、ごめんごめん」


 ぷりぷりと頬を膨らませるフィルに背を向けて彼女と同じように本棚の出っ張りに紙を広げた、やはりというか……俺の知っている文字とは似ているようで全く違う。

 平仮名の『く』に似ているが向きが反対で上下が丸で覆われていたり、縦線の上下に二本の横線が引かれていたり……文字というよりはまるで絵だ、考えてもみれば俺の知っている文字も元は何かの形なので恐らく理屈は同じなのだろう、何が元なのかについては全く想像もつかないが。


「こうして……ここが、こうで……?」


 見本を見ながらでも知らない文字というのはやはり書きづらく……何故か小学生の頃にやった同じ漢字を何度も書く宿題を思い出した、フィルの字は綺麗なので分からないという事はさすがに無いが真似ているだけなので頭に入っている気は微塵もしない。


「こ、こんな感じ……?」


 結局、フィルの三倍以上もの時間をかけて書いた字は線もガタガタだし何度も書き直したせいで太さもバラバラというひどいものだった……受け取ったフィルは紙をジッと見つめているがその表情は無でもなければ怒っている訳でも呆れている訳でもなく、感情が読み取り辛い。


「下手でごめん……なんせ、こっちに来てから初めて文字を書いたからさ」


「初めて……そう、デスか」


 俺の言い訳にボソリと返事を返すと手のひらにも満たないサイズの小さな紙を両手で抱き締めた、慈愛に満ちたその表情に思わず呆気にとられてしまう。


「やった……嬉しい、本当に嬉しいデス」


「あの……フィル? その文字って、なんて書いてあるの……?」


「これですか?……ふふ、ワタシの名前……『フィル』ですヨ」


 なんという事だ……彼女は自分の名前を俺に書かせて、あまつさえそれを愛おしそうに抱き締めているというのか……いじらしいという表現が合っているのか分からないが、胸の奥がひどくむずむずする。


「その紙とペン……もう一度貸してくれる?」


「いいデスけど……ワタシの宝物なので、意地悪は嫌……ですヨ?」


「しない、絶対しないから」


 そっと両手で手渡された紙をひっくり返し、もう一度本棚の出っ張りの上に広げる……全く、墨白といいフィルといい俺や汚い字なんかを宝物などと……どれだけ俺の胸の中をざわつかせたら気が済むのか。


「……はい、ありがとね」


「コレは……なんて書いてあるんデスか?」


 フィルの宝物の裏に落書きしたのは俺が現実世界で何度も書いた文字列だった、宝物などと思った事も無い……ただの俺自身を表すだけの文字の列。


「俺の名前だよ、こっちの言葉は分からないから……現実世界での文字だけど」


「っ……! 嬉しいデス……! たくさん、たくさん練習しますネ……!」


 目の端を潤ませながら俺の名前の書かれた紙を抱き締めたフィルから思わず目を逸らす……これは、思っていた以上に恥ずかしいかもしれない。


「さ、さぁてそろそろ皆の所に戻ろうか……随分と遅くなったし、心配してるかも」


「ハイ……そうデスね!」


 二人の名前の書かれた紙を小さく折り畳み、大切そうに懐にしまうとフィルが俺の手を握った……その手は柔らかく、確かな熱を帯びていた。

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