第三十九世 赤い貴婦人
絶えず降り注ぐ塩を片目にどのくらい階段を上っただろうか? チラリと視線を上に向けるが俺達を嘲笑うかのように螺旋階段の終わりが遠い事は一目で分かる。
「灯歪……この階段が終わったら先に鍵、あると思う?」
「どうかな……石の色と世界の広さは関係無いからね、ここを上がり切っても次は延々と塩の砂漠……なんて事もあるかもしれないよ?」
「うげ、それは勘弁して欲しいな」
本当に勘弁して欲しい、少し重くなった足から日ごろの運動不足を痛感しながら視線を脇に向けると手摺に溜まった塩の粒が目に留まった。
確か塩には疲労回復効果があったはずだ、灯歪も舐めていたし毒性があるなら最初に教えてくれているだろう……舌の上に唾液が溜まるのを感じながら指先にほんの数粒の塩をつけ、口に運ぶ。
「あ……うまい」
確かにしょっぱい、しょっぱいがどこか甘みもあり全体を引き締めるように僅かな苦味が後からやってくる。
塩自体もどこかしっとりとしており指によく馴染む、塩は塩でも今まで俺が何気なく使っていたものとは全くの別物と言ってもいいだろう。
「……灯歪、こっちの人達って全員それぞれに多層世界を持ってるのかな?」
「全員とはいかないだろうけど……大抵は持っているんじゃないかな? 例外は勿論あるだろうけど、自分だけの世界があった方がいいって人は多いだろうしね」
世界が丸々一つなので規模としては比べものにならないが買う方も売る方も感覚としては家や土地に近いのだろう、更に一度買えばなんら不便なく過ごせるというのであれば……まず誰だって欲しいと思う筈だ。
「だよね……灯歪も持ってるの?」
「いや、ボクは持っていないよ……今はね」
「……今は?」
「あはは……」
困ったように笑い、それ以降灯歪は一言も発さなくなってしまった……話題を変えようにも周りの景色は変わらず蔦の張った壁や降り注ぐ塩ばかり、一縷の希望をもって見上げてみるが……まだまだ天井は遥か遠い。
「……追い出されちゃったんだよ」
居心地の悪い沈黙をどのくらい過ごした頃だったか、消え入りそうな声で灯歪が呟いた……本当に小さな声だったので少しでも賑やかな場所だったら聞き逃してしまうところだ。
「追い出されたって……どこから?」
「元々ボクが住んでいた多層世界からさ、ボクの一族は受け継ぐ形で一つの多層世界を管理し続けていてね……一つ前がボクの代だったんだけど、大きなミスをしちゃってね」
「ミス、って……何をしたにしろ、世界から追い出すなんて……」
信じられない、仕事を辞める事になったという事であればまだ納得も出来るが住んでいた場所を……世界から放り出すなんて事があっていいのだろうか? 言葉にならない憤りを俺の表情から感じ取ったのかしばらくこちらを見つめていた灯歪が小さく笑った。
「……ううんごめん、やっぱり一つ訂正するね? ボクは失敗したかもしれないけど、やろうしていた事……それ自体はミスなんかじゃない、間違いなく正しかったよ」
「……?」
一段先に上がって振り向き、俺の頬に手を添えてニコリと笑う灯歪の言っている事が理解出来ずポカンとしてしまう、その事も恐らく伝わっている筈だが灯歪は何も言わない……理解出来ずともいい、という事だろうか?
「ま、とにかくそんな訳だから今のボクはひどく曖昧な存在ってことさ! もっと大手を振って君に会いに行きたいのにこういう不確かな場所でしか君に会えない……あ、どこでも飛んでいきたいっていう気持ちに嘘は無いからね?」
「そこは別に疑ってないけど……それより、俺に何かして欲しい事とか無いの?」
話の半分も理解出来ているか怪しいが聞く限りでは灯歪の方が状況としては悪いように思える、助けに来てくれた恩もあるのだから何でもすると胸を張って言い放ったが彼女は優しく微笑み、ゆっくりと首を振った。
「無いよ、何も無い……あるとすれば君が元気に生きて、時々でいいからボクの事を脳裏に掠めるだけでいいかな」
「何でそんな……最初にも言ったけど、灯歪の事を忘れたりする筈無いだろう?」
「ふふっ、そうかもしれないけれど……意外と難しい事なんだよ? それよりほら、上が見えて来たみたいだ」
笑みを浮かべ、灯歪が指差した先を見上げると確かに遥か遠くだと見上げていた天井──螺旋階段に蓋をするように円状に広がっていた硝子の天井がすぐ目と鼻の先に広がっている。
「うん、大丈夫……歩けるみたいだよ」
まずは自分がと階段の終わりから硝子の床に足を乗せて灯歪が頷いた、ブーツの踵が硝子を叩く度に辺りに石の段を踏んだ時とは違う軽く澄んだ音が響く。
「う……っく」
「ふふ……ほら、大丈夫だからこの手を掴んで?」
何故磨り硝子とかではないのか、何故ひび割れたり少し汚れた石段と違ってこの硝子だけは何も無いように見える程に磨かれているのか……一歩踏み出す事を躊躇している俺に伸ばされた灯歪の手を取り、何度か深呼吸をして爪先で床がある事を確認し……慎重に体重を乗せる。
「……お?」
この硝子の床は見た目以上に厚みがあるのか片足を乗せただけでもずっしりとしているのが分かる、ならばともう一つの足も乗せ……軽く足先で床を突いてみる、鈍く響きこそすれ頑丈さはこれまでの石段と同じかそれ以上のようだ。
「ね、大丈夫だったろう?……それにほら、あんなものがあるんだしさ?」
「まぁ……確かにね」
苦笑しながら視線を向けた先には部屋の中央に鎮座する綺麗に磨き上げられた石の花壇で咲き誇る一輪の花……と表現するにはあまりにも巨大な花が咲き誇っていた。
高さは三メートル程はあるだろうか? 花弁の形も外側から内側にかけて違い、外側の花弁は大きく広く伸びて茎を隠すかのように垂れ下がり、中心の花弁は小さく細かいものが盛り上がって帽子のよう……その外見はまるで貴婦人を模しているかのようにも見える。
ここまで灰色や淡い白に鈍い緑色ばかり見ていただけに彼女のハッキリとした赤色には感嘆の声を漏らさずにはいられない、灯歪が言っていたように世界にも意志が存在するのだとすれば彼女ほど芯を表しているものは無いだろう。
「あの花が……この世界の鍵、なのかな?」
「……残念だけど、この世界はもうひと癖ありそうだよ……見てごらん」
灯歪が指差したのは巨大な花の植わる花壇の丁度真下、覗き込んでみるとそこには鏡写しのように枯れた花が階下に向けて垂れ下がり、塩を降らし続けていた……螺旋階段の中央に降り注いでいた塩はここからきていたらしい。
「これって……つまりどういう事?」
「ううん……二面性って意味なのかどちらかが虚像なのか、正直お手上げかな……君も随分クセのある女性に好かれたものだね?」
「いや、俺は落とされただけで別に俺の意志じゃないんだけど……!」
「あはは、そうだったね! さてどうしようか、ここにも鍵は無さそうだし……先にあっちを見てみるかい?」
あっちというのは花壇の奥から更に上に伸びる階段の事だ、これまでの石段とは違って明らかに装飾が豪奢なものになっており松明頼りの薄暗い室内とは違って階段の先からは日光のような強い光が巨大な花に向けて降り注いでいる。
「あの先が砂漠って事は……無いよね?」
「どうかな、そうやって何度も言ってたら本当に砂漠が広がっているかもしれないよ?」
「わー! 待った待った! 今の無し!」
ケラケラと笑いながら階段を上る灯歪に手を振りながら慌てて階段を駆け上がる……差し込んでくる光は随分と強い熱を帯びており、もう言葉にこそしないが小さな不安が胸の中で渦巻き続けていた。




