第百三十世 内緒の代償
「いい? 墨白、向こうに着いたら私の番だからね?」
「ええいうるさいわい、そう何度も言わずとも分かっておる!」
俺をどこぞのお姫様のように抱えたのはまだいいが、灰飾の店を出るなり口論を始めてしまった風重と墨白に思わずため息が出る……最近はあまり気にする余裕が無かったが、頬や服の隙間を抜ける心地の良い風と透き通るような青空……遠目に見える上層を眺めていると、なんだか気分が落ち着いてくる。
「……ん、どうした? お前様よ?」
墨白の腕の中で小さく笑うと二人の視線がこちらに向いた、驚くほどの安定感を感じる腕の中でグッと両手を伸ばし……大した事じゃないけど、と小さく首を振り二人の顔を順番に見つめる。
「なんかさ、すっかりここの空気とか……雰囲気とか? そういうのにも慣れたなぁって、馴染んだっていうか……それが、なんだか嬉しくってさ」
俺の答えにポカンとした二人だったが……すぐに目を合わせてニヤリと笑い、頷いた。
「そりゃそうよ、貴方はもう私たちと同じこっちの住人なんだもの。ただ、捕まった……とも言い換えられるかもね?」
「くふっ……うむうむ、呑気に喜んでおるのはいいが、こわぁい儂らから逃げられなくなっただけやもしれぬぞ?」
「な、なんでそんな言い方になるのさ……!」
思わず顔をしかめると二人は声を上げて吹き出し、風重が俺の頭を撫でた……ある程度彼女たちには認められているつもりだが、それでもこうやってからかわれる立場なのは今後も変わる事はなさそうだ。
「それより、早く行こうよ? 乗り遅れるかもしれないし……時刻表とか無いから、そもそも時間とか分からないけど」
「案ずるでない、アレは乗りたい時に乗りたい者を待っておるでな。とはいえ……時間が無いのは儂らの方か」
思い出したかのように頷き、墨白たちが店の前から歩き出した……七釘の総隊長受任式を三日前に控えた今日、俺は最後のワガママを叶えるために世界横断起動列車──通称『星銀』に乗って風重の研究所のある、流底世界へと向かう事にした。
「っはー……!……はぁ、はぁー……!」
「くふふっ……ほうれ、そんなに強く掴んでは指を痛めてしまうぞ?」
半刻とかからずに星銀の駅へと辿り着いた……のはいいのだが、まさか下層まで降りて底の無い井戸に飛び込む羽目になるとは思っていなかった! 確かに入口は時々変わるとは聞いていた、聞いていたが……それでも、限度というものがあろうだろう! 墨白に抱えられているので飛び込むまでは良かった、しかしその後に襲い来る腹をえぐるような浮遊感といったら……思い出すだけで胃の奥からせり上がるような吐き気がしてくる。
もう無事なのは分かっているのだが墨白の身に纏う藍色の着物の襟から手が離せない、皺になってしまうかもしれないのですぐにでも離したいところだが、彼女は俺の手を包み込むように軽く握るだけで微塵もその事を気にする様子は無い。
「墨白、切符買ってきたわよー……ってあら、相当怖かったのねぇ」
「おおすまぬな、ふむ……やはり何の説明もなく飛び込んだのがまずかったかのう?」
「普段はもっと無茶な事ばっかりしてるクセにねぇ?」
目を細めて俺の頬をつつく風重に噛みついてやろうかとも思ったが、やめておくことにした……そんな事をしても、逆に喜ばせるだけな気がする。
彼女らを見ていると俺は何を怖がればいいのか時々分からなくなってくる、呆れたのか気が紛れたのか……落下の恐怖は段々と抜けてきたのでふっと息を吐き、差し出された金属製の切符の内の一つを掴む……以前とは違い、三人分の切符がブーメランのような形状に広がっている。
三人で切符を一つずつ掴むと、やはり一度強く光ったかと思うと三つの切符の全てが青い砂粒のように崩れ落ちてしまった……便利なのかもしれないが、形が残らないのは少し残念なような気もする。
「おぉ……! 前の部屋と違う!」
星銀に乗り込み、個室へと辿り着いた俺は眼前に広がる新鮮な光景に目を輝かせていた……以前の個室も高級感の漂うものだったが、今回の部屋はまるで隠れ家だ……照明は間接照明とキャンドルの落ち着いた明かり、バーカウンターまである! 相変わらず文字は読めないし、そもそもあまりお酒を飲まないので使うかは怪しいが……雰囲気としてはかなり好みだ! 以前には無かった二階もあり、そこまで広くはなくベッドや簡易テーブル、観葉植物なんかが置いてあるだけだが墨白の腕から降り、転ばないように気を付けながら二階へと上って階下の二人に向けて手を振っているだけでも楽しい!
「ああもう、可愛いけど転ばないようにしなさいよねー?」
「分かってるってー!……ふぅ」
一通りの興奮を吐き切り、三人で横になっても余裕の広さのベッドに横になり壁へと目を向けると、不意にベッドが沈んだ……ハッとしてそちらに視線を向けると、風重がすぐ近くに腰を下ろしている。
「墨白さんは?」
「お花を摘みに、それより……どう? 貴方の知ってる魚はいる?」
「……どうだろ、現実世界に居た頃もそんなに気にしてなかったし……」
風重の視線を追って俺も壁に目を向ける……ある意味でこの部屋の一番の目玉、壁という壁を覆い尽くす巨大水槽だ。アクリルなのか硝子なのかすら分からない透明な壁の向こうでは優雅に泳ぎ回る赤や黄色など彩色豊かな魚達……俺たちの動きに魚達は時折反応しているかのような動きを見せるがこの水槽の向こうが本物なのか、はたまた魔法で映している映像なのかは分からない。
「そういえば……今日は随分とフィルが残念がってたわよね?」
「……んっ!? そ、そう……だった?」
思わず言葉に詰まる、確かに今朝からフィルの俺に向ける視線には以前にも増して熱がこもっていたし、流底世界へ出掛けると言った時はまるで世界の終わりのようにしょんぼりとしていた……見透かすような風重の視線が、痛い。
「……死蝋を剥がしてあげたとき、何かあった?」
「いやっ……まぁその、フィルの恰好も恰好だったし……恥ずかしかったんじゃない、かなっ?」
「……本当に、それだけ?」
覆い被さるように詰め寄る風重の鎖骨辺りに右手をつけ、形だけの抵抗を見せると彼女の髪の内側が赤く光った……先程まで気にならなかった彼女の香りが、妙に強く感じる。
「ね……もし私も全身のメンテナンスがしたいって言ったら、貴方は手伝ってくれるかしら?」
「え?……そりゃ普通に、手伝うよ? 俺、全然知識とか無いから力になれるかはアレだけど……」
思わずポカンとしてしまう、妖艶な雰囲気から何を言いだすのかと思えば……当たり前ではないかと彼女にも見えるようにしっかりと頷く。
「貴様の負けじゃな、中途半端に日和るからそうなるんじゃぞ?」
「なあっ……! べ、別に私は日和ってなんか……!」
背後からの声に慌てて顔を上げた風重の顔は真っ赤に染まっていた、間接照明のせいだと言い張るには……ほんの少し、苦しいかもしれない。
「まぁよい、それより……そろそろ始めぬか? 早めに準備しておきたいというのもあるが……儂の気が変わる前に済ましておきたい」
「……そうね、余裕があって困る事なんてないもの」
墨白の言葉にすっと表情を戻した風重が頷き、ベッド脇の簡易テーブルを引っ張って近くに寄せるとどこから取り出した大きめの鞄の中から様々な器具と……銀色のカプセルを数個並べた。
それを見た墨白が俺のブーツを脱がし、片手で俺を抱え上げるとベッドの中ほどに横たえる。
「風重、そのカプセルは?」
「これ? これは造血剤よ、今からこの中に貴方の血液を数滴入れて……何倍にも増やすの、少し時間がかかるから今の内に作っておかないとね」
そう言って鞄から白い円柱状の器具を取り出し、俺に視線を向ける……恐らくは採血用の道具だろうと頷くと彼女が器具を俺の腕に押し当てた。針も無いので痛みも無く、採決された時特有の血圧が下がるあの感覚も無いが……数秒後に離された器具を見て風重が頷いているので、無事に血は抜けたようだ。
「……墨白さん」
「ん、なんじゃ? 何か欲しいものでもあるか?」
俺の横たわるベッドのシワを直していた墨白に声を掛けると彼女が顔を上げ、近くへと来てくれた……ゆっくりと首を振り、彼女の手を握る。
「……ごめんね」
「ふぅ……全くじゃな」
俺の手を握り返しながら墨白がふっと息を吐く……その姿に避けようのない罪悪感を感じ、思わず目を伏せるが……不意に首に両手を回され、ハッと目を開く。
「じゃが……それでこそお前様らしいとも言えるわい、儂の愛しておる……な」
「……墨白さん」
笑みを浮かべた墨白が俺の鼻先に軽く唇を押し当て、再びニコリと笑い……ギュッと俺を抱き締めている腕に力を込め、軽く首を絞めた。
「じゃ、が! 儂に内緒にしようとしたのはやはり許せぬのう! ええいこの、たわけめが!」
「あたたた! ごめ、ごめんって! それはもう、何度も謝ったじゃんかぁ!」
「……そういえば、私には散々口止めしたのに……随分あっさり白状したわよね、墨白……貴方、何をしたの?」
「うん?……ああ、そんなもの決まっておる。ちょいと挟んだら、すぐに……よな」
ニヤリと笑う墨白を見てあの時の激痛が脳裏を巡り、触られていないのにどことは言わないナニがキュッと縮こまる。
「……挟む?……貴方のソレで?」
「む?」
首を傾げた風重が墨白の胸元へ視線を落とし……やはり納得いかないといった表情に墨白もすぐには分からなかったのかポカンとしたが、俺がすぐに吹き出した事で察しがついたのかわなわなと体を震わせ……風重に片手を突き出した。
「阿呆が! 爪じゃ爪! これで軽く捻り上げてやったのよ!」
「あらそう……へぇ、それだけで言う事聞いてくれたのね?」
「あははは!……は?」
笑い声を上げる俺に方へ怪しげに目を光らせる二人が振り向いた……思わず視線を巡らせて逃げ道を探すがここは星銀の個室の中、逃げ場などあろうはずがない。
「いや、ちょ……え? もう秘密にしてる事なんて無いよ? あれで全部よ? ちょーっと二人とも、目が怖いかなーって?」
「大丈夫よ、私は優しいから……貴方は、クセにならないかだけを心配するといいわ」
「くふっ……お前様から迫られるのもよいが……やはり、儂は待つだけは性に合わぬでなぁ?」
……言うまでもない事だが二人に対して万全な体調だったとしてもろくな抵抗など出来る筈もなく、薄く鋭い鬼の爪で散々くすぐられ、どうしてそんな物を持ってきた? と問い詰めたくなる風重の器具で散々責め立てられた俺は十分もしない内に涙と汗と涎でドロドロになり、ぐったりとした辺りで二人に体を洗ってもらう事となった。




