第一世 白銀の鬼
『別に死にたい訳じゃないけど、この世界で生きるのは俺には難しかったよ』
「……ふっ」
辞世の句とするにはあまりに陳腐な一文をスマホのメモ帳に打ち込み、思わず鼻で笑ってしまう。
どうせならと書いてはみたものの、考えてみれば俺は一体誰に向けて書いたのだろう? 家族とは長く疎遠だし、職場を転々としたせいで友人と呼べる人もいない。
後日ここを訪れるであろう警察の方々に見られる事を考えると、堪らなく恥ずかしくなってきた……やはりこんなもの、最初から書くんじゃなかった。
「ふぅー……」
長く息を吐き出し、ボロボロの座椅子に寄り掛かる……もうすぐ冬になろうというのに足を突っ込んでいるコタツには電源が入っていないし目の前で鎮座なされているテレビは長らく置物と化している、真っ暗な部屋の中で光を放っているのはロック画面を表示し続けているスマホの明かりだけ……電気が止められたのはいつの事だったか。スマホの電池も残り一桁だし、残された時間はせいぜい数十分程度だろう。
スマホの画面を周囲に向けて順番に部屋を照らしてみる……勢いで買ったけど今思えば読む必要も無かった漫画、とくに何も考えずに買って無駄に時間を浪費する原因となったゲーム……あれらを買わなければ、俺はもう少し生きられたのだろうか?
「っ……!」
壁の向こうから聞こえた扉の閉まる音に思わず体が跳ねた、どうやら隣の人が帰ってきたようだ……結局どんな人が住んでいるのか知る機会は無かったが今の内に心の中で謝っておこう、明日か明後日か……そう遠くない内に起きる騒ぎにまず間違いなく巻き込んでしまうだろうから。
「……あれ? どこ行った?……いつっ……!」
すぐ傍に置いておいた筈の物が見つからず、手探りで暗闇の中に手を這わせていると不意に人差し指に刺すような痛みが走った、急いで手を引っ込めてスマホのライトに照らしてみると浅い傷口から血が僅かに滲み出すところだった。
「最後まで何やってんだ俺は……はぁ」
ため息をつき、今度は慎重に手を伸ばして随分前に買ったナイフを目の前のテーブルの上に置くとずっしりとした重い音が響いた、少しお金に余裕が出てきた頃にキャンプ道具として買ったものだが……とうとうキャンプに行く事は無く、最初で最後の使い道がこんな事になってしまうとはナイフに対しても少し申し訳なくなってしまう。
目の前のコタツの天板には電源の切れたノートパソコンとナイフ、それに財布や上着のポケットに残っていた小銭で買ったペットボトルのグレープジュース……情けない話だが、ここにある物だけで俺の人生は語り切れてしまうだろう。
さて……そろそろ時間だ、出会いにも運にも見放された人生だったが……最後に一つぐらい自分が望んだ事をやり遂げてみせようじゃないか。
「三十歳のハッピーバースデー……だ、くそったれ」
メモ帳に書き記そうとした辞世の句よりも更に陳腐な悪態が俺の最後の言葉となった。
乾杯の音頭のようにペットボトルを掲げると中身を口に流し込み、部屋の隅に投げ捨てるとナイフを鞘から抜いた……褒めるところがあるとすれば絶望からか極度の疲労からか、人間の自己防衛機能というやつが仕事をサボってくれた点だろう。
「う……うわ、あ……うううあっ!?」
今の声は何だ、本当に俺から出たのか? 腹部に感じる異物感、痛いというよりも気持ちが悪い……頭がカッと熱くなり、喉元から何かがせり上がってくる。
「ごはっ! げほっ……! おえっ……!」
暴れた拍子にスマホを落としてしまったらしい、暗闇に包み込まれた室内で何度も咳き込み……自分が何を吐き出しているのかも分からない、歯の奥に引っ掛かる異物が気分の悪さを更に掻き立てる。
「ぎぃ……!」
ようやく痛みがやってきた、純粋な激痛というよりは神経に直接電気でも当てられているかのような……僅かに体を動かしただけでも全身が痙攣し、ろくに動けない。
不思議な事に動かなければ痛みはそこまでではないが、下着の中にも血が入り込んだのかとにかく全てが気持ち悪い。映画などで指された敵があっさりと倒れるが……断言しよう、あれは嘘っぱちだ。
「……終わるなら、早く終われよクソッたれ」
床に突っ伏し、顔の半分を血の池に浸しながら漏らした言葉はやはり半分が血の泡立つ音にかき消され……せっかく用意した最後の晩餐の味もあっさりと鉄の味に上書きされた。
浮いているような沈んでいるような、不思議な感覚が全身を包んでいた。
揺蕩う……緩やかな流れの水の中を抗う事無く揺蕩っているというのが一番近いだろう、これがいわゆる死の感覚なのだろうか? だとすれば死の瞬間を何度も繰り返すという幽霊に関する一説がデマで本当に良かった、あの激痛を何度も味わうなんて死んでも御免だ。
「くく……ごっ……!?」
『もう死んでるじゃないか』という自分から自分へのツッコミで思わず吹き出すと不意にとてつもなく苦しくなってきた、堪らず目を開けて辺りを見渡すが青と黒と群青の混ざり合った水と白い泡となって消えていく残り少ない空気以外何も見当たらない。
何故? どこ? どうして?……答えが見つかる訳も無い疑問ばかりが脳をよぎる、口を押えて空気が漏れないようにしてみるがまるで意味をなさず、俺を嘲笑うかのように指の隙間からするりと列をなした泡が抜けだしていく。
「ぐっ……ぐっ……!」
何が起きているのかさっぱりだがとにかく水面を目指すしかない、暗い水底を見るのを止めて上を……少しでも明るい方を目指して手足をバタつかせる。
軋むように痛む全身にこんな事ならもう少し運動をしておけば良かったと何度目か分からない後悔が脳裏に浮かぶが、必死に泳いだ甲斐あってか段々と輝く水面が見えてきた。
──しかしすぐに分かった、体力が足りない。既に手も足も引きつって水をかく事が出来ず、指先が痺れる……しかし不幸中の幸いか苦しいという感覚は殆ど消え失せており、視界も外側から徐々に暗闇に支配されていき……もう水面は見えない。
「くそ……っれ」
悪態と共に全身から力が抜け、人形のようにだらりと仰向けになり……もう起きているのか寝ているのか、分からない。
「……くふっ」
「……?」
吸い込まれるように意識が途切れる直前、誰かの笑い声を聞いた気がした。
「……っはぁ!……ごふっ、ごほっ!」
顔が水面を抜ける感覚と同時に激しく咳き込む。口を押えようにも体が上手く動かず、全身の関節がギシリと痛む……まるで何もかも、初めて動かしたかのようだ。
「なん……だ、これ」
荒いながらもゆっくりと息を整えながら目を開き、自分の状態を確認すると思わず素っ頓狂な声が出た。
まず何も着ていない、あの瞬間の俺は間違いなく服を着ていた筈なのに今の俺は文字通り一糸纏わず……しかもぬるま湯で満たされた寿司屋で見るよりも更に大きな木製の桶の中に入れられているではないか! 訳が分からないまま右手をついて上半身を起こし、首がろくに動かないので視線だけで辺りを見回すと桶の外が板間になっているのが見えた。どうやら日本家屋の縁側のような場所にいるというのは痺れる脳で辛うじて理解したが、だからといって何かが解決した訳では無い。
「一体何が……うっ」
縁側にいるという事は庭に面した場所の筈、そう思ってギシギシと痛む首をふらつかせながら持ち上げると、不意に強烈な光が目に飛び込んできた。
反射的に力の入らない左腕をだらりと持ち上げてどうにか光を遮ろうとする、二度三度とゆっくりと瞬きをすると徐々に光に慣れてきたのか目の奥の痛みが引いてきた……意を決して左腕を再びぬるま湯の中に沈めると、思わずポカンと口をだらしなく開いてしまうほどに美しい光景が視界一杯に広がった。
「……綺麗、だ」
悠然と広がる巨大な湖、遠くの方には山も見える……そして何より存在感を放っているのは煌々と輝きながら周囲のあらゆるものをオレンジ色へと変える巨大な夕日だった、こんなにもじっくりと太陽を見たのはいつ以来だろう? ボソリと感想が口から漏らしながら心のどこかでここが所謂『あの世』であるという確信を得ていた、だってそうだろう? どこの世界に縁側の向こうに巨大な湖の広がる場所があるというのか、仮にここがあの世だとすれば次に浮かぶ疑問はどっちなのかという点だ。天国なのか地獄なのか、今のところ体がろくに動かない以外に不便は無いが……。
「気に入ったようで良かった、儂はここからの景色が好きでのう」
「誰……うわっ!」
突如かけられた背後からの声に思わず全身が跳ね、支えにしていた右手が滑ってバランスを崩した体が桶の縁に向けて倒れ込んでしまう。
「……っとと、危ない危ない。まだ体に力が入らんじゃろう、あまり無理に動こうとするでない」
思わず固く閉じてしまっていた目を開くと、両脇の下から滑り込んできた白く細い二本の腕にしっかりと支えられていた。爪はやや鋭いがまるで小さな少女のように華奢なこの腕で、どうして大人の体格をもつ俺を支える事が出来たのだろう?
「ごめ……あ、着物が……」
「ん? あぁなに気にする事は無い、それよりどこか怪我をしてはおらぬか?」
俺の体を後ろから抱えるように腕を回したせいで彼女が身に着けている黒い着物のたもとがぬるま湯の中に浸かってしまっている、しかしその事に気付いてなお俺の体から手を離さないので慌てて無事を伝えると、ホッと彼女の吐いた温かい吐息がうなじに当たった。
「色々と混乱しとるだろうがまずは着替えるとしようか、湯もすっかり冷めてしもうたようじゃしのう……よっ!」
「うっ……!?」
何が起きたか一瞬理解出来なかった、彼女の体がぐっと押し付けられて白い腕が伸び、俺の左足を抱えたと思ったらそのまま片手で軽々と持ち上げたではないか! 目を白黒する俺を持ち上げたまま今まで浸かっていた桶が脇にどけられ、次にごわごわとした肌触りの分厚く大きなタオルを右手だけで器用に俺の体に巻きつけていく……まるでおくるみのような姿になった俺は白い両手に支えられながら彼女の膝の上へとごろりと寄り掛かり……そこで俺はようやく彼女の姿を、正体を知る事になる。
艶やかな白銀の髪の隙間からこちらを覗く赤い瞳はどこか嬉しそうに細められ、小さく開いた口からは小さいが鋭い二本の牙が覗いている……怪しさと神秘性が混ざり合った不思議な魅力を纏う彼女は一見すると幼い少女のだが、何より異質なのはその額から伸びる二本の白い角……そこから目を外せずにいると俺の視線に気付いたのか白銀の髪を持つ少女は更に目を細めてニヤリと笑い……俺の頬にそっと片手を添えた。
「くふっ……そうじゃな、まずは自己紹介といこう。儂の名は墨白……今お主が考えておる通り……鬼じゃよ」