肉豆腐
ある日…
鈴木さんが、ギネスを飲み干し、本日スペシャルのホワイト・シチューのブレッドに手を伸ばした時、ドアチャイムが鳴った。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
カウンターの奥の方に座ったそのお客さんは、常連の聖ちゃんだ。
「マスター! ちょっと、小腹が空いているんだけど、今日のお勧めは?」
「今日は、ホワイト・シチューがお勧めなんだけど?」
「う~ん、今日は洋食でなくて和食の気分なんだけど、何かない?」
「そうだねぇ、肉豆腐とか…?」
「あ、珍しい。それいいね。お願い」
「お飲み物は?」
「そうねぇ、スパークリング・ワインで」
「クレマン・ド・ブルゴーニュなんてどう?」
「いいわね。じゃ、ロゼで」
この人は、吉田聖子さん。通称聖ちゃん。涼子さんが連れてきてくれた客さんだ。
赤いコースターに、ブルゴーニュ・ロゼをお出しして、俺はバックヤードのキッチンに入った。
奥から、淳ちゃんが顔をだした。聖ちゃんは淳ちゃんにちょっと手を振って、会釈する。聖ちゃんは淳ちゃんが、視えるのだけれど、会話まではできないらしい。
淳ちゃんもそれを知っているので、顔の表情を大げさにして、口を大きく開いてなにやら意思を伝えようとするのだが、なかなか上手く伝わらない。そんな仕草がおかしくて、聖ちゃんは口に手をあてクスクス笑ってしまった。
その様子が傍目には不思議に視えるらしく、鈴木さんがちょっと聖ちゃんの方を見つめた。
それに気が付いた淳ちゃんは、鈴木さんの方を指さす。
聖ちゃんは、鈴木さんの方を見て、ちょっと会釈をして、何もなかったようにスマホをいじりだした。
そう、うちの店では、淳ちゃんの存在を知っている人には、赤いコースターを、知らない人にはそれ以外の色のコースターをお出ししている。お客さん同士のトラブルを避けるための工夫だ。
「はい。肉豆腐お待ちどう」
「美味しそう。いただきま~す」
聖ちゃんは、既にブルゴーニュを飲み干していた。内心肉豆腐には合わないだろうと心配だったが、最初に喉を潤したかったようだ。
実をいうと、肉豆腐は俺が食べたかったので、まかないで作ったんだ。少々豆腐を多めに炊いておいたので、小鍋に移して、肉を加えると割と短時間で出せる。
鰹出汁に酒と砂糖と味醂、そして濃口醤油の比率は料亭「だな万」の料理長のレシピだぜ。
豆腐とネギが、いかにも煮込んでますという色になってるから、見た目にも旨そうなんだよ。
肉はしゃぶしゃぶ用の霜降りをフライパンでさっとあぶって使うとこれもまた絶品だ。
「マスター! ウィスキーをいただけるかな」
おっと、鈴木さんからだ。
「何にしましょう」
「若い、ボウモアにしよう」
「こちら、ボウモア12年です…」
「うん。それを…トゥワイスアップで」
「承知しました」
テイスティンググラスに1オンスのボウモアのトワイスアップとチェイサーをお出しする。
すると、鈴木さんが「耳を貸せ」という仕草をした。
「あちらのお客さん、さっき一人で笑っていたようだが…なにかあるのかね? 以前に来た時も、別のお客さんが同じ席で似たような仕草をしていたのが気になっていたんだが」
鈴木さんは、淳ちゃんの事は視えないし、非科学的な事を全く信じない方なので、流石に本当の事は言えない。
「まぁ、個人的な事ですし、あまり気になさらない方がよろしいですよ。多分何か思い出していたんでしょう」
鈴木さんは、結構神経質そうな感じの方で観察力が凄い。俺としてはこの店に来たらリラックスしてほしいんだけどな。
更に俺は、話を続けた…
「以前、口をパクパクさせながら、身振り手振りで誰かに話しているようなお客さんがいらっしゃって、どうしたのか聞いたら、新米の大学の先生で、明日の講義のイメージトレーニングをされてたそうなんです。ま、そんな事もありますので、ここではあまり、他人の事を気にしない方がいいと思いますよ」
「そ、そうか… そうだな」
「それとも、『あちらの方から一杯』となにかお酒をお出ししましょうか?」
まぁ、鈴木さんがそういう事をするタイプのお客さんではない事は知っているんだけど、1杯分の売り上げにつながったら… じゃなくて、もし鈴木さんがそんな事をしたら、面白いと思ったんだ。
「い、いや、いや、いや、お近づきになりたいわけじゃないんだ。ただちょっと気になったものだから」
「そうですか、では、ごゆっくり」
この店で、淳ちゃんの存在は大きい。 淳ちゃんで持っているとまでは言わないが、開店当初からいてもらっている、うちのマスコット的存在だな。
この店に来る人には、全ての人にリラックスというか居心地の良い空間を提供したい。それが俺の思いだ。
勿論、淳ちゃん自身も含めてだ!