第十五世 ネクロマンサーの問いかけ
「ん……ん?」
目を覚まし、上半身を起こす……柔らかく寝心地は良いが見覚えの無いベッド、辺りを見回すが部屋は薄暗く、すっかり静まり返っている。
しばらく床の一点を見つめながら記憶の糸を手繰り……ようやく思い出す。フィルの作ったデザートや料理を目一杯に堪能した俺は食後案内された部屋で墨白としばらく談笑している内に眠気に襲われ、横になりながらも返事をし……やがて眠ってしまったらしい。
なんだか今日は寝てばかりだと苦笑しているとふと天井から大きなラグの敷かれた床に射す光が目に留まり天井を見上げてみる、天井では静かに回るシーリングファンと共に大きな天窓の向こうでは星空が広がっており一見すれば優雅なログハウスで過ごしているかのようだが、あの星空は天窓そのものに投射されているだけだと墨白が言っていたのだったか? そういえば……と視線を落とし、思わず口元が緩む。
「すぅ……すぅ」
集中しなければ聞き取れない程に静かな寝息を立てているのは白銀の鬼、白い肌着に身を包むこんなにも無防備な彼女を見られるのは世界がいくつあろうとも俺ぐらいのものだろう。
星明かりに照らされた白い肌、寝相でズレたのか少しはだけた胸元に思わず目が吸い寄せられる。前のめりになりながら覗き込もうとし……ハッとして目を逸らし、首を振るとベッドの脇に置かれた背の高いテーブルの上に鎮座する水差しが目に留まった。
変な気を起こす前にあれを飲んでもう一度寝てしまおうと静かにベッドから降り……テーブルの前に立つとコップを手にする、ちなみにコップは二つ並んで置いてあったが深くは考えない事にした。
「はぁ……ん?」
コップに注がれた水はキンと冷たく、火照った顔をほどよく冷ましてくれた。
口の端から垂れた水を手で拭い、ベッドに戻ろうとすると下の方から何かの物音が聞こえた……小さなネジか何かを落とした時のような鋭いが短い音で、耳をすませてももう何も聞こえない。
大した事では無いかもしれない、それにここは灰飾の家だし俺が勝手に動き回るのも……と自分に言い聞かせるが、何故だか妙に気になる。
結局、好奇心に負けた俺は墨白の顔と部屋の扉を数度見比べ──極力足音を殺しながら部屋の外へ出ると閉めた扉に寄り掛かり、緊張の混じった短い息を吐く。
どうせ何も見つからない、さっと音のした場所を見てあの場所……墨白の隣へと帰ろうと心に決めて歩き出す、音がしたのはそう──俺がクスリを受け取ったカウンター席のある場所の奥あたりだ、その辺がちょうど今いた部屋の真上のはず。
「あ……」
大した距離ではない、二階にも敷かれたカーペットのお陰で足音を殆ど気にする必要も無いのですぐに通路の奥の手摺に辿り着き、吹き抜けになっているのでここからでも店内が一望出来る。
電気が消された暗い店内、しかしだからこそカウンター席を照らすように奥から光が漏れているのがよく見えた……やはり灰飾かフィル、どちらかが起きて作業か何かをしているらしい。
言ってしまえば妥当な結末だろう、すっかり緊張も抜けて再度息を短く吐くと踵を返して部屋に戻ろうとして──ふと足が止まる、何やら頑丈そうなブーツの靴底で床を叩くような音が近付いて来るではないか!
「……少年? 何してるんだい、そんなところで?」
思わず手摺に背を預けて隠れてしまったが下から掛けられた声の主にはバレバレなようだ、観念して手摺から身を乗り出して勝手に歩き回った事を謝罪すると声の主……灰飾は気にした様子も無く大きく口角を上げて笑顔を作ると『こっちへおいで』とでもいうように手招きをした。
「フィルみたいに上手く淹れられなくて悪いね、まぁゆっくりしてってよ!」
部屋の中央に鎮座する大きめのソファに座るよう促され、手渡されたカップから立ち上る香りは確かに弱く味も薄かった……が、美味いお茶を飲めばそっちに集中してしまうので作業をしながら喉を潤す目的ならばむしろこちらの方が適している気がする。
「あの、お邪魔だったんじゃ……」
「ぜーんぜん! むしろ少年とはもっと話がしたかったし、ちょうど良かったぐらいさ」
確かにこのソファにお茶があれば話も弾むだろうが座っているのは俺だけであり、当の本人は大量の試験管の並べられたテーブルの前に立ち細身のものや丸底の硝子瓶に詰められたカラフルな液体を別の瓶に移したり振ってみたり火にかけたり……それだけではない、譜面台のようなものに見開かれたままで置かれた分厚い本やぐるりと見回せば小瓶の並んだ棚や読めない背表紙の本がギチギチに詰められた本棚まで、何かの作品で見た記憶のある錬金術師や魔法使いの工房そのものの景色が広がっていた……こんな光景を見せつけられては俺なんかの話よりも聞きたい話題が山ほど出てくる。
「ちなみにそれって……今は何を作ってるんですか?」
「これかい? まずこっちの青いのが保湿剤だよ、鱗をもつ種族は乾燥に弱いからね。そんでこっちの透明なやつが酔い覚ましでこの赤いやつは……ミスったから今から捨てるとこ」
そう言って投げ捨てた硝子瓶は宙を舞い、部屋の隅にある大きく口の開いた黒い箱の中へと消えていった……見間違いでなければ箱の中へと消える直前、先端から砂に変わっていったような……目を擦ってゴミ箱を二度見する俺が余程面白かったのかチラリと顔だけをこちらに向けた灰飾が声を上げて笑う。
「少年、こういうのを見るのは初めてかい?」
「はい!……何もかも分からなくて、それが逆に面白いです!」
「あっははは! なんだいそれ、面白い事を言うね」
景色はもとより色も匂いも……音に至るまでが初めてだらけの空間がつまらない筈も無く、目を輝かせる子供のようになっているのは自覚しているが部屋の隅にまで目を走らせることも、目の前の灰飾の背中を追いかけて見つめる事も止められる自信が無い。
「興味があればいくらでも教えてあげるよ、ああでも文字は読めないんだったか……」
「はい、こうして喋ってる言葉は通じてるのに……変な感じですよね」
見開かれたままで置かれている本の文字を指差す灰飾に首を振りながら答える、ここで見たメニューもそうだが本の表紙も大通りに並ぶ屋台の看板も何一つとして読めない、似た形の文字すら知らないので当てずっぽうすら通じないというのはなかなかに不便だ。
「言葉は感情が乗るからね、だからアタシの言葉と少年の言葉は違うけど……少年が理解出来る言葉に世界が変換してる筈だよ」
「って事は……名前とかも実は違うかも、って事ですか?」
「音だけって意味なら、多分ね? でも少年にとって私は灰飾でアイツは墨白、少年を随分と気に入った様子のあの子はフィル……そこに一つも嘘は無いよ」
「……そう、ですね!」
こちらに振り向き、にこりと笑う灰飾の笑顔を見てホッと胸を撫でおろす……悪戯好きだったりからかうような言動が多いくせにこういう時にしっかり安心させてくれるのはズルいと思う。
「それじゃあ、こっちも一つ聞いていいかな?……少年はさ、あいつ……墨白の事が本当に好きなのかい?」
「えっ……?」
俺は今何を問われた? 墨白の事が好きか?……そんなもの答えは好きに決まっている、しかし『本当に』とはどういう意味だろう。
手に持っていたカップを目の前のテーブルに置き、灰飾を見つめ返すが彼女はジッとこちらを見つめているだけで何も言わない……自分で答えを出せと言う訳か。
本当にという言い回しをする理由に思い当たる点が無い訳でも無い、ここは俺が住んでいた世界ではなく頼れるのが墨白だけ……いわばその信頼感やちょっとした依存とでも言えばいいのか、それを好意的な感情だと思っているのではないか……そういう事だろう。
実際その点が全く無いと言えば嘘になる、生活は墨白頼みだし世界の事も何も分からない俺に依存する以外の選択肢は無く、更に彼女は甘えさせ上手なうえにストレートな好意の言葉ばかりぶつけてくるので自然とこっちも……組んだ手の上に顎を乗せ、まるで国家レベルの重大な決断を迫られているかのような姿勢の俺の脳裏に浮かぶのは先程目にした墨白の煽情的な寝姿、この後あそこに戻るのだという事実に膨らむ胸中を必死に抑えながら灰飾へと視線を戻し、ハッキリと気持ちに言葉を乗せる。
「墨白さんの事は……正直、めっちゃ好きです」
「……は、あははははは!」
長い赤髪を束ねた彼女が呆けたのは一瞬だけ、次の瞬間には爆弾が弾けたのかと思う程の大声で笑い始めた。薬剤の入った硝子瓶や様々な器具が乗っているテーブルをバンバンと手で叩き、余程苦しいのか片手でお腹を押さえている……おかしい、正直な気持ちを言っただけなのに何故彼女はあんなにも笑っているのだろう?
灰飾の文字通りの爆笑はしばらく続き、最後には力尽きたのかとうとう床に寝そべってしまった……というか暴れてる最中に薬剤の瓶がいくつかテーブルから落ちて割れてしまったがいいのだろうか? 当の俺はというと彼女の異常な爆笑に圧倒されてどうしていいか分からず、まだ組んだ手の上に顎を乗せている。
「はぁー……笑った笑った、内臓がひっくり返るかと思ったよ……くくく」
ふらふらと立ち上がった灰飾の目の端には涙が浮かんでいるし顔を上げて俺の顔を見るなり再び笑い声が漏れている、至極真面目に答えたつもりだったが余程ツボだったらしい。
「いやぁずーっと不思議だったんだ、あの墨白が急に人間に入れ込むなんて何が起きたんだと思ってたけど……なるほどなるほど、アタシも少年の事が好きになりそうだよ」
「ええと……ん、あの墨白さん……?」
こういうお世辞に対する上手い返しなんてパッと思いつかない、返事に迷いながら思考を回転させているとふと墨白への言い回しが引っ掛かった、いつの間に引っ張ってきたのか一人掛け用の椅子を俺のすぐ近くに置いて腰かけた灰飾がニヤリと笑う。
「そ、アタシが知ってる墨白はあんなに笑わないし……そもそも誰にも、自分にすら大した興味を示さない奴だったんだよ。それが今じゃどうだい? 常に少年を気にかけて少年の為に色々と準備をして……まぁそれでも少年以外に大した興味を示さないのはあいつらしいっちゃらしいけど、うっとりとした表情でスフィアを眺めるあいつときたら……少し薄気味悪いぐらいだったよ」
一旦言葉を区切った灰飾が椅子に深く腰掛け、言葉を探すように天井を見つめ……再びこちらを見つめた彼女の表情からは笑みがすっかり消え失せていた。
「少年、君は一体何者だい?」




