肉じゃが
今日の口開けも渡辺さんだった。
「こんばんはマスター」
「こんばんは渡辺さん」
渡辺さんは、いつもの… 一番手前の席に座った。
「今日の素材は肉ですか…」
「肉じゃがなら直ぐ出ますが…」
「良いですね、暫く食べてなかったので…」
「お飲み物は何にいたしましょう」
「プレモル生をお願いします」
「プレモル生と肉じゃがかしこまりました」
ダークオレンジのコースターにプレモル生をサーブしていつものようにバックヤードに入った。
肉じゃがは、勿論俺が食べたかったんだけど、煮物は割とよく出るんだ。独身独り暮らしの男性はあまり煮物を食べる機会が少ないからね。
肉じゃがの肉は、今日は牛バラだ。関東出身の俺としては豚肉を使う方が多いんだけど、今日は何となく牛で作ってみたくなったんだ。
ジャガは男爵を使う。あの煮込んだ時に、ほろほろっとちょっとだけ崩れていく感じが好きなんだよね。崩れないメイクイーンが絶対に良いという人もいるんだけど、今日は俺が食べたかったから、俺の好みを通させてもらう。
蒟蒻は、糸蒟蒻ではなく、勿論白滝だ。こちらの方が細くて味が染みやすいからね。
どうちがうのかって? 糸蒟蒻は、出来上がった蒟蒻を「突く」機械と言うか道具で突いて、糸状にするのに対して、白滝は、蒟蒻の材料をお湯の中に糸状に流し込むっていう作り方の違いだね。尤も関西の方では、両方とも糸蒟蒻と言うらしい。まぁ、そんな細かい事はどうでも良いけどな。
あと、玉葱と人参を鰹出汁に酒と砂糖と味醂、そして濃口醤油で煮込むんだ。食材を入れる順番ってのもあるんだけど、ここでは割愛だ。
たっぷり作ってあるので、一人分を少し温めるだけなので、わりと短時間でお出しできる。
「はい、肉じゃがお待ち…」
「良い匂いですね。いただきます」
「ごゆっくり」
ドアチャイムが鳴って、鈴木さんと洋ちゃんだ。
「こんばんはマスター」
「こんばんは、鈴木さん、洋ちゃん。いらっしゃい」
鈴木さんは、いつもの席に渡辺さんが座っているのを見て、ちょっと戸惑ったようだ。
「こんばんは、渡辺さん」
洋ちゃんが声をかけた
「あっ、洋ちゃんこんばんは…」
「知り合いなのかね?」
鈴木さんが洋ちゃんに声をかける。
「渡辺さんをこの店にお連れしたのは僕なんです。それから何度かお会いして…」
鈴木さんは、洋ちゃんに渡辺さんの隣に座るよう手を椅子に向け、自分はその隣に座った。
「今日の食材は、牛肉ですか…」
鈴木さんが黒板を見てつぶやいた。
「肉じゃがなら直ぐお出しできますが…」
俺が答えると
「美味しいですよ…」
渡辺さんが声をかけた。
「良いね。マスター、ギネスのハーフと肉じゃがをお願いします」
ほう…という顔をして、鈴木さんも肉じゃがにされた。
「僕は、ギネスのパイントと、牛カツサンドをお願いします」
洋ちゃんは、相変わらずマイペースだ。いつの間にかパイントという言葉を覚えたらしい。
「ギネスのハーフと肉じゃが、ギネスのパイントと牛カツサンド承知いたしました」
鈴木さんには、黒いコースターにハーフのギネスを、洋ちゃんには、赤いコースターとギネスをサーブして、バックヤードに入った。
すると、淳ちゃんが、左手で人差し指を立て(クワイエットの形にして)口に当て、洋ちゃんの前に登場した。
洋ちゃんは、バニー姿の淳ちゃん登場にテンション上げあげなのだが、鈴木さんといる時は、無視するように厳しく言われているのでおとなしく前を向いている。
淳ちゃんは、右手で渡辺さんのコースターを指さし、ダークオレンジの意味を洋ちゃんの耳元で説明た。
「渡辺さんは、涼子さんがいらっしゃるときだけ私が視えるの。今は視えないみたいだから、私の事を気付かせるような事はしないでね。彼は、私を普通の娘だと思っているみたいだから、怖がらせないで」
そう言って、カウンターの奥に消えた。
この間、鈴木さんと渡辺さんは、全く淳ちゃんの方を見る事は無かった。
「先日のマスターのマヤの話が興味深かったので、また聞きたいと思いまして…」
渡辺さんが口を開いた。
さて、どういう風に話したものか… 実は結構真面目に勉強したんだけれど、その蘊蓄を語っても一般の人というか普通の人には面白くないよね…
俺は当たり障りのない表現を探して喋りだした…
「先日の洋ちゃんの話でもそうなんですが、マヤ文明ってジャングルの中にあって、あまり知られていないから根拠のない、いい加減な事を言っても、結構信じてしまう人が多いんです。だから都市伝説が広がってしまうんしょうね。それは日本だけでなく欧米諸国でも同じです。専門書はちゃんと出てるんですけど、まぁ大学でマヤ文明を学ぶ学生くらいしか読もうとしないでしょう」
そういえば、今日は洋ちゃん突っ込んでこないな… 先日のでネタが尽きたかな?
更に俺は続けた…
「専門書の話をすると、マヤ文明はここ数年というか数十年かな、本当にいろいろな発見があって、教科書というか定説が変わるような話がたくさんあるんです。日本で売られている専門書としては20年近く前に出版された、マイケル・D.コウという方の『古代マヤ文明』という書籍があるんですが、先日古本屋で、同じ作者の同じ本の1950年代だったかな大分前の版を見つけたんですよ。それが私が持っている本の半分の厚さなんです。ですからまぁ半世紀で知見が倍になったわけです。
ぶっちゃけ、その当時の本と今の知見の違いについて興味もあったんで、今から思えばその古い本も買っておけばよかったんですけど、ちょっと高くて…」
「まぁ、専門書って高いですよね」
渡辺さんが理解を示してくれた。
俺は一息ついて…
「専門家もちょっといい加減というか、自分だけの仮説を根拠なく発表したら広がっちゃったという話もあるんです。チャックモールって聞いたことありますか?」
「生贄の心臓を載せた像!」
お、洋ちゃん今日初めて突っ込んで来たな…
渡辺さんも、頷いているので御存知なのかな。
「そう、それ。でもあれって生贄の心臓を載せたという根拠は全くないんですよ。確かに当時生贄の習慣はあったし、儀式もあったんだですけど、あの像の上に心臓を置いたという証拠というか根拠は無いんです。例えば当時の図版があるわけではないです」
「え? そうなんですか?」
洋ちゃんよりも、渡辺さんの方が喰いついてきた…
「そう、学者の誰かが言い出したようなんだけど、その方がそう思ってるだけなんです。明確な根拠は示されていないんです… でも他の学者も否定する根拠もないから特に何も言わなかったらしいんですが、その話が独り歩きして、あの像には心臓が置かれた… という事になってしまったままなんです」
「そんなもんなんですね」
「そんなもんです。 地味ぃ~な学問でしょ考古学って…
ちょっと違った視点からの話なのですが、誰かが意見を言った時、反対意見を述べないとその意見を認めた事になるんです」
「なるほど、外交的な話で、隣国とかC国が日本に馬鹿げた因縁をつけてくる事があるけど、日本にしてみれば『あまりにも馬鹿々々しくて反論する気にもなれない、お天道様が視てるじゃん。アホかお前ら』と思う事でも、反論しないと『認めたから反論できないんだ』というような、無理な理論で攻めてくることありますよね。彼らは嘘も100回言い続ければ本当になるって思いこんでいますから」
「そう、そして100年も経てば、誰も当時の事なんか知らないから、日本人でもその嘘に騙されてしまう人もいるから困ったものです」
「マスターもしかして、南京大虐殺とか、従軍慰安婦の話をされてます?」
「あ、あぁそんなつもりはなかったんですが… そのテーマは、今はちょっと、重いでしょ?」
「そうですね… 今は止めときましょう…」




