第十一世 パッチワーク・スキン・ガール
「お前様よ、ざっとこの世界を見た感想はどうじゃ?」
顔だけをこちらに向けた墨白が問い掛けてきた、こっちは他の人にぶつからないようにするのに精いっぱいだと言うのに……顔の側面に目でも付いているかのように軽々とすれ違う人を避けて歩いている。
「賑やかだし人が多いし文字は読めないし、どこを見ても知らないものだらけ……うおっ!」
「おっと」
何かに躓いたのかバランスを崩し、転びそうになるがいち早く気付いた墨白が支えてくれたお陰でどうにか転ばずに済んだ……しかし本当に景色も音も、匂いも初めてのものばかりで何だか頭がクラクラしてくる。
「でも……なんか楽しいよ、正直わくわくしてる」
「くふっ、そうかそうか」
墨白の両肩に手を置きながら答えると俺の腕の間で彼女の口元が嬉しそうにつり上がった、その表情を見ているだけで墨白という存在が俺の中でどんどんと大きくなっているのを感じる。
「この人混みもじき抜ける、さぁ行こうか」
その言葉通り数分と立たない内に人混みを抜けた、振り返れば未だ沢山の人達が屋台の前を行き来しているがまるで見えない壁があるかのようにこちらへ向かおうとする人影は一つも無い。
改めて前へと向き直ると目の前には大きな赤い橋がかかっていた、左右の手すりには擬宝珠が取り付けられた鮮やかな朱色の橋……あまりにもミスマッチでレンガの床から伸びている橋とは思えない、どちらかと言えば墨白の屋敷にある方が雰囲気は合っている。
「あの橋の向こうは何があるの?」
「主に居住区じゃな、奴の店はこの橋を渡ればもうすぐ目の前じゃ」
だから誰も近寄らないのかと一人で納得すると墨白に続いて橋に足をかける、見た感じは木製の筈だが体重をかけて踏みしめても僅かな軋みの音すらしないのは例の浮遊する金属のせいなのだろうか? それとも他の何か……問い掛けてみようかと口を開きかけるが、出かかった言葉は橋の脇から突如飛び上がってきた何かのせいで飲み込む事になる。
「あ、魚……!?」
虹色の魚、というより虹そのものが魚の形をしていると言った方が正しいか? とにかく向こうが見えるぐらいに透き通った体を持ち虹色に煌めく魚が手摺の向こうから飛び上がり、そのままアーチを描くように反対方向の手摺の向こうへと落ちていく。
異常な跳躍能力はともかく下は空が広がっていた筈、なのにどうして魚が……? 逸る気持ちを抑えられず、魚を追いかけて反対側へと走ると両手で手すりを掴みながら勢いよく下を覗き込む。
「空を……泳いでる……?」
それはまるで絵画の世界だった、幾重もの金色の線で描かれた川の流れの中を先程の虹色の魚が漂っており……ある筈の無い水の音まで聞こえる気がする。
「おお、おお。今日は特に元気がいいのう……こやつらも、お前様が来て喜んでおるのかもしれんなぁ」
「喜んでって……まさかあの魚達とも話せたり、とか?」
「くかかっ、さすがに魚の言葉は分からんのう! それに話せるようになりでもしたら今後魚が食べ辛くて仕方なくなってしまうわい」
「確かに……あの魚にも名前はあるの?」
喉を鳴らして笑う墨白の言葉に妙に納得してしまった、普段から口にしている食材の言葉を聞いてしまっては延々とその姿がチラついて進む箸も進まないだろう。
「もちろんあるぞ、鱗陽炎という。元々は肉体をもたぬ魚類だと思われておったが……最近では別の世界に実体があり、あそこで泳いでおるのはただの影じゃと言われておる」
「ただの影が、別の世界から?……どういう事?」
「さぁ? 魚とて生まれた場所とは違う場所を泳ぎたいと願っておるのか……はたまた魚どもが見ておるただの夢の片鱗なのか、それは儂には分からぬ。じゃが……悪くない景色じゃろう?」
「うん……綺麗だね」
荒れた流れも無く命を脅かす天敵の存在も無い。自由に泳ぎ回り、時にはゆっくりと体を休める……俺達が見ている事を知ってか知らずか、一匹の魚が再び大きく飛び上がった。
「さぁ着いたぞ、ここが目的の喫茶店……『渦留まり』じゃ」
橋を抜けた先の居住区から路地裏に入り、角を二つほど曲がったところにその建物はあった。
黒とくすんだ赤を基調としたレンガ造りという点や吊り下げられた金属製の看板に書かれた文字は例にもよって読めないが建物の雰囲気は確かにレトロな喫茶店然としている、しかしどこを見回しても窓が無く妙に横に長いので喫茶店というよりは倉庫に近いような印象を受ける。
「……うずどまり? ここに、あの手紙の人がいるの?」
「うむ、店の名前については……まぁ暇な時にでも奴に直接聞いてみるといい、突っ立っておるのもなんじゃし中に入ろうか?」
鍵が開いているのを分かっていたかのように扉を押し開き、その状態のまま俺に入れと手で促す。
僅かに開いた扉の向こうは真っ暗で何も見えない、しかし扉を開けてもらったまま立ち尽くす訳にも……思考よりも罪悪感の方が勝り、一言墨白にお礼を言うと店内に足を踏み入れる。
「おっ……と」
急に足元が不安定になったかと勘違いする程に柔らかいカーペットに足を取られ、よろめきながらも姿勢を整えると店内を見回し……なるほど、という言葉が口から漏れた。
店に入ってすぐ目の前に現れたのは広い踊り場と下へと伸びる扇状の大きな階段、下った先には長いカウンター席があり左右の壁沿いにはテーブル席もある。
テーブルや椅子、天井から吊り下げられたランプや小物に至るまで全体的にシックな雰囲気で纏められておりお洒落だが窓が無いせいかやはり少し埃っぽく、優雅な午後のティータイムを過ごす場所というよりはちょっとした隠れ家のような印象を受ける。
「……にしても誰もいないね、墨白さ──うっ?」
踊り場に設置された手すりから身を乗り出しながらぐるりと見渡すが物音もせず誰かいる気配も無い、探すのを諦めて墨白に聞こうと振り返ると柔らかい何かに顔がめり込んだ。
薬品のようなすえた臭いに混じって甘ったるいミルクのような匂い、それに何より突然現れた柔らかい壁に目を白黒させながらよろよろと後退して手すりに寄り掛かりながら改めて顔をあげると……そこにいたのは墨白ではなく長い赤髪を乱暴に一つにまとめた長身の女性だった、動物園に初めて来た子供のような好奇心に満ちた両の黄色い目をこれでもかと広げて俺の事を見つめている。
「よーうやく会えたね少年、今日という日を待ちわびていたよ! 一分一秒がこんなにも長いと感じたのは初めてかもしれない!」
「ひっ……!」
目の前で大きく広げられた両腕に思わず生娘のような声が漏れた、なんて声を出しているんだと心の中で恥じながら固く目を閉じる……が、いつまで経っても赤髪の女性の指先すら俺に辿り着かない。
不思議に思いながらゆっくりと目を開くと……俺に向けて広げられた両腕は今や一本の白い腕を止めるのに必死で俺どころではないようだ、白い指から伸びる五本の鋭利な爪のどれもが正確に赤髪の女性の喉元に狙いをつけている。
「親交を深めるのも結構じゃが……貴様、まずは詫びる事があろう?」
「だ、だってアンタがいつまでも少年を連れて来ないから……それに少年の目の前に出たのはたまたまだって、たまたま!」
軽口を言ってはいるが墨白の腕を掴む両手が僅かに震えてる、それでも鬼の力と拮抗するとは凄い──いや違う、よく見れば既に爪の先端が喉を切り裂き中へと入ってしまっている! というか今もなおその深さを増しているではないか!
「ちょ、墨白さ──」
「だカラ、ゆっくり待ちまショー?……って言いましたよね、マスター?」
すぐ隣から発せられた声に驚きながら振り向くとそこには一人の少女が呆れ顔で立っていた……それにしても、どうしてこうみんな気配を消して立っているのかと一言文句を言いたいが勿論そんな勇気など無い。
そんな俺の視線に気付いたのか少女がこちらに顔を向けてニコリと笑って見せる、赤髪の女性は身長の高さにこそ驚いたが白いワイシャツにえんじ色のベスト姿と服装も至って普通で何の違和感も無かったが目の前の少女は違った。
ところどころにくすんだ金色のフリルがあしらわれたゴシック調のドレスを身に纏い、それだけでも目を引くが頭頂部から綺麗に紫と薄い緑に分かれた二色の髪色に加えて白っぽかったり灰色に変色している皮膚がパッチワークのように縫い合わせられた顔……ドレスの丈も長く腕には肘までを覆う手袋をしているので分からないが、恐らくその下は顔と同じようになっているのだろう。
「──あ」
上から下までを舐めるように眺め、そこでようやく目の前の少女が困ったような笑みを浮かべている事に気が付いた……やってしまった、そんな後悔の気持ちが胸の奥を強く締め付ける。
「墨白サン、立ったままでは落ち着いて話も出来ませんし座りませんカ? 彼も何が何やら分からなくて困ってるみたいですシ」
「……そうじゃな、そうさせてもらうとしよう」
少女の一言で墨白の腕から力が抜け、引き抜かれた爪の先端は鮮血で赤く染まっていた。
その手を大きく振り払って濃い赤色のカーペットに血を吹き飛ばすが少女も赤髪の女性もまるで気にしている様子は無い……というか思いっきり刺さっていたが大丈夫なのだろうか、と赤髪の女性に視線を向けるが苦しそうに喉を押さえながら数回咳払いをして手を離す頃には傷痕はすっかり消え去っていた。
「待たせてすまぬなお前様よ、行こうか」
「あ……うん、えっと……」
その前にせめて一言謝罪を、そう思って墨白に向けた視線を再び少女へと戻すが彼女は一足早く階段を下りて行ってしまった……謝りそびれてしまった、何かを察したのか赤髪の女性だけは困ったように笑いかけてくれたが何も言われないというのもそれはそれで辛く、後味の悪い罪悪感だけがじわじわと胸を締め付けていた。




