第二十一世 世界を渡る列車
心配をかけたせいかその日の晩、墨白はベッドの中で一度たりとも離してはくれる事は無く、少々の寝苦しさを犠牲に幸福感で満ちた夜を過ごした次の日の朝──朝食の席で彼女は突然、交路世界を離れると言い出した。
「え……」
墨白の言葉に俺もフィルも食事の手が止まる。分厚く切られ、これ以上無い程の絶妙な焼き加減で仕上げられた肉塊からすれば手を止めずに食べる事に集中して欲しかっただろうがこればかりは仕方ない、しかし呆然とする俺達をよそに灰飾だけは予想内だったのか脂の滴る肉を口に放り込んでは満足そうに唸っている。
「ここを離れるって……鬼観世界に戻るってこと?」
「いや、そうではない……今回の事で儂の考えが甘かった事が分かったのでな、お前様が旅人になるにしろならないにしろ、早急に備えをしておく必要があると思ったのじゃ」
「賛成だね、動きやすそうだけどその格好だと薬の一つも持ち歩けないだろうしさ?」
灰飾が同意し俺の恰好を眺めながら頷いた、確かにこの作務衣にはポケットも無いし耐久という面では些か心許無いかもしれない。
……それより驚くべきはこの作務衣が三着目だという点だ、お互いに殆ど手ぶらで来たはずなのに墨白の着物も毎日変わっているしどこからともなく用意してくれた今日の作務衣は深い緑色……これも魔法の一つなのだろうか、だとすれば魔法というのは俺が思っているよりもずっと生活に根付いたものなのかもしれない。
「……その服、似合っていて可愛いんですけどネ」
ただ一人、フィルだけが少し残念そうにこちらを見つめている……どうやらこの格好は彼女の好みに嵌っていたようだ、フィルのそんな反応に墨白が少し困ったように笑みを浮かべる。
「ホントにのう……じゃがまぁこやつが難を逃れる術を得るに越した事はなかろう」
尚も不満げなフィルだったが少し考え、渋々同意したのを見て墨白も満足そうに頷く。
「よし、それでは腹を落ち着けたら動くが……お前様もそれで構わぬか?」
「勿論構わないけど……どうやって行くの? また扉を通って?」
「手っ取り早いのはその方法じゃが……どうせなら道中も楽しい方が良かろうと思ってな?」
ニヤリと笑う墨白が意味ありげに上を指差した、その指先を追って天井を見上げるが複数の大きなシーリングファンが回っているだけで何を意味しているのか分からない。
「世界横断起動列車──通称『星銀』に乗っていくぞ、お前様よ」
「色々と急で悪いが、世話になったの」
「賑やかなのは嫌いじゃないし、またいつでも来るといいさ。それに少年が来るとフィルが気合を入れて作るから食事が豪華になるし」
「マ、マスター……!」
頬を染め、慌てた様子で灰飾の服を掴むフィルを見ていると思わず頬が緩む……一緒に過ごした時間こそ短いが彼女からの好意に気付かないほど鈍いつもりはない、そして好意の一つに大きく心を揺らすほど若くもない……つもりだったがやはり好かれて悪い気はしない、隣からの刺すような視線が無ければもっと頬が緩んでいた事だろう。
「また来るよ、他のケーキも食べてみたいしね」
「……ハイッ! 美味しい紅茶も沢山用意してお待ちしていますネ!」
差し出されたフィルの手を握り、しっかりと握手を交わす……そういえば今日は肘までの長い手袋を着けていないようだ、顔と同じく継ぎ接ぎの目立つ青白い肌だが今はもう何とも思わない。
「さぁさぁ二人にプレゼントだ! 少年にはこれ、そんで墨白には……これだ!」
そう言って手渡されたのは多少大きなサイズでも入りそうな布袋、振ると金属がぶつかり合う音がするので何か入っているようだ。
墨白に手渡されたのは一枚の銀色に光るカード……それを見てげんなりとする墨白に灰飾が申し訳ない、と手でジェスチャーをしている。
「はぁ……まぁよかろう、それでは行くとしようかお前様よ?」
「あ、うん。じゃあ……またねフィル、灰飾さんもお世話になりました!」
手を振って送り出してくれる二人に会釈しながら店の扉を閉め……改めて顔を上げると、裏路地の見慣れた景色の筈なのにどこか新鮮な気がする。
「ちなみにじゃが……あやつらは頭を下げる意味を分かっておらぬぞ?」
「あ、やっぱり? いつも不思議そうな顔してたからそうかなーとは思ってた、でもこれはもう染みついちゃった癖みたいなもんだし……いいんだ、俺がしたいだけだし気持ちは伝わってるでしょ……多分!」
「くふっ、そうじゃな」
小さな牙を見せながらニコリと笑った墨白に腰の辺りを軽く叩かれ、今まで入った中でも最高の喫茶店を後にすると相変わらず賑わっている大通りの喧騒はすぐに俺達の耳に届くようになり、ほどなくして俺達もまた喧騒の一部と化す。
「それで……駅ってどこから行くの? 中層にあるのは聞いてるけど、最上階まで上ってもそんな場所無かったよ?」
相変わらず見慣れない通路の層を指差しながら少し声を張り上げて問い掛ける、この騒がしさの中ではこうでもしないと声が聞こえない。
「そりゃそうじゃろうよ、駅はこの階……ほれ、そこじゃからな」
「……ど、どれ?」
彼女が指差したのは大通りに道沿いに並ぶ屋台の少し奥、通りを挟むように立ち並ぶレンガや石造りの民家の辺り……同じような建物が多いせいでどこを指差しているのかすらよく分からない。
「ここじゃここ、はよう開けてみるがよい」
先導する墨白について行き、いざ扉を目の前にしても民家という印象は拭えない。
古びた茶褐色のレンガ造りの建物から漂うのは機械油や金属由来のものではなくどこか懐かしい湿った土の匂い、更に言えば扉の向こうから何の音もしないというのが疑惑に拍車をかけている。
「じゃあ……開けるよ?」
墨白の頷きに背中を押されるようにドアノブに手をかけて捻り、押し開く……バカみたいに緩いドアノブだ、鍵すらかかっていない──。
「……んっ?」
一体何が起こった? 手を前に差し出したドアノブを握る姿勢のまま周囲を首だけを使って見渡す……モノクロの世界かと錯覚してしまうほどに白と黒に統一された世界、天井は格子状の硝子張りだがステンドグラスのように白と黒だけで見事な森が描かれており、その天井を支える為か継ぎ目のない黒く広い床からは格子状のやはり黒い柱が何本も等間隔で立っている。
「どうじゃ、驚いたか?」
……ああ良かった、本当に白と黒だけの世界に放り込まれたのかと思ったがようやく『色』がやってきた。この世界の白とは違う純粋や無というにはあまりに蠱惑的な白が羽織る黒地の着物には金色の文様……そして何より、楽しくて堪らないと細められた赤い月が二つもあるではないか。
「もちろん驚いたけど、ここが星銀のある駅?……大通りに比べても広すぎない?」
「くふっ、別にあの民家の奥に駅が広がっておる訳ではなくあの民家のドアノブを握る事がここへ来る条件だっただけじゃよ?……ああちなみにここへ来る条件は時々変わるから次も同じ方法が使えるとは限らぬ、数十年程前なぞ通りに並べられた樽に飛び込む……じゃったからのう」
どう反応していいのか分からず口をあんぐりと開けた俺を見た墨白がとうとう我慢出来ずに吹き出した、声を上げて笑う鬼に小さくため息をつくと改めて駅を見渡す……本当に広い駅だ、色々と滅茶苦茶な筈なのにしっかりと駅だと認識出来るのも不思議だが更に不思議なのは俺達の他に客がいないという点か、あの賑やかな大通りから来た事もあってより静かに感じる。
「鬼観世界の墨白様、他一名様で間違いありませんか?」
「うわっ!?」
突如背後からかけられた声に反射的にビクリとその場で跳ね、勢いよく振り返るとそこには一人の男が立っていた。
背が高く、顔は古びたガスマスクで覆われ全身を包み込む丈の長いトレンチコート、手には黒い皮手袋と露出を限界まで抑えたかのような恰好だが辛うじて声で性別だけは分かる。
「うむ、流底世界まで二名で頼む」
「かしこまりました、二名で四エスタになります」
墨白が差し出したコインを男は底の深い瓶で受け取る、よく見れば同じような瓶を腰にもう一つ下げているようだ。
「……では、こちらが切符になります。どうか失くされませんよう」
コイン入りの瓶を再び腰から下げ、懐から取り出した真鍮色のオルゴールのような形状の機械のレバーを回すと板ガムほどのサイズのプレートが二つ繋がったものが出てきた。
それを長く伸びた爪で墨白がひょいとつまみ上げ、何かを確認している間……気のせいかもしれないが、男が着けているガスマスクの向こうの瞳がこっちを見ている気がする。
「確かに受け取った」
「では……よい旅を」
人間が珍しかったのだろうか? 軽く声をかけてみよかとも思ったが行動に移す前に墨白が頷き、男は深く頭を下げるとそのままの姿勢で数歩後方へ離れていき……空間に溶け込むように消えていってしまった。
「さぁ行こうかお前様よ、ここの景色も悪くは無いが……少し埃っぽくていかん」
「おぉ……! おぉおお……!」
通路を少し進み、やや幅の狭い階段を上り切った先に……『ソレ』は俺達を待っていた。
いかにも風を切りますという機能性と移動手段には不必要な攻撃力を持っていそうな槍状に飛び出た先端、やや丸みを帯びた先端ボディは列車というより船を彷彿とさせる造形だが上部に等間隔で三つ並んだ煙突が俺は列車だと強調し、つまらない疑惑を吹き飛ばしてくれる。
更に忘れてはいけない車体側面から飛び出た歯車やどこと繋がってるのかさっぱり分からない剥き出しのパイプというロマン枠、何が言いたいかってそんなものは決まっている。
「かっ……こいい!」
無意識の内に握りしめていた拳にさらに力を込めながら心からの言葉を絞り出す。腹の底から響くような低い駆動音、贅沢を言うのであれば三つも並んだ煙突から誰の目も気にする事無く好き放題に噴き出している黒煙から灼けたオイルや石炭、もしくはゴムに似た……つまりは肺や喉に悪そうな臭いで周囲を満たしていればそれはそれでロマン溢れる光景に彩りを添えてくれていただろうが、残念ながらそんな臭いは皆無だし、これっぽっちも煙たくない。
わざとらしく周囲に鼻をひくつかせる俺に墨白が首を傾げているが、よく考えなくても借り物のこの服やあの綺麗な着物が汚れても困るのでこれで良かったのかもしれない。
「ところで墨白さん、あれに乗るんだよね?……どこから乗るの?」
星銀はすぐ数メートル先にあるというのに俺達と列車の間には背の高い手摺が立ちはだかっており、装甲列車のような巨体に沿うようにまっすぐに伸びる通路の先を見つめても手摺の切れ目が見つからない……これではまるでただの見世物、博物館や動物園の硝子にへばりつく子供ではないか。
「くふっ、このままでは乗れぬよ。その為にほれ、これを買ったんじゃからな」
懐から取り出したのは先程の……恰好は怪しいが恐らくは駅員であろう男から購入したプレートだった、相変わらず何も書かれていないし二枚の板ガムが細い節で繋がっただけの薄い金属板にしか見えない。
「さぁこっちは儂の分、お前様の分はそっちじゃからつまんでみよ」
「つまむ……こう?……あっ」
片方のプレートを摘まんでこちらに差し出す墨白に半信半疑になりながらも空いている側のプレートをつまむとあっさりと真ん中の細い節が折れ、二枚のプレートが青い砂状に変化しながら消えていってしまう。
ポカンとしていると墨白がニヤニヤと笑いながら俺の後ろを指差す……訳が分からないまま振り向くと柵の一部が消失し、星銀への道が伸びているではないか! 陸橋のような金属製の橋、間違いなく今の今まであんなものは無かった。
「これで儂らは正式に星銀の客、という訳じゃな」
差し出された墨白の手を握りながら柵を通り抜けて橋を歩いて行く、星銀に一歩一歩近づくにつれてより強く駆動音を感じる事が出来る……困惑や疑問などもうどうでもいい、抑える事の出来ない好奇心に思わず彼女と繋いでいる手に更に力が入ってしまい、また笑われてしまった。




