第四十三世 三つのイレギュラー
「っ……」
何か穏やかな夢を見ていた気がする、誰かに抱き締められて常に守られているかのような……この感触は誰のものだっただろう? 目を閉じ、何も無い真っ白な空間でぼんやりとそんな事を考えていると不意にこめかみの辺りに針で刺されたかのような痛みが走り、思わず顔をしかめてしまう。
「お前様……!?」
妙に重い瞼を開くとぼんやりとした視界の中で白い影が素早く動き、俺の頬に手を添えた。
何度か瞬きをしているとぼやけも段々と晴れ、視界がはっきりとしてくる……ああ、この俺だけの赤い月には間違いなく見覚えがある。
彼女に何か言いたい事があるのだった、その一言を言う為に随分と頑張った気もする……そうだ、今度はちゃんと思い出せた。
「……ただいま、墨白さん」
「ふぐっ……ああ、ああおかえりお前様よ……!」
大好きな二つの赤い月が細められ、潤んでしまった……胸に顔を沈め、痛いほどに抱き締めてくる墨白を抱きとめながら周囲をゆっくりと見回す、出入り口であろう扉のある壁以外に一面硝子かアクリルのパネルが埋め込まれて水槽のようになっておりパネルの向こうでは魚の代わりか時折虹色の線の束や気泡が広々と泳ぎ回っている……まるで水族館だ、どうにか状況を飲み込もうとするが頭の奥が痺れているような感じが邪魔で上手く考えをまとめられない。
「つぅ……!」
「お前様!?」
不意に再び刺すような痛みが頭を襲った、思わず呻いた声が聞こえたのか墨白が勢いよくこちらを見上げて心配そうな表情を浮かべている……何か安心させる事を言わねばと口を開くが、出かかった言葉を遮るように墨白のものではない手がそっと頭の上に置かれる。
「……風重?」
「久しぶり、急にこんな場所で驚いたでしょうけど……少なくとも私と墨白がいるんだから安心でしょ?」
頭に乗せられた手を追うように視線を移動させると、そこにいたのは相変わらずダボついたサイズの大きな服を身に纏う黒髪を短く切り揃えた一人の少女だった……流底世界で漂流物の流れ着く最前線で一人研究を続けていた彼女が何故こんな場所に? 疑問は尽きないが二つの体温が昂ぶりかけた感情を落ち着けてくれているのは事実だ。
「……うん」
「ん、いい子ね。それじゃあ痛みを抑える薬を打つから……腕を出してくれる?」
そう言って風重が俺にも見えるように掲げたのは一本の白い筒だった、注射にしては針が無いし見せられても側面に謎の緑色のメーターがある事しか分からない。
「ん……ん?」
墨白とは反対側、左側に立つ彼女に差し出そうと左腕を持ち上げ……ふと固く握り締められたままの左手に気付いた、意識を向けてみれば手の中には何やら硬い感触もある。
「なんで俺こんな……」
握り締めすぎたのか左手の感覚が鈍い、上手く力の入らない左手をゆっくりと開くと……白いベッドの上に赤い石が一つ、転がり落ちた。
「これって……」
「世界石、貴方が落とされた世界の……ね。ほら、腕出して?」
ぼんやりと風重を見上げていると手慣れた様子で俺の腕に白い筒を押し当て、数秒もしない内に持ち上げた。
「……終わり?」
「ふふ、大きな針が付いてる方が良かった?」
意地悪っぽく笑う風重に向けて激しく首を振るとケラケラと笑われてしまった、依然として状況はよく分からないが居心地は悪くない。
「……お前様よ、お前様の身に何が起きたかは……覚えておるか?」
「ん……ところどころぼやっとはしてるけど、覚えてるよ」
謎の男に騙されて未開世界に落とされた事、塩の降り注ぐ世界に巨大な水車……問題無い、全て鮮明に思い出せる。
「それ、何が起きたか一から教えてって言ったら説明出来る?」
ベッドの脇でしゃがみ込み、こちらを見上げながら問い掛ける風重を見つめながら記憶をもう一度脳内で再生してみる……やはり何故かぼんやりと薄れているところはあるが、それでも辻褄が合わないという事は無さそうだ。
「……大丈夫、出来るよ。今から話そうか?」
「いいえ、それはあの子が来てからでいいわ……一番聞きたいのも、今一番貴方に罪悪感を感じてるのもあの子だろうし」
「……あの子?」
風重にベッドを操作してもらい上半身だけを上げてもらうとようやく部屋の全貌を見回す事が出来た……綺麗ではあるが、この部屋は何も無さすぎやしないだろうか? 見えなかった背面に広がるのもやはり一面に透明なパネルと深い水中ばかり……景色は出入り口以外の三方とさほど変わらず、更には俺が寝ている部屋の中心に置かれたベッドと風重が器具などを並べている小さなテーブルぐらいしか物が無い。
「ここ……どこ?」
「警備局内の特別医療棟よ、ああでも貴方の体に異常が起きてる訳じゃないわよ? 貴方は世界落としっていう事件に巻き込まれたから……一般病棟じゃなくてここに運ばれたの」
「世界落とし……」
初めて聞く名前の筈なのに何故だかその名前には聞き覚えがあった、内容は確かそう……。
「世界落としとはな、お前様を襲ったド阿呆のように故意に……」
「……故意に誰かを未開世界に落とす事、こっちでは最も重罪で……」
俯きながら墨白の声に合わせるように言葉が自然と漏れ出した、二人が驚いたように目を見開いている気配を感じる。
「お前様、どこでそれを……?」
「意味だけなら名前で何となく想像はつくでしょうけど……どうして罪の重さまで……?」
「……分からない」
二人の顔を順番に見比べてみるが……何故こんな事が分かるのか思い当たる節が無い、まるで記憶がダブっているいるかのような妙な感覚だ……。
「……いいわ、何にしてもその事は黙っておいた方がよさそうね」
「じゃな、儂もそう思う」
「え……何で?」
何故喋ってはいけないのか分からず首を傾げていると二人が困ったような表情を浮かべ、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「……お前様よ、今回の一件ではおよそ前代未聞と言っていい出来事が三つ起こっておるのじゃ……一つは指定区域外での扉の出現、二つ目が世界落とし……お前様が何故知っておったのかは知らぬが最も重い罪として名前こそあるが、世界落としには前例が無いのじゃ」
「最後に三つ目が……他でもない、貴方が無事に戻って来た事よ。私達は貴方が魔具やそのスーツを手にしている事も練習した事も知っているけど、周囲に伝わるのは旅人でもない人間が未開世界に落とされて無事に帰還したという事実だけ……しかも犯人も被害者も人間とくれば、好奇の視線を向けられるのは避けられないでしょうね……もちろん、悪い意味で」
「そこらで暇つぶしを探しておるだけの阿呆共ならともかく、警備局の連中に辻褄が合わないと思われたらどれだけの時間拘束されるか分かったものではない……もちろんお前様の抱えておる不安は全て儂らが取り払ってみせる、じゃから今回は儂らに合わせてはくれぬか?」
「……分かった」
悩むまでもない、この部屋はなかなか綺麗だがいつまでも拘束されるなんて御免だ……しっかりと頷くと安心したのか二人がホッと息を吐き出した。
「良かった、それに多少間違えても問題無いわ……あの子も貴方の味方だし、上手く誤魔化してくれるでしょ」
「そういえば、さっきから言ってるあの子って……誰?」
「……ああ、ちょうど来たみたいじゃぞ?」
まるで墨白の言葉に合わせたかのように扉が開き、一人の女性が入ってきた……恐らくは警備局の人なのだろうが外見はどちらかというと軍人という印象が強い。
丈の長いフード付きのロングコートを外側から金属のプレートで補強し、下には金属の糸で編み込まれたチェインメイルを思わせるアーマー付きのハーネスを見に纏い、灰色の髪の向こうからはオレンジ色の鋭い瞳がこちらの姿を捉えている……というか腰に携えてるあれ、金属製の鞘というのも珍しいがどう見ても刀だろう……病室に武器を持ち込むってアリなのだろうか?
「……あ、泣くのう」
「ええ、思ったより早かったわね」
「……え?」
まるでその言葉がスイッチだったかのように入口に立ったままの女性は小刻みに震え出し、刀を床に落としたかと思うと間を開けずに声を上げて泣き始め……それどころか土下座し始めたではないか!
「うわぁあん! 本当にごめんなさいぃ! どうやって会うのかずっと考えてたのに、まさかこんなだなんてぇ!」




