鱧の落とし
今日の口開けも渡辺さんだ。この店が気に入って戴けたようだ。
「今日は、魚ですか… 何があります?」
「ヒラマサ、鮎、鱧 ですね。刺身用の鮪や鯵などは年中入れてますが…」
「じゃぁ、珍しいので鱧お願いします」
「御飲み物は… プレモル生で?」
「お願いします」
鱧は、関西では定番の春から夏の食材なんだけど、ようやく関東でも出回り始めた食材だ。何と言っても小骨が多いので『骨切り』という包丁のテクニックが必要になるから、ちょっと手間がかかる…
骨切りまで下ごしらえしといたものを適度な長さに切って、ちょっと葛を刷毛で塗って湯引きするんだ。この時鍋の中で、奇麗に広がる姿が花のように美しいので牡丹鱧と言うんだ、これをそのまま椀にするのが一般的なんだけど、椀は通常コースでの一品だよね、バーではこれを氷水で〆てつまみとしてお出しする。「鱧の落とし」と言った方が通るかな… 梅肉で召し上がってもらうのが一般的なんだけど、『酢味噌』が好きな方もいらっしゃるので、うちは両方を添えて出す事にしている。俺個人的にはトマトジュレも良いかと思うんだが… 現在研究中だ。
「鱧! お待ちしました。 ごゆっくり」
ジョッキはまだ半分ほど残っていたので、俺はグラスを磨きだした。
渡辺さんが口を開いた。
「また、先日の話の続きになって申し訳ないのですが、私も考古学的な話は好きなので、マスターの御専門のマヤ文明の話をミーチューブで見てみたんですよ」
ほう、渡辺さんはこっちの話に興味があって足を運んでくださるのか… まぁ、何にしてもありがたい。
「どうでした?」
「そうですね。私のイメージとしては、密林ジャングルの文明で、生贄のイメージだったんですけど、もっと文化的なんですね」
まぁ、多くの日本人のマヤ文明に対するイメージはそうだろうな、教科書でも数行でしか扱われてないし‥
「私も、ミーチューブで、『古代マヤ』で検索して動画をみたんですけど、殆どの動画に1/3ほど間違いがありますかねぇ…」
俺も、ここんところマヤの話をしているので、世間では… というかミーチューブでどういう風に扱われているのか興味があったんだ。
「例えばどんなところですか?」
「一番は、暦を説明するシーンで、内容はほぼあってるんですが、流れている画像はアステカの物を使っているんですね、マヤとアステカの区別がついていない…
それから、時代が結構いい加減に扱われていますね。紀元前3000年頃から始まった文明だとか言っているのもあったんですが… 何を根拠にそういう年代が出てくるのか、少なくとも学問として学んでいない人が興味でつくってる動画が多いですね。それは、それでも良い… というかマヤを紹介してもらえるのは嬉しいんですが、少なくとも以前紹介したマイケル・D.コウの『古代マヤ文明』位は読んでほしいと思いました。因みに土器を伴った定住村落が発生したのは紀元前1600年頃という事になっています」
俺がこういう話をするのは腹の探り合いではないけれど、俺としてはマヤ文明の話をするのは大好きで、語り出したら絶好調になっちまいそうなんだけど、あまりにも専門的な話をして引かれても困るわけで… 少しずつちらほら専門的な話をしながら、飽きられないように話をしなければならないと思っているんだ。また渡辺さん御自身が、どの程度マヤに興味があるかわからないしさ。
「あと、気になったのはマヤ文字の解読に貢献したのは、ロシアのタチアナ・プロスキアコフになってるんですが、確かに彼女は解読に貢献しているんですが、それならロシアのユーリ・クロノゾフやその前にマヤ文字を分類した、アメリカのエリック・トンプソンの功績も大きいですし、先日チラッと名前が出てきた、デビット・スチュワートの功績も大きいんです。しかしこの名前は出てきませんでしたね。
これは誰かがまとめた話を元に、次々に動画が作られたんで、共通の偏りがあるんでしょう…
マヤ文字の解読は本当は、なんと言ったら良いんでしょうか、苦労の連続だったんですよね。エジプトのヒエログリフを解いたシャンポリオンのように一人の天才によって行われたわけではないんです。 これについては『マヤ文字解読』という本になっていて、和訳されてますので、御貸ししましょうか?」
「いや、そこまでは良いです」
しまった! やっちまった。まぁ、こんな専門的な話は普通の人は興味ないだろう…
「そういえば、渡辺さんも、考古学的な話がお好きという事ですが、どちら方面に興味がおありですか?」
俺は咄嗟に、話を変えることにした…
「邪馬台国ですかね」
「ほう…」
あ"~ そっちかぁ、俺の友人でも邪馬台国に興味がある人は多いんだけど、議論になっても結局結論はでなくていつも面倒くさい事になるんだよなぁ。
「マスターは、九州説と畿内説でどちらをお考えですか」
やっぱりきたよ… 邪馬台国の話になるとどうしてもここから始まるからなぁ…
「魏志倭人伝の通り進むと、とんでもない処に行っちゃいますからね」
とりあえず、俺は知っている拙い情報を駆使して答えた…
「そうなんですよね」
渡辺さんが思った通りの返事をされた。
更に俺は続けた。
「魏国からの使者と言っても、まぁ当時はスパイみたいなものというか、間者を兼ねてたわけでしょうから、素直に自分の国に真っすぐ行くわけにはいかないのであちこち回って連れて行ったんでしょうからそうなるわけなんでしょうね。 今は箸墓古墳とか畿内説が有力みたいですけど、『金印』が出土しない事には何とも言えないんじゃないでしょうか」
俺としては、精一杯の無難な答えをしてみた。
「おっしゃる通りです」
渡辺さんが答えた。
よかった! 第一関門クリアだ。
「因みに渡辺さんはどちらだと思いますか?」
「やっぱり畿内説ですね、先ほどマスターもおっしゃったように箸墓古墳や纏向遺跡など、時代が一致する遺跡が発掘されていますので…」
俺は、内心そうなると九州説の方の説を話したかったのだけれど、何しろ邪馬台国については知識が無いので下手な事は言えないと思った。
「そういえば、先日『四国説』をミーチューブで見ましたよ」
とりあえず、九州説には触れず、ちょっと違う話の振り方をしてみた。
「ほう、それは珍しいですね」
「確か根拠は、その動画によると… 邪馬台国に関しては『魏志倭人伝』の他にも中国の幾つかの文献にあるらしくて、そこに出てくる地名が一致するという事でした」
「地名の一致だけではちょっと説として弱くないですか?」
「私も同じ感想です。しかし、邪馬台国は歴史好きにとってはロマンですよね」
「そうですね。 私が生きている間に決着がつくとは思えないけど、想像するだけでワクワクしますね」
よし、我ながら上手くまとめたぞ! 俺は密かに心の中で小さくガッツポーズをした‥




