表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/137

第三世 湯気の向こうの誘惑

「あの……え……っと」


 動悸が早まる、まるで全身が脈打っているような感覚に襲われ耳の奥からジンジンと音が聞こえてきそうだ……墨白自身も興奮しているのか呼吸が早くなっているような気がする。

 こういう時にどう返事をするのが一番スマートなのか、知っている人がいるなら是非教えて欲しい! 女性に碌に縁の無かった俺では脳内を白くするばかりで好意をぶつけられた際の言葉などまるで出てこない。

 グルグルと考えている間にも墨白の長く鋭い爪の先で唇をなぞられ背筋がゾワリとする、くすぐったくて体をよじる俺の反応がよほど楽しいのか小さく開いた彼女の口から短く笑みがこぼれた。


「くふっ……どうした? 儂の伴侶となるのは嫌なのかのう?」


「い、嫌ってわけじゃ……」


 嫌な訳は無い、外見は少女のようで何より鬼とはいえ俺の人生で見てきた何よりも彼女は美しい。

 本音を言えば一も二も無く頷きたい、しかし情報過多を起こした脳では感情を上手く言葉に乗せる事が出来ず……ついには口ではなく腹が真っ先に悲鳴を上げた。


「……おや」


 ピタリと墨白の動きが止まり、両の瞳が俺の腹を見つめる……顔から火が出そうなほどの羞恥心、気を抜けば涙が出てしまうだろう。


「くふっ……くくく……かっかっか! そうじゃったそうじゃった、葡萄の一粒以外何も口にしておらぬのじゃからそりゃあ腹も減るわのう! 飯の支度をしておったのをすっかり忘れておったわ。さぁお前様よ、立てそうか?」


「……あ、はい」


 すっと立ち上がり、差し出された墨白の手を掴みながら足にぐっと力を込めて立ち上がる……やはりあのギシギシとした痛みはもう無い、満足そうに笑みを浮かべる彼女からは先程までの妖艶な気配はすっかり失せてしまっている……その事にホッとするべきか残念に思うべきか、今の俺は複雑な表情を浮かべているに違いない。


「んぅ?……くふっ、なぁに心配するでない。お主を口説き落とす機会も時間も、これからたぁっぷりあるでな?」


 俺の気持ちを察したのか再び目を細めて笑う彼女にぎこちない笑顔で返す、例え彼女との関係が今後どうなるにしても一度たりとも勝てる事は無いだろう……なんとなくだが、そんな気がする。


「さぁお前様よ、足元に気を付けての」


「足元?」


 鍋のかけられた囲炉裏テーブルには向かい合う形で二つの座布団が用意されていた。鍋にばかり気を取られていたが……なるほど、確かに墨白の注意の通り囲炉裏を囲うように足をおろせる木製の堀が作られている。

 堀の底には畳のような素材で出来たスリッパも用意されていたが深い茶色が美しい木材の木目を足先でなぞり、滑らかでひんやりと冷たい触感を楽しむのもなかなかに楽しい。

 ふと金属の擦れる音が耳に届き顔を上げるとちょうど墨白が鉄鍋の蓋を開けるところだった、熱くないのだろうかという俺の疑問は開かれた鍋の中身に目を奪われ一瞬でどこかへと消え去ってしまう。

 鍋一杯の雑炊、火の動きに合わせて踊る黄金の卵と緑の葉物野菜がツヤツヤと輝いて見える。


「うむうむ、いい感じじゃな。そして更に……こいつじゃ」


 こちらを見つめてニヤリと笑いながら取り出したのは串に刺されて焼いた魚。たっぷりと雑炊がよそわれた大きめの茶碗の上には焼き魚が串に刺されたまま乗せられ、ついでにとばかりに葉物野菜の漬物がテーブルの上に並べられる。


「簡単な物で悪いがの、じゃが今のお主の状態を見るにこのぐらいがちょうど良かろう」


「あ、ありがとうございます……」


 お礼を言って差し出された黒い箸を受け取ろうとするが、こちらに伸ばされた墨白の手がピタリと止まった。


「……先程から思っておったがなんじゃその堅苦しい喋り方は? やめよやめよ、もっと楽にするがよい」


 手を振りながら面白く無さそうにジトリとこちらを見つめ、唇を尖らせてしまった……しかし本当に言葉通りにしてもよいものだろうか? ここまで彼女から悪意の欠片も感じてはいないが砕けた態度をとって怒らせてしまうかもしれない……とはいえこのままという訳にも──意を決して手を伸ばしてこちらから箸を握ると『おっ?』といった表情で墨白が目を丸めた。


「分かった……ありがとう、墨白さん」


「──うむっ!」


 嬉しそうな満面の笑みを見て心の奥でホッとする、とりあえずこれが正解だったようだ。


「しかしやはり呼び捨てというのも捨て難いか……お前、と呼ばれるのもなかなか……!」


 並べるだけ並べた自分の分の食事に手をつけず、何やらブツブツと呟きながら考え込む墨白にまた何か言われる前に……少し悪いと思いつつも箸を使って焼き魚の身をほぐして口に放り込む、見た目は鯛に似た白身魚だがヒレと尾の形が上下に繋がった扇形という変わった外見をしている。


「……美味しい……!」


 弾力が強く、箸で持った程度では身が崩れないが噛むと水をたっぷり含んだスポンジのように旨味の強い脂が次から次へと溢れてくる、こんな美味しい魚は初めて食べた。


「くふっ……舞魚(ぶぎょ)という名でな、あまり一ヵ所に留まらず様々な場所を練り泳いでおる魚じゃよ。硬い鱗を持つがこうして火で炙ってしまえば溶けて柔らかくなり食べられるようになる、面白い事に時には──」


 身振りを加えながら朗らかに話す内容に興味が無かった訳では決して無いが、今の俺の耳に墨白の言葉は殆ど届かない。

 料理を一口食べる毎に体の底から湧き上がる熱、生命力そのものが全身を巡る感覚があまりにも心地よく箸を止める事が出来ない……お世辞でも、安い感想でも普通にでもなく真に『美味しい』を心で叫んでいた。

 なかなか冷めない雑炊を口に含んでは熱の混じった吐息を荒々しく漏らしながら魚の身を頬張る、やがて口内の熱に耐えかねているといつの間にか氷入りのお茶の入ったグラスが目の前に置かれていた。

 反射的にグラスを掴んでお茶を喉に流し込む……歯に染みそうなぐらいに冷やされているお陰か口内の熱はあっさりと消え、程よいお茶の苦みが魚の油でだらけかけた舌を引き締めてくれる。


「……舞魚は頬の辺りに鋭くはないが硬い骨があるゆえ、頭を食べるのは止めておいた方がよいぞ?」


 いつの間にか自分の分を食べ終えていた墨白がすぐ傍に座り、半分ほどまで無くなったグラスに金属製の水差しからお茶を注いでくれた。


「気の済むまで食べよ、ちゃんとお主好みの味になっておる筈じゃし……まぁそんな事はその食べっぷりを見れば分かるか、ああもう一尾残っておるんじゃが……食べられそうかのう?」


 深く考えずに頷くと満足そうに彼女も頷いて串に刺さった魚をもう一本囲炉裏の奥から取り出し、側の灰に刺した。


「うん?……くふっ、なんじゃその顔は? 考え事も良いが今は食べる事に集中したらよい……ほれ、おかわりをよそってやろう」


 栄養が巡って余裕が出てきたのかやや呆けながら鍋の中身を木製のお玉でよそう墨白を見つめる……艶のある白銀の髪に精悍な顔つき、切れ長故に目つきはやや鋭いが俺を見る視線からは優しさと慈愛を含んでいるように感じるのは俺の思い上がりだろうか?……そんな彼女が俺を伴侶と? 俺なんかを夫にすると言ったのか?


「お前様? 腹が膨れてしもうたか?」


 ハッとして声がする方に顔を向けると墨白が心配そうにこちらを覗き込んでいた、ふわりと香る料理とは違う良い匂いに思わず胸が高鳴ってしまう。


「だ、大丈夫!……いただきます!」


 わざとらしく声を上げて茶碗を受け取り、とにかく食べる事に集中する……彼女は本当に不思議な存在だ、小さな口から紡がれる言葉を聞けば体の力は抜けて安心してしまうし内容を疑おうという気すら起きず、彼女自身の香りを嗅ぐだけで鼓動が早まる……外見こそ鬼と言う他ないが、俺の中の鬼のイメージとはまるで違う。


「……んぅ?」


 チラリと見ただけなのに堀から足を出して折り畳み、枕にしてこちらを見つめる墨白と視線が合ってしまった……異常だ、全てが異常な筈なのにこのどうしようもない安心感の理由が分からず無理矢理顔を背けてしまう。


「くふっ……可愛いのう」


 そんな言葉が耳を掠めた気がするので行儀が悪いとは思いつつ、音を立てて食べる事でどうにか聞かなかった事にする。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ