第百三十三世 マーキーズ・ブリリアント
「ん……え、あれ? もう!?」
ふと目を開くと、もはや見慣れた部屋のソファに腰掛けていた。壁に埋め込まれた大きな暖炉の中では赤々と薪が燃え、時折弾けては小気味のよい音を鳴らしている。
「全身麻酔みたいなもんだって言ってたから段々意識飛ぶのかと思ったけど……いつ薬を打たれたのかすら分からなかったな、まぁ……いっか」
ここへ来たのは今日で二ヶ月と、一日……恐らくは今の俺も以前と同じ思念体というやつなのだろうが、あまりにも違和感が無いせいか本当にただここで居眠りをしてしまっただけのような気もしてくる……ふっと息を吐くとソファに深く腰掛けて天井を見上げ、無数の細い鎖で吊り下がるシャンデリアをぼうっと見つめる……迷いは? 無い、では……寂しいか?
「……そんなの、決まってる」
誰に向けてでもない言葉を吐き出し、ソファから立ち上がる……寂しいかなど今更聞かれるまでもない、だがここまで俺は自分のやりたい事を貫き通してきたのだ、過去の自分を反面教師にしたかのような今日までの生き方はそのまま、過去との決別でもある。
──一度は全てを諦め、捨てた。とても、それこそ笑ってしまう程にとても軽い命……人生だった。
「……よし!」
自らの頬を叩き、気合を入れ直すとぐるりと部屋を見回し……目的の部屋への順路を思い出す、メモなどがあれば一番手っ取り早かったがここにいる俺自身が肉体を持たない存在なので仕方ない、無理矢理頭に叩き込んだ地図を反芻しながら扉の前に立つとドアノブを握り、開く。
柔らかいカーペットを踏みしめる度にまるで新雪を踏んでいるかのような柔らかい感触が足の裏に広がる、天井から吊り下がる硝子管の中には炎のように揺らめく水が蠢き、辺りを柔らかい青色で照らしている。
廊下には窓はあるが外には暗闇が広がっており、あの暗闇は決して夜だからではなく世界と世界の狭間故に……本当に何も無いのだと、天使たちが教えてくれたのだったか。
「そういえば……ここって、どうなるんだろうな」
壁を手でなぞりながら歩いていると、ふとそんな疑問が頭をよぎった。
主を失った家屋の末路は悲惨なものだ、荒れ果て……崩れ、自然に還るという言い方をすればまだ納得も出来るが、では世界の狭間に建つこの屋敷は?
「……そんな目で見るなよ」
なんとなく屋敷に恨めしい感情をぶつけられたような気がして思わず苦笑し、壁を軽く指先で数度叩く……お前は神の居城なんだ、もっと胸を張ってもいい。
ゆっくりと、一歩一歩踏みしめるように廊下を進み……階段を上がり、やがて目的の扉の前に辿り着いた。客室のものとそう変わらない木製の扉、特別な装飾も無ければ恐らくは鍵を閉める機構すら無い。
「……いや」
ノックをしようと持ち上げた手を止め、しばらく考え……そのままドアノブを握り、押し開く。
「っ……」
ドアを開いた瞬間、暖かく爽やかな風が一気に吹き抜けていった……迷いやいつまでも胸の奥で燻っている感情をあっさりと吹き飛ばすその風を一身に受けながら、部屋の中へと足を踏み入れる。
白と灰色を基調とした実に清潔感のあるその部屋は豪奢でありながら嫌味が無く、どこか落ち着く雰囲気を放っていた……ゆったりと座れそうなテーブルセットの上には香炉が置かれ、お茶のような香りを漂わせている……壁に掛けられた額縁には沢山のカトラリーセットが飾られているのは、彼女の趣味だろうか?
「……あ」
なんとなく部屋の中を歩き回り、火のついていない暖炉の前に立つとそこには一振りの剣が飾られていた……赤子の牙、しかも刃にはラキの攻撃を受け止めた時に付いた傷……俺が、ここで訓練した時に使っていたものだ。
ふと、眩しい程の光を差す窓の方へと視線を向ける……ここは世界と世界の狭間、ゆえに間違いなく魔法で映しているだけの景色なのだろうが……大きく開かれた窓の外、バルコニーのような手すりの向こうには大きな湖と、山々が広がっていた……ただの創作か、どこかの景色なのかは分からないがこれが彼女の好きな景色なのだとしたら、俺もきっと好きになるだろう。
バルコニーの手すりに寄り掛かりながらくるりと振り向き、天蓋付きの大きなベッドで眠っている彼女の方へと視線を向ける……しばらく見つめ、心を決めると部屋に置かれていた椅子を一つ拝借して彼女の傍に置くと、そこに腰掛ける。
「……灯歪」
俺が静かに声を掛けると彼女はすぐに目を開いた、やや眠そうに目を半分だけ開いたまま俺の方へ視線を向け……温かそうなキルトケットで口元を覆うと、半分しか開いていない目を更に半分伏せる。
「せっかくキミが来てくれたのに、こんなにも複雑な気持ちになるなんて……きっと今日……ううん、今だけだろうね」
すっと伸ばされた灯歪の手を握ると、そのまま彼女は目を閉じ……開け放たれた窓から三度目の風が吹き込んだ頃、再び目を開くとベッドから立ち上がり……白いネグリジェ姿のままで、俺を抱き締めた。
「まずは……おかえり、よく来てくれたね」
「ただいま、灯歪」
「セルケトとの戦い、みんなで見てたよ。随分と無茶苦茶してたじゃないか」
「あはは、ちょうどさっきエスにも怒られたとこ」
背後で衣擦れの音がする、椅子をバルコニーの方に向けて必死に平静を保って湖を見つめるが……どうしたってすぐ後ろで着替えている灯歪の事が気になってしまう、しかも少し視線を左にズラせば恐らくは灯歪の姿を映しているであろう姿見の鏡がある……魔が差したと言えばいいと小悪魔が左から囁き、どうせ彼女なら見たところで怒ったりなんかしないと悪魔が右から囁く。
「そうかい?……じゃあ最初の二発、回避が間に合わなくて焦っちゃった事は?」
「それも、もうラキさんに散々……メノさんぐらいじゃないかな、何も言わなかったのは」
「ふふ、じゃああの子は気付いてないだけだね……あの子だって、キミの戦いを見ている時は拳を握っていたんだよ?」
「……全然そんな素振り無かったのに」
「あの子は他人の機微には敏感なのに自分には興味が無いみたいだからね、その内もっとボロを出すと思うよ?……それより、もだ!」
「ぬおっ!?」
何かを縛るような布の擦れる音が響き、灯歪が背後から飛びつくように俺を抱き締めた……突然の事に驚き、間抜けな声が口から飛び出してしまう。
「どーして鏡でボクを覗かないのさ! せっかくその為にそこに置いたのに!」
「なっ……じゃああの鏡は、わざと!?」
「そうだよ? だって鏡なんて無くても、自分の姿を映す方法なんていくらでもあるしー……それより、ああいうのがキミの好きなラッキースケベってやつじゃないのかい?」
「あってるけど……あってるし、そりゃあ好きだけどもさ!」
耐え難い誘惑に握り拳をつくり、グッと堪えながらソファから立ち上がると灯歪の方へと向き直る……いつものようにフリル付きの黒いローブをまとい、長く伸びたくすんだ金髪を左右で細く結んだ少女が『それ見た事か』と悪戯な笑みを浮かべている。
「話が、あるんだ」
ハッキリと彼女の目を見据えてそう言い放つとニヤニヤと笑っていた彼女の表情から笑みが消え……やがて小さく息を吐くと、ベッドに腰をおろした。
「……そうだったね」
「灯歪は……俺がストレイダと戦う前にここで言った事、覚えてる?」
「もちろん、キミが言った言葉は一言だって忘れないさ……今でも、しっかりと覚えてるよ」
「なら、約束通り……もう一度、現実世界の神になってくれる?」
「ふぅー……キミって奴は、本当に諦めてなかったんだね」
両手を組み、しばらく考え込んだ彼女だが……やがて、ゆっくりと首を振る。
「あの時キチンと返事できなかったボクが悪いね、いいかい? ボクの意志なんて関係無いんだ、ボクにはもう……現実世界に帰る方法すら無いんだ、だから約束もなにも……」
「そういうの全部取っ払ってさ、戻りたいか戻りたくないかだったら……どう?」
「そんなの……!」
力んだ灯歪が立ち上がり、向かいに座る俺に一歩詰め寄る……溢れんばかりの感情が彼女の背後で渦を巻いているのが見えるかのよう──言葉にせずとも、答えは彼女の表情が教えてくれる。
「……あまり、意地悪な事を言わないでおくれよ。今言ったように戻る方法なんてもう無いんだ、ボクがどう思っているかなんて……」
「なら、俺が鍵を作ってあげる」
「……え?」
ポカンとする彼女の目の前で自らの耳の後ろを二度、そして少し間を開けて更に二度叩く……これが、合図だ。
「き……キミ? 一体何を企ん、で……」
困惑する灯歪の前にずいっと片手を差し出す……すると俺の手のひらから小さな、ピンク色の結晶が姿を表した……これが何かは、俺よりも目の前で言葉を失っている彼女の方がよく知っている筈だ。
「ば……か、な。どうしてそれがここに……どうやって……?」
「ラキさんたちが作り方を調べておいてくれたんだ、こんなものを本当に一人で作り上げたのかってみんなビックリしてたよ」
「ラキたちが……? それに、これ……ボクが作ったものよりも魔力も純度も高い……まさか」
「さすが、やっぱり灯歪には分かるんだ?」
俺から受け取り、外から差し込む光にかざしながら結晶を見つめた灯歪が驚きの声を上げた……やはり彼女には分かるらしい、俺にはとうとう最後までさっぱりだったというのに……思わず苦笑してしまう。
「鬼にネクロマンサー、グーラにガルダに自動人形やドッペルゲンガーとヴイーヴル、それに天使たち全員……要するに、こっちで出会ったみんなの魔力を混ぜてみたんだ。不安だったけど……灯歪の表情を見るに、成功したみたいだね」
「だ……だけどこの安定性は……!? 天使たちは確かに現実世界の種族だけれど、それだけじゃ魔力が安定するはず……っ」
信じられないと言葉を並べた灯歪が唐突に言葉を区切り、ハッとした表情で俺を見つめた……ニコリと笑い、頷くと彼女の体から力が抜け……ベッドに沈み込む。
「そ、強すぎる魔力と神の魔力を共存させ続けた存在ならここにいるでしょ?……魔力を混ぜ合わせた結晶を安定させる為に、俺の目玉が二つ入ってる。風重が言うにはそこが一番魔力が集中してるらしいからね」
……今頃向こうは俺の眼球の移植手術でてんやわんやの筈だ、風重の持ってきた新しい眼球を使えば元通りに見えるし、魔力への馴染みも良くなるらしいが……やはり背筋は寒くなるし、今俺がどんな状態なのかは考えたくない。
「目を取ったらここにいる俺が何も見えなくなるんじゃないのーって言ったんだけど、ここで俺がこうしている時は脳で見てるから問題無いらしい……って、今はそんな話をしてる場合じゃないよね」
苦笑し、彼女が倒れ込んでいるベッドの隣に腰掛ける……そんな俺に灯歪がチラリと視線を向け、脚を軽く叩く。
「……ばか、どうしてそんな大切な事を一人で決めちゃうのさ」
「ごめん、俺も驚いたよ……考えるだけでもゾッとするのに、大して悩まなかったんだよね」
「本当にばかだよキミは、こんな……ボクなんかの為に」
「そう、俺はバカだよ」
声を上げて笑い……灯歪の隣に横になる、目の端に涙を浮かべる彼女の涙を指で拭い……ニッと笑ってみせる。
「俺は灯歪の、バカ息子だからね」
「──っ!」
止めどなく溢れ出した涙を止めようともせず、灯歪が俺を強く抱き締めた……しっとりと濡れた肌を爽やかな風が撫でつけ、ひんやりとする。
すすり泣きに嗚咽が混ざり、声を上げて泣きじゃくる灯歪をただ抱き締め続けてどのくらいが経っただろうか……少し落ち着いてきたのか、泣き声が収まってきた彼女の顔を見ようとするとそっぽを向かれてしまった。
「今はダメ……ひどい顔だから」
「それは残念……少しは落ち着いた?」
「落ち着くわけ無いだろう?……全く、今ならもう一つ海が作れそうだよ」
「あはは、大陸が全部沈んじゃいそうだね」
ケラケラと笑ってみせると灯歪が呆れたように息を吐き……俺にも見えるように結晶をつまみあげた、ずっと握り締めていたせいか表面が少ししっとりとしている。
「それ……使えそう?」
「問題無いよ、後は仕上げにボク自身の魔力を込めれば起動する……これなら、人間たちを導く事も出来る筈さ」
「ああ良かった……ならすぐにでも今の神様蹴っ飛ばして、灯歪が神様の座に戻らないとね」
「そうだね……でも、ボクには一つだけやり残したことがあるんだ」
「……やり残したこと?」
灯歪の言葉に思わず首を傾げると、ニコリと笑った彼女が頷き……グッと顔を近付けた。
「うん、キミは今……お腹、空いてるかい?」




