ローストビーフ
「こんばんは~」
「いらっしゃい。 確か村田さんでしたね」
「はい。洋ちゃんと呼んでください」
本日の口開けは、村田洋一さん。確か、鈴木さんがお連れになった方だ。
今日は一人らしい。
「お好きな席にどうぞ」
カウンターの真ん中あたりに座って、メニューを眺めている。
暖かくしたおしぼりを出す。
黒板のメニューを見ながら…
「ロースト・ビーフをお願いします。 あと、プレモルの黒ってありますか?」
「あるけど、冷えてないんだ」
「それでいいです」
「ロースト・ビーフと、プレモル黒。 承知いたしました」
先ずは、プレモルの黒をグラスに注いで、バックヤードからローストビーフを準備する。
ローストビーフは、うちの定番メニューの一つだ。勿論開店前に焼いている。
塩、荒引胡椒をすり込んで一旦フライパンで表面に焼き目を付け、赤ワインを加えて煮たさせてローリエとタイムでで包むようにしてアルミホイルで巻いて、オーブンで3~40分焼くんだ。だいたいその日のうちに使い切っちゃうけど、たまに残った時は、次の日に限定3食、ローストビーフ丼なんてランチになる時もある。
冷蔵庫で冷やしておいたものにソースをかけてお出しするから、わりと早めに出せるメニューの一つだね。
俺が、バックヤードにいる時、ひょっこり淳ちゃんが巫女さんの姿で奥から顔をだした!
「こんばんは」
先に挨拶したのは、村田さんだった!
「こ、こんばんは」
驚いたのは、淳ちゃんだった。以外な反応に、ちょっとたじろいでいる。
「僕、村田洋一。 洋ちゃんと呼んでください」
「はい。洋ちゃんね。 私の事は淳ちゃんって呼んでください」
淳ちゃんは、自分が視えるお客さんが来るとテンションが上がってしまう。
先日、鈴木さんとお見えになった時は奥からちょっと覗くだけだった。
「はいよ。ローストビーフお待ち。 洋ちゃんは淳ちゃんが視えるのかい?」
「視えるってどういう意味ですか? 目の前にいるのに…」
思わず俺は、淳ちゃんと顔を見合わせてしまった。
「い、いや。今日は巫女さんコスプレだからさ」
「巫女さんも可愛いですね… 前回はバニーちゃんだったかな?」
俺たちは又顔を見合わせてしまった。
前回、鈴木さんに連れてこられた時から視えてたんだ…
「今日はお一人ですね」
「ええ、仕事で失敗しちゃって面白くなくて…」
「そうですか、ごゆっくり」
淳ちゃんが、いそいそと村田さんの前に現れた。洋ちゃんと目が合う。
淳ちゃんはニコッと笑って 大幣をいきなり振る。
「かしこみかしこみ…」
村田さんは驚いて
「何ですか?それ」
「いやぁ、洋ちゃんが元気ないので、なんとか元気づけようとして…」
「ありがとう、淳ちゃん。 気を使ってくれて」
「さ、ゲロしなさい。何やらかしたの?」
「いやぁ、お客さんに出した見積もり、一桁間違えちゃって…」
「それって、あるあるよね。二桁だったら、ギャグになるってやつ」
「もう、僕死にたいよ」
『死にたいなんて、言わないでよ。私はもう死んでるんだから…』
「死」という単語に淳ちゃんはちょっと過敏だ。
「わかったわ、あたしが『死』というものがどんなものかおしえてあげる」
すうっと消えた淳ちゃんは。どうやら洋ちゃんに憑依したようだ。
そして、淳ちゃんの記憶を洋ちゃんに見せている。
「わ、わぁあああああ…」
洋ちゃんがいきなり声を上げた。
傍から見ていると、何が何だか分からないのだが、洋ちゃんはきっと淳ちゃんに怖い幻をみせられているのだろう。
「う、ううううううぅ」
ちょっとかわいそうな気もするが、淳ちゃんの逆鱗に触れちゃったから、こちらでは様子をみてるしかないな。
「どう、分かった… 死ぬっていう事がどんな事か」
「かわった、わかった、もう二度と死にたいなんて言いません」
「いったい、何がどうしたんですか、今のは。幻覚?」
ようやく落ち着いた洋ちゃんは途切れ途切れの息をして、今の事を思い出したようだ。
「私が… 私の記憶をみせたげたの」
「記憶って?」
「そう、私一度死んでるの。訳あって今はここにいるけど、ここに来るまでの記憶ね」
「ね。今の見たら簡単に『死ぬ』なんて言えないでしょう」
「ええ、もう言いません」
いったい、どんな映像を見せられたのやら、あの表情だと、相当きついものに違いない。俺も視たい気もするが、やっぱり見たくない。
「あと、洋ちゃんにちょっとお願いがあるんだけど」
お水を飲んで、少し落ち着いた洋ちゃんが、返事をした。
「僕にできる事だったら、なんでもします」
「私の事は、鈴木さんには言わないでほしいの。あの人には私の事は全く視えていないみたいなので、二人で来た時は、私の事を無視してほしいの」
「わかりました。それでマスターがさっき、淳ちゃんが視えるかって聞いたんですね」
俺は、ゆっくりうなずいた。
「そうよ。その代わり一人で来た時は、サービスしちゃう」
と、すこし襟の胸のところを広げた。
「ちょっと、淳ちゃんそれはやりすぎ。そういうお店じゃないからね」
「てへ」
村田さんも今日から赤いコースターだ。