第十世 交路世界と食欲の匂い
穴の底へ近づくにつれて周囲の湿気が高くなってきた。壁面や階段は黒く変色していき、ヒカリゴケの表面からは断続的に水が滴り落ちている。
そんな変化をのんびりと楽しむ暇も無く、目的の扉のある底へと辿り着いた……とはいっても本当に金属製の扉が一枚壁に埋め込まれているだけ。その扉も禍々しさや異様な雰囲気を纏っているわけでもなく真鍮色の枠に縁どられた装飾も何も無い茶色い扉、変わった点といえば枠組みと同じく真鍮色のドアノブに赤い石が埋め込まれているところだろうか。
「この扉の先が……別の世界?」
「うむ、そのとおりじゃ」
「……」
正直に言ってしまえば拍子抜けしていた、デカい屋敷にデカい竹林にデカい穴……次は何かと構えていたところにこんな倉庫の入り口のような扉では無理もないというものだ。
それに扉には鍵穴すら無い、もしや別の世界とは地下世界とかそういう事だったのだろうか? それはそれで凄いが……。
「ん?……うん?」
扉が開かない。ドアノブを回して押しても引いても開かず、もしやとまさかの引き戸説を実践してもやはり開かない。
しかも鍵が掛かっているのであれば扉そのものがガチャガチャと多少は動く筈なのに、まるで壁に吸い付いているかのようにピクリとも動かない。
「ぷくっ……くふふ」
完全にお手上げだが一仕事終えたとばかりに額を拭ってみせると背後で吹き出す声が聞こえた、振り返りながらジトリと睨んでやると案の定墨白が腹を抱えて声を殺しながら笑っている。
「す、すまぬすまぬ……悪戦苦闘しておるお前様があまりにも可愛くて声を掛けるのを忘れてしもうたわい、くくく……!」
「で……これ、どうすればいいの?」
こういう時に声を張り上げては余計に相手を楽しませるだけだと知っている、なので努めてぶっきらぼうに言ってみると目の端の涙を拭いながら墨白が懐から一本の薄い金属製のプレートを取り出してこちらに差し出した、大きさは数センチほど……赤い線で幾何学的な文様が刻まれている以外に特徴は無く、これをどうすればいいのかと首を傾げていると呼吸を整え終えた墨白が自らの手首を指でトントンと叩いてみせる。
「こう……? うおっ!?」
見よう見まねでプレートで左の手首を叩くと何倍にも伸びたプレートが手首にグルグルと巻き付き、次の瞬間には肌に溶け込むように消えてしまった……一瞬の事で何も反応が出来ず、恐る恐るプレートが消えた位置の触ったりつまんだりしてみるが金属の感触は一切なく、皮膚を僅かに持ち上げる事しか出来ない。
「どれ、儂に見せてみよ」
呆然とする俺の脇からひょこっと顔を出した墨白に向けて左腕を向けると彼女はしばらくプレートの溶け込んだ位置をしげしげと眺め、やがて満足そうに唸ると頷いてみせた。
「よしよし……綺麗に馴染んでおるな、一応聞くが何か違和感はあるか?」
「何も……ていうか消えちゃったけど、あれって何だったの?」
「鍵じゃよ、多層世界とお前様を繋ぎ……新たな道を示す、の」
「世界と……繋ぐ」
頷く墨白に頷き返すと改めて扉と向き合い、ドアノブに埋め込まれた赤い石に左腕をかざしてみる……すると次の瞬間何やら重い金属が外れるような音が静かな穴の中に響き、扉が僅かに開いた。
脳内に生唾を飲み込む音が響く、口の中がカラカラだ……一体この扉の先に何が待っているというのか……恐る恐るドアノブへと手を伸ばす俺の手に白く、小さな手が重なった。
「……これから先、何があろうと儂がついておると言ったじゃろう?」
「墨白さん……」
ゆっくりと深呼吸し、大きく頷く。
覚悟は決まったし味方もいる! これ以上に心強いことが他にあろうか、すぐに芽を出す不安の影を吹き飛ばすように勢いよくドアノブを掴むとグッと力を込めて扉を押し開く──。
その景色は驚く程あっさりと目の前に広がった。中央をまっすぐに伸びる大通りの脇にはレンガ造りの建物や屋台が立ち並び、少し離れたこの位置からでも賑わっているのであろう沢山の人々の声が聞こえてくる。
しかし街の至るとこには鍵に描かれた幾何学模様のように複雑に陸橋や歩道橋のような階段が設置され、やはりお店の並ぶ通りが何層にも渡って形成されている……奥に長いデパートの壁を取っ払ったような構造と言えば分かりやすいだろうか? よく見れば通りから横に伸びた橋からも別のエリアに行けるようだ。一体どういうバランスでこの地形は成り立っているのかと唖然としていると再び強い風が吹き抜けた、どこから来たのか風に乗ってやって来た一枚の葉っぱを何となく目で追うと……横には広い空が広がっていた、青々としていて心まで晴れやかに……などといっている場合ではない、背筋に汗の垂れる嫌な予感が全身を駆け抜け、恐る恐る視線を下げると床に張り巡らされているのは目の細かい格子状の金属の板、その隙間からも覗ける下に広がっているのは……空だ。
「うおおっ……!」
思わず間抜けに叫びながら通路端の手摺にしがみ付く……金属製だが手で触れる部分のみは滑らかに磨かれた石材が使われており普段であれば高級感に唸るところだが、今この状況においては楽しんでいる余裕など無い。
「う、浮いてる……?」
「くふふっ! よい反応じゃのう……ほれ、大丈夫じゃから儂の手を取るがよい」
差し出された手と墨白の顔を見比べ……いつもより力を込めて手を握るとゆっくりと立ち上がる、自信満々に大丈夫だと言うだけあって少し暴れたにも関わらず支えも何も無い金属の通路がピクリとも揺れる事は無かった、とはいえそれはそれとして怖いものはやっぱり怖い。
「お前様よ、あそこ……地面の端の黒い部分じゃが、見えるかの?」
「黒い……あの、何か飛び出てるところ?」
手摺の向こうを差す墨白の指の先を追ってみる……今いるのは地上から恐らく二階分ほど上だからかよく見える、確かに地面は一面のオレンジや薄い黄色のレンガタイルだがその下に何か黒い金属のようなものが飛び出ているのが見える。
「浮遊黒片という、この街は全てあの板の上に乗っておってな? あれには特定の範囲の位置を固定する力があるゆえ、この滅茶苦茶な街の構造が成り立っておるという訳じゃな」
だからこの通路で飛ぼうが跳ねようが僅かも揺れる事は無く、ましてや底が抜けるなんて事も無いという事か……物理学者が頭を抱えそうなトンデモ理論に思わず苦笑してしまう。
「じゃあ……例えばあの金属だけで空中に階段が造れるって事?」
「なんとも贅沢な使い方じゃな! くふふっ、じゃがまぁそういう事じゃよ」
「そっかぁ……凄いなぁ」
両手で手摺に寄り掛かりながら改めて空や街を噛み締めるように眺める、『あり得ない』という言葉が喉元にすら上がってこなくなったのはせめてもの成長と言えるだろうか?
「この世界にあるんだよね?……ネクロマンサーの喫茶店と、別の世界への扉も」
「あるぞ、奴の喫茶店は下の大通りを進んで路地に入ったところにある。世界の扉は……この辺りには無さそうじゃな、じゃがいずれ必ず目にする機会が訪れようぞ」
隣に並んだ墨白がピンと伸ばした人差し指で喫茶店の位置をくるりと円を描いて大雑把に指差した、時折吹き抜けては前髪を弄んでいく風が心地良い。
「……それが交路世界、あらゆる世界への路が交わるこの世界の名前じゃ」
「交路世界……」
ボソリとこの世界の名前を繰り返す、俺の知っている別の世界へ飛ばされた物語の大半は元の世界へ帰る事がハッピーエンドへの条件だった。
……しかし実際に同じ出来事が起きてみてどうだ? 今ですら現実世界へ帰りたいなどとは微塵も思わない、むしろ次に目が覚めて全てが夢だったら……間違いない、それは最悪のバッドエンドだと心から言える。
「む?」
気が付けば墨白の手を握っていた、これまで幾度となく彼女の方から抱き着いたり触れてきた事はあったが……自分から触れたいと思って触れたのは初めてかもしれない。
「奴の店は下じゃが……そうさな、少し遠回りして行くとしようか」
小さく頷いて返事すると握られた手に俺のものではない力が加わった、たったそれだけで全く知らないこの世界でも何も怖いと思えなくなる。
「よ、読めない……!」
屋台の並ぶ通りに入り、キョロキョロとせわしなく首を動かすが一向に知っている文字に出会わない。
ならば食べ物はどうだと食べ物を扱っていそうなお店に絞って観察してみるが似たようなものはあっても知っている食べ物も一つも無い……そんな中ふと鼻を掠めた匂いに足が止まる、ぶつ切りにした肉を串に刺して出しているようだが火を通した後も鮮やかなピンク色をしており、溢れ出た脂で肉の表面が輝いている。
「食うか?」
「えっ……? あ、いや……」
余程俺は物欲しそうな顔をしていたらしい、おねだりなんて何十年振りか分からないし気恥ずかしさが凄いが……問題はそこだけではない。
「ていうか……大丈夫なの、あれ」
敢えて気にしないようにしていたが通りを歩いているのは俺達だけではない、他の世界の交わる大通り……その意味を俺は一歩踏み入れただけで嫌でも思い知った。
トカゲか蛇のように鱗に覆われた皮膚を持つ人もいれば折りたたんだ羽根が背中から生えている人、妙に細長い人がいるかと思えば先端の顔は仮面で胸の辺りに一つ目が光っている……なんて人も。
今しがたつい足を止めてしまった屋台の店主など辛うじて人型ではあるがその姿は古木そのものと言ってもいい、体の両端から生えた先端が三つに割けている枝を器用に操って肉串を調理しているが……関わってもいい存在なのかどうかが分からない。
「くふ、まぁ見ておれ」
「あ、ちょっ……」
俺の不安を察してかニヤリと笑った墨白が静止を振り切って屋台の方へと歩いていき、客に気付いた古木が手元に落としていた視線を上げた。
「店主よ、二つほど見繕ってくれるか?」
「はいよ」
木片を擦り合わせるような音と共にしわがれた声で返事をすると焼き上がったばかりの肉串を二つ取り上げると差し出し、肉串を受け取った墨白が見た事も無いコインを店主に渡した……どうやらこの世界にもお金の概念があるらしい。
「ほれ、なんてこと無かったじゃろう?」
「ありがとう……言葉、通じるんだね」
差し出された肉串を一本受け取り、チラリと古木の店主に視線を向けると目が合い……一瞬笑みを浮かべられた気がした。
「というより基本的な多層世界の特性による影響じゃな、実際に口にしておる言葉というより言いたい事や感情が伝わり、分かる形で返ってくる……と言った方が正しいかもしれぬ」
「なるほど……」
ならば俺でもここで買い物をする事が出来るかもしれない、それはそれとして今は目の前の脂が滴る肉に我慢出来そうにない……喉を鳴らし、串の両端を指で支えながら一口で食べるには大きい肉に思いっきり齧り付く。
「っ!?」
前歯で簡単に嚙み切れるのにこの弾力、繊維を奥歯でぷちぷちと潰していく感覚が堪らない! スープのように溢れ出てくる肉汁もしつこくないどころか更に食欲を刺激して口の端から汁が垂れている事に気が付いていても食べる事を止められない!
「美味しっ……ん?」
ふと何かに体を突かれ振り返る、当然墨白が呼んだのかと思ったが……そこに居たのは一本の細長い枝、先端には白い紙切れが握られてる。
「それで口を拭けとさ、口の周りがベトベトじゃぞ?」
そう言って笑う墨白の手には小ぶりな樽が二つ、どうやら椅子代わりになるものを探してくれていたらしい。
樽に腰掛け、枝から紙を受け取ると古木の店主の方へと視線を向ける……その顔には今度はハッキリと笑みが浮かんでいた。
「……旦那、俺にもそれ一本くれるか?」
「こっちにもくれ!」
心温まる無言のやり取りも束の間、店の前にどんどんと人が並んでいき仕事に戻った古木の店主は忙しそうに枝を動かし始める……一体どうして、と呆然としてると隣に座っていた墨白が声を上げて笑い始めたではないか。
「くかかかっ! お前様が随分と美味そうに食べるものだからみな釣られたのだろうよ! くふっ……種族が違えど、食欲は同じよのう」
恥ずかしいやら嬉しいやらで顔が熱い、俺よりも遥かに綺麗に食べる墨白を真似しようとしたが上手くいかず……最後は開き直って食欲のままに貪る事にする。
──結局、食べ終わってその場を離れるまで行列が途切れる事は無かった。




