第二世 葡萄と抱擁
「お、鬼……?」
「うむ、角も本物じゃよ? 触ってみるかの?……くふふっ!」
俺の目にかかった髪を優しくかき分けながら、目の前の鬼――墨白は先端が薄く紅に染まった角を軽く前に突き出し頭を僅かに揺らして見せる。先程までの怪しげな雰囲気はどこへやら、外見通りの少女のような仕草に思わず口元が緩む。
「いや、それは……それより、地獄ってこんなに穏やかな場所だったんですね……もしくは、これから何か始まるんですか?」
「うん? どういう意味じゃ?」
きょとんと目を丸くして首を傾げてしまった、本当に分からないといった墨白の様子に何か言い方を間違えてしまったのかと要点を頭の中でまとめる。
「……ええと、墨白さん……は、鬼なんですよね?」
「いかにも、さっきからそう言っておるじゃろう?」
「だからその……俺の知識で言うと鬼は地獄に住んでるんですけど、違うんですか?」
墨白という鬼がいるのだからここは地獄では無いのか──そんな当たり前の疑問をぶつけるとようやく合点がいったのか彼女の口角が徐々に上がっていき、ついには声を上げて笑い始めてしまった。
「くふっ……くはははは!」
けらけらと笑い続ける墨白に今度は俺がきょとんとする番だった、やがて目の端に浮かんだ涙を鋭い小指の爪で拭い飛ばすと右手で俺の頭を撫でながらぐっと顔を近付けた。
「であれば……お主にはこれからこわぁい出来事が待っておる事になるのう?……くふふっ」
言葉の内容とは裏腹に甘ったるい囁きのような声色に思わず全身がゾクリとする、風になびく白銀のカーテンのような前髪からまっすぐにこちらを見つめる真っ赤な瞳から目が離せない。
「な、ならここは……へ、へっくし!」
すっかり忘れていたが大きなタオルで包まれているとはいえ今の俺は全裸なのだ、そこに墨白の毛先で鼻をくすぐられては耐えられる筈も無い。
「おや気持ちの良いのが出たのう、では話の続きは着替えてからにするか……すぐに戻って来るから少し待っておれ」
目の前でくしゃみをされたにも関わらず避ける素振りも不快そうな表情も浮かべずニコリと笑うと布を丸めた即興の枕を俺の首の下に置いて立ち上がった、かと思うとすぐにしゃがみこんで髪を梳くように優しく俺の頭を撫でつけ『地獄の装束を持ってくるからのう』と小さく笑いながら囁き、足早に家の奥へと歩いていく足音が段々と遠くなるのを聞き届けながら格子状に黒い板が均等に敷き詰められた天井をぼんやりと眺める。
……ここは本当にどこなのだろう? 目が覚めたら湖に隣接して建っている日本家屋で美しい鬼に世話を焼かれるなど、どこの童話でも聞いた事が無い。
「とにかく、動けるようになるまではされるがままになるしか……っ!」
突如視界が歪んだかと思うと全身を激痛が走り、指先からどんどんと冷えてくる……墨白を呼ぼうにも上手く声が出ず、何故か全身が無意識に丸まっていく。
まるで自分の体が自分の物で無くなっていくような感覚に一瞬で恐怖に包まれ、心の中で金切り声のような叫びを上げる、理由は分からないがほんの少し前の『あの』瞬間よりも遥かに怖い。
「すまぬ、最初に何を着せようか迷ってしまった。やはりまずは動きやすいものを……お前様!?」
ふわりと体が持ち上がる感覚がする、異常に気付いた墨白が俺の体を抱え上げたらしい。
「これは……! ええい、阿呆か儂は!」
強い口調で悪態をついた墨白が俺を抱えたまま奥の部屋へと飛び込んだ、視界がぼやけているせいで部屋の様子は分からない。
「口を開けよ!……頼むから口を開けるのじゃ!」
瑞々しくハリのある何かが何度も唇に押し付けられる、数分前までは自由自在に動いていた筈なのに今では僅かに開いては震わせる事しか出来ない。
「!……すまぬっ……!」
不意に唇に柔らかい何かが押し当てられた、次にドロリとした物が口内に滑り込んできたかと思うと何の抵抗も無く喉の奥へと突き進んでいく。
ごくり、反射的に流れ込んてきたソレを飲み込むと遅れて僅かな酸味と濃厚な甘味が上がってきた……どこかで感じた事のある味、そうこれは確か──。
「ぶ、どう……?」
馴染み深い果実の事を思い浮かべているとこわばっていた全身に少しずつ熱が戻り、激痛が抜けていくのを感じた……額に滲んでいたのか墨白が汗を拭ってくれる布の感触も分かる。
しかし礼を言おうにも解放感と同時に襲いかかってきた強烈な睡魔を前に抗う体力など今の俺には残っていなかった。
「……う」
ゆっくりと目を開き、周囲を見回す……見覚えのある黒い板の天井、その中心で長方形が六つ並んだ造形の間接照明が部屋を優しく照らしている。
どうやら気を失った後でこの部屋に運ばれて布団に寝かされたらしい、全身を優しく包み込みほどよく沈み込む布団にはお香に似た、落ち着く匂いが染み込んでいる。
しばらくぼうっと天井を眺めていると不意にある事に気付いた、さっきの発作のような痛みだけじゃなく全身が錆び付いたようなあの感覚も抜けているではないか! 思わず試したくなり布団を捲って片手をつきながら起き上がると、少し離れた位置からハッと息を呑む声が聞こえた。
「お前様……? 目が覚めたのか?」
声のする方へ顔を向けると大きな囲炉裏の火にかけられた鉄製の鍋から立ち上る湯気の向こうから墨白がこちらの様子を窺っているのが見える。
「あ、はい。何だか体も随分軽くなりました」
「どれ、少し見せてみよ」
そういえばいつの間にか濃淡な青を基調とした作務衣のような服を着させられてるではないか。柔らかい素材で出来ているのか着心地がよく、何よりサイズがピッタリだ。
「お前様よ」
優しくかけられた声に振り向くとすぐ傍に墨白が腰をおろしていた、そのまま何も言わずに両手をこちらに伸ばして頬に添えたり目の下を軽く引っ張ったりして何かを確かめ──やがて安堵したかのように短く息を吐き……俺の頭ごと自らの胸元に抱き寄せた。
「……良かった、本当に良かった」
じんわりと頬を温める墨白の体温と彼女の生を裏付ける心臓の鼓動、鼻孔をくすぐる少しざらついた甘い匂いに緊張や心のどこかで感じていた恐怖が解れていくのを感じる。
「あの……俺、どうなったんですか?」
「そうさな……急に言われても何が何やら理解出来ぬだろうが、簡単に言えばお主の肉体と魂が剥離しかけておったんじゃ。本来はお主が目覚めてすぐにこちらの食べ物を食べさせればあのような苦しい思いをさせずに済んだのじゃが……儂とした事が、お主と会えた事が嬉しゅうて嬉しゅうてすっかり舞い上がってしまっておった……本当にすまぬ」
肉体と魂の剥離……要するに幽体離脱のような事だろうか? 何となくイメージは出来ても彼女の言う通り飲み込めるとは言えなさそうだ、何よりアレが何だったにしても彼女を責める気など毛ほども起きない。
「だ、大丈夫ですよ! 今はほら、この通り元気ですし……っていうか、そもそも何で俺なんかにここまで……」
「……ああ、その事ならお前様にもすぐに理解出来よう」
両頬に手を添えられたままゆっくりと顔が胸元から引き離され、赤い瞳がまっすぐにこちらを捉えた……目を細めてトロンとした表情を浮かべ、僅かに開いた口の中で小さな舌がチロチロと言葉を紡ぐ。
「儂はお主の一生を片時も目を離さず見ておったんじゃよ、ずっと……ずぅっとな? そしてお主が自らを手放す時を見計らってここへ招いたんじゃ……お主を儂の伴侶として共に過ごす為にのう?」
白い肌故に頬や黒い着物の隙間から覗く首元に赤みがかっているのがよく分かる、二本の牙の隙間から吐き出された熱を帯びた吐息を受けた俺は情けない事にただ胸を高鳴らせる事しか出来なかった。