第四世 鬼観世界
食器を片付けてくると言い残して部屋を後にする墨白を見送り、しばらくはただ呆然と天井を眺めていた。
「……俺はどうなるんだ、これから」
ふと湧いた疑問が口をつく、俺の言葉を吸い込んだところで天井が答えをくれる筈も無く囲炉裏では鍋が外されて自由になった火が勝手気ままに揺れている。
──例えばこれが童話ならどうだろう? よくある展開で言えば森で迷子になったところでこの屋敷を見つけて美しい銀髪の少女にもてなされたとしよう、であればその後の展開は哀れにも夜中鬼に変貌した少女に襲われると言うのが無難なところか。
では俺の場合は?……自ら人生を終わらせたと思ったらお湯の張られた桶で目覚め、介抱されながら飯を振るわれ……自分で言ってて訳が分からなくなりそうだ。
「逃げるべき……なんだろうか」
囲炉裏の奥、墨白が通った松の文様が描かれた襖を見つめる……通るのは容易だろうがこの屋敷の構造が分からない以上鉢合わせるのがオチだろう、次にぐるりと部屋全体を見回す……どこを切り取っても感嘆の声が漏れてしまいそうな程に見事に和で統一された部屋だ。
左手の壁には衝立のようなものに紫色の着物が大きく広げた状態で掛けられており、右を見れば床の間に小さな花瓶と香炉のようなものを置かれている……後ろにも襖はあるが俺の目覚めた部屋に繋がっているだけだ、丸い棚付きの窓はあったが記憶が確かならば三方は壁で襖は無かったと思う。
「待たせたの、おや……何を見ておるんじゃ?」
「ん……いや、何をっていうか何か見えるかなって」
結局、俺は逃げ出さなかった……いや、そもそも逃げる事に意味を見つけられなかったと言った方が正しいかもしれない。
ここがどこかも分からないし第一に俺は死んだのだ、帰る場所がある筈も無いし何より俺を片手で持ち上げる程の力をもつ彼女から逃げられる気もしない……あるいはそれすら建前で嘘だったとしても好意を見せてくれる彼女を裏切る気にならなかっただけなのかも、とはいえ黙って大人しく待っているだけというのもなかなか癪なので俺が目覚めた部屋に移動して窓から街灯一つ無い外を眺めていたという訳だ。
「でもまぁ夜だし、何も見えないよね」
「ふむ……例えば何が見えたらお前様は面白いと思うのじゃ?」
「え……なんだろ、あー……花火とか?」
想定外の言葉に面食らってしまいよく分からない返事をしてしまった、鬼なりのジョーク?……それとも本当に意味の無い、ただの雑談だろうか?
「なるほどのう、大きくなるにつれて見に行かんようになったから飽いたのかと思っておったが……うむうむ、お前様の好きが知れるのは嬉しいのう」
「?……それってどういう」
言葉の意味が分からず首を傾げているとすぐ隣に並び、ニヤリと笑った墨白が右手の親指と中指を擦り合わせてパチン、と音を鳴らしてみせる。
変化はすぐに起きた、窓の向こうで尾の長い火の玉が夜の闇の中を天に向かって泳ぎ……腹の奥で響く重厚な音を鳴らして綺麗な花を咲かせた。俺が言葉を失っている間にも次々に花火は上がっては夜を彩り、墨白といえばどこから取り出したのか一本の黒い扇子を閉じたまま楽しそうに揺らしてる。
「たーまやー!……くふっ、ほれほれお前様も言わんか。あれはそういうものなのだろう?」
「……どうして今、花火が?」
「決まっておる、お前様が欲しいと言ったからじゃ」
窓の外ではシャワーのような花火が絶え間無く上がっている……が、もはや花火どころではない俺が見つめている事に気付いたのか墨白も窓からこちらに視線を向け、扇子を広げるとこちらに向けて前髪が揺れる程度にゆっくりと扇ぐ。
「儂はお主の願いであれば何でも叶えてやろうと決めておる、花火の一つ程度造作も無いわい」
「なんでそんな……」
「ああほれ、大きいのが上がるぞ」
俺の言葉を遮り、墨白が窓の外を扇子で指すので釣られて外を見ると宣言通り一回り程大きい火の玉が上がっていき……思わずビクリとなってしまう程に大きな音を立てて巨大な花が夜空に広がった。
「……こうしてお前様と花火を見られる日が来るとは、感慨深いのう」
「今の花火は……墨白さんが?」
しみじみと暗闇を映すだけとなった窓を眺める墨白に疑問をぶつけるときょとんとした顔でこちらに振り向き、やがて小さく笑って頷いた。
「左様、じゃが花火だけではないぞ? その服も料理も……全てはお主を迎える今日という日の為に用意したんじゃからな、他にもあるぞ? 靴や道具、それに──」
「つまり……俺がここに来る事は最初から決まっていたと?」
墨白の言葉を遮って一歩前に詰め寄る、ここまで言われるがままに流されてしまっていたが……いい加減何が起きているのか知りたい。
本気である事が伝わったのか困ったような笑みを浮かべたまま彼女の白い手が俺の服に伸ばされた、思わず身を固くするが何の事は無い……乱れた裾を直しただけのようだ。
「そう怖い顔をするでない……無論、全て話すとも」
座って話そうという墨白の言葉に同意し囲炉裏のある部屋に戻ると、テーブルの上に少し冷めたお茶が置かれていた。
「すっかり冷めてしもうたな……淹れなおそうか?」
「いや、大丈夫……猫舌だし」
「くふっ、知っておるよ」
まただ、彼女は時折こういった口ぶりで話す……そしてそれは事実なのだろう、問題は何をどこまで知っているのか……だ。
「くくく、お主は本当に考えておる事が顔に出るのう……じゃがその疑問に答えるにはまず、この世界について知ってからの方が分かりやすかろう。お前様よ、お前様は『多層世界』という言葉を聞いた事があるかのう?」
「いや……」
素直に首を横に振る、事実そんな言葉は見た事も聞いた事も無い。
「層と言っても重なり合ってるわけでも隣り合ってる訳でもないんじゃが……まぁ平たく言えば世界と言うのは一つではなく数多の命のように際限無く生まれては消えたりしておるという意味じゃな、大きさも性質も様々……人が多く住む世界もあればここのように儂とお主、二人しかおらぬ世界もある」
「二人……だけ?」
「そう、二人きりじゃ……仮に外へ出てもこの屋敷以外に建物は存在せぬし虫けら一匹おらぬ、それがこの世界……名を『鬼観世界』という」
──静かな夜だとは思っていた、それは漠然とここが人里離れた山奥だからだと思っていたが……思わず生唾を飲んでしまいゴクリと小さな音が鳴り、口の中がカラカラに乾く。
一方で墨白はこちらを見つめたまま僅かに笑みを浮かべている、その二つの赤い瞳で値踏みしているのか単に反応を楽しんでいるだけなのか……俺の言葉を待っているのか言葉を区切って頬杖をつく墨白から視線を外し、目の前のグラスの中身を喉に流し込む。
「……ふぅ、それじゃあ例えば……この屋敷の外に出ても何も無いと?」
「いいや? どうにも景色が寂しかったから深い竹林が広がっておるぞ、川も流れておるしほれ……お前様の好きな滝も少し奥まったところにある、時折見に行っておったじゃろ?」
「よく……知ってるね、滝の事もそうだけど他にも色々……」
確かにほんの短期間の正社員時代、時々本当に何となく足を運んでいた場所があった。
大きなお寺の脇道を抜けた先にある滝……苔むした石の道を革靴で歩いたものだから何度も滑りそうになったのをよく覚えている。
懐かしい、などと思いつつグラスに口をつけようとして……思わずぎくりとする、墨白の表情が『待ってました』と言わんばかりにニヤリと笑っているではないか……赤らんだ頬は一見すると恋する乙女のようだが青春映画のような爽やかな恋などではなくむしろ真逆、どろりとした蛇に全身を絡みつかれたような感覚に思わず背筋がゾクリとする。
「もちろんじゃ、儂は全て見ておったからのう」
「え……?……あっ」
想定外の方向から聞こえてきた声に思わずハッと顔を上げると向かい合って座っていた筈の墨白がすぐ隣に並んで腰をおろし、小さな頭を俺の肩にぽんと乗せていた。
「全てって……どういう」
「くふっ……分かっておるじゃろう? 全ては全て……お前様が母君から生まれて育ち、道に迷って自らを終わらせたあの瞬間までずぅー……っと、儂はお前様だけを見ておったよ」
俺の左の手のひらを膝の上で開かせ、そこに自分の手を重ねる。
耳元で囁かれる蕩けるような甘い声に心臓が早鐘を打つのは恋慕故かはたまた恐怖によるものか──脳の奥が痺れ、判断がつかない。