フォールチェイサー(2)
少女が少年との再会を果たしたのは、榛原陽子の家の前であった。
彼女にしてみれば彼が榛原の門を潜って出てくるという事自体が異常である。足を止めて目を丸くしていると少女の存在に気付いた少年が歩み寄る。
「メガネちゃんじゃねえか。こんな所でどうしたんだ?」
「あ、貴方の方こそ……」
「ああ〜……。榛原陽子の過去について詳しく訊こうとしたんだが、どんなに粘っても家族は知らん振りだ。冷たいぜ」
「……それは、陽子が自殺したのは清明学園の所為でもあるからですよ。理由を考えれば当然……話なんかしたくないはずです」
そう語る少女の視線はアスファルトの白線に向けられていた。視界を細め、唇を噛み締める。陽子が死んだ理由……陽子が死んだという事実を思い返す。
彼女と陽子は幼馴染の関係にあった。長い間、それこそ人生の大半を共に過ごしてきたのだ。その洋子が死に――自分は生きている。不快感は苛立ちからか、それとも罪悪感からなのか。
自分でもわからない気持ちに心を揺らしている間、少年は少女の目の前に立っていた。そうして昨日したように、少女の頭を片手で鷲づかみにする。
懸命にそのホールドから抜け出そうともがいてみるが、非力な少女ではそれを振りほどく事は出来なかった。少年は顔を近づけ、眼鏡越しに少女の瞳を覗き込む。
「榛原の死について詳しいのか?」
「……それは」
「詳しいなら教えてくれ。死んだ榛原……その“幽霊”に用がある」
「ゆう、れい……?」
それは予想外の言葉だった。少年は手を放し、両手をズボンのポケットに突っ込む。その表情は真剣そのもので冗談の類は一切感じられない。
視線をゆっくりと反らし、それから自分の肩を抱くように腕を伸ばす。指先でワイシャツを掴み、目を瞑って少女は首を横に振った。
「そんな言い方……あんまりです。幽霊なんかいるわけないじゃないですか。私をからかっているんですか?」
「そう見えるならそうなんだろうな」
「…………その答え方は、意地悪だと思います」
ゆっくりと顔を上げ、揺れる瞳で少年を見上げる少女。少年はぴくりとも視線を反らさなかった。ただ真っ直ぐに――少女を見下ろしている。
「……場所を変えましょう。ここでその話をするのは……陽子の両親に失礼です」
「それもそうか。じゃあ、どこで話すよ?」
「どこでも……」
「じゃあ、来る途中に公園があったな。そこにしよう。よし、急ぐぞ」
「え? あ、ちょっと……!?」
少年は少女の手を握り締めて早足に歩き出す。文句を言う事は出来そうにもなかった。
無言のまま数分間の移動を果たし、住宅地の中にぽっかりと空いたスペースに存在する公園へと二人で足を踏み入れる。位置口付近の木製のベンチに腰掛け、少年は改めて自己紹介をした。
「昨日も言ったけど、俺は二年A組櫻井響だ。メガネちゃんの名前は?」
「……B組の、皆瀬 鶫です」
「皆瀬、ね……。皆瀬も知ってるんだろう? 今どんな事件が起きているのか」
勿論判らないはずはなかった。何故ならば鶫は死ねばいいと思っていたからだ。親友であり幼馴染である榛原陽子は死んだ。だというのに世界は当たり前のように続いていく。
何故続くのか? 陽子が死んだのだ。そこは終わっておくべきだろう――。みんなみんな同じように飛び降りて、みんな仲良くあの世へ旅立てばいい。そうすれば全てが解決する。少なくともこの自意識からは開放される……そう考えていた。
その矢先だった。次から次へと飛んで逝く。願うまでもなく、図るまでもなく、思うまでもなく、誰もが奈落へと落ちて逝く。この世界という舞台から落ちて逝く。
響から視線を反らす。勿論、それが答えになっていることに彼は気付いている。鶫は視線を反らしたまま呟く。
「彼女達が死んだ事……それが陽子の幽霊の所為だって貴方は言いたいんでしょう?」
「他に考えようがないからな。幽霊かどうかはわからんが、兎に角榛原陽子の死をトリガーにおかしな事が起きているのは事実だ。知った以上は……止めなきゃ寝覚めが悪いだろ」
「…………また、陽子を虐めるんですか? あの、変なロボットみたいな物で――」
鶫の怯えた視線で響は表情を強張らせる。それは、彼女がVSと関わりがある事を示す言葉だったから。一変した響の態度に鶫は解せない様子で小首を傾げる。
「どうしてそれを知ってる?」
「それは……」
「おいっ! まさか、お前が――ッ!?」
「ひっ!?」
怒号は掻き消されていた。鶫は自らの頭を抱え、体を震わせて脅えていた。その様子や表情はつい先ほどまで正常な会話を行えていたとは思えない程弱弱しい。
立ち上がり伸ばしかけた腕を引っ込ませ、頭の上にクエスチョンマークを浮かべて後退する響。鶫は額に汗を滲ませ、歯をカチカチと鳴らしながら呂律の回らない声で哀願する。
「ごご、ご、ごめんなさい……ぶ、ぶたないで……! 痛いの……ほんとうに痛いの……だからぶたないで……怒らないでぇ……っ」
「お、おい……そこまで怒ってないじゃん」
鶫は震えながらゆっくりと視線を上げる。響は既に色々な感情がどこかに引っ込んでしまい、今はもうばつの悪そうな表情を浮かべながら両手をひらひらと振っていた。その様子に安堵したのか、何度か深く深呼吸をして少女は頷く。
「……す、すいません」
恥ずかしげに唇を咬むその体はまだ震えていた。どう距離を置いて接したらいいのか判らず、響は伸ばしかけた自分の手を見詰めて握り締めた。
「……それで? どうしてその事を知っているんだ」
「それは……。桜井君が、校門の前で……」
ふと響は思い出す。まさに今朝の事だ。見えている者は居ないだろうと、校門の前で堂々とジュブナイルを回収した。
まさか見えている人間がいるとは思わなかっただけに驚きだった。しかし冷静に考えればそれくらい気をつけて当然でもある。しかしそれはそれ、これはこれである。
「お前が一連の事件の犯人……って事はないよな」
「それは……違う、と思います……。確かに……“死んじゃえばいい”とは、思いましたけど……」
「それくらいは誰にだってあるだろ。嫌な思いをすれば、当然の事だ。人間は皆それくらいの事は抱えて生きてる。綺麗なやつなんていねえよ」
あっけらかんとそう語る響に鶫は少しだけ安堵したように微笑みかける。その表情のどれもが真実の感情から来るはずだというのに、その“格差”は信じ難い程である。
響は鶫に携帯電話を見せるようにと要求した。自分の疑いを晴らす為ならばと鶫は自らの携帯電話を響に差し出す。スライド式の黒い携帯電話を開くと、待ち受け画面には笑っている鶫と死んだ榛原陽子の姿があった。
それがいつの写真なのかは判らない。だがそれは鶫の未練そのものでもある。死者であり、この世界のもう彼女が居ないと理解していても……断ち切れないものはある。人はそういう生き物だと、響は無言で割り切った。
メールの受信フォルダには確かにVSのユーザー権を獲得した事を知らせるメールが届いていた。しかしユニフォンにはそれが登録されて居ない。鶫に視線を向けると、響が何を見ているのか判らないのか少し恥ずかしそうに視線を反らした。
「皆瀬、お前これは?」
「……えっ? 何かの悪戯メールとか……そういうのじゃないんですか?」
余りにも真っ当なご意見に響は思わず肩透かしを食らう。というか見れば彼女のメールフォルダには何故か必要以上にスパムの類が多い。そういう境遇に居た事を考えれば、うさんくさがってVSアプリケーションをダウンロードしなかったとしても全くおかしなことはなかった。
そしてVSはメールを受け取り、当選した時点で視認が可能になる。実際に響もまだVSアプリを入手していない状況下で突然アンビバレッジを視認している。その経緯を振り返り、響は目を瞑ったまま溜息を漏らした。
「すまん、端的に言うと早とちりだった」
「え? あ、ううん……大丈夫、だよ?」
「そうか……いや、悪かった。説明するべきかしないべきかは判らんが、兎に角そういう事だ」
携帯電話を返そうとした響の手元、ストラップが光を弾いて輝いた。瑠璃色の光を放つ、まるっぽくごつごつした石を紐で吊るしたそれを見て鶫は嬉しそうに微笑む。
「ラピスラズリの原石です。陽子が、海外旅行が好きで……お土産で貰ったんです」
「ラピスラズリ……? 青っていうか……緑っていうか……不思議な色してるんだな」
携帯電話を受け取り、鶫はそれを手の中でじっと見詰める。一先ずVSの権限を持つものの、その力をまだ実際に覚醒させて居ない鶫がアンビバレッジのマスターであるという事は在りえない。行き成り手掛かりがつかめたかと思った響は溜息を漏らしベンチに腰掛けた。
「じゃあ、アンビバレッジのマスターは皆瀬じゃねえって事か……」
「あの……。その、アンビバレッジっていうのは……?」
恐る恐る訊ねてくる鶫。響は観念し、ゆっくりと今回の事件の顛末を語り始めた。
フォールチェイサー(2)
「これが最新鋭のVRシミュレーション装置、“ユグドラシル”ッス」
東京フロンティア内某所――。ネットカフェと呼ばれる場所に鳴海と新庄の姿があった。効きすぎているとも言えるエアコンの風に胸元をさらしながら幸せそうに頬を緩ませている鳴海に向かって新庄は説明するのだが、明らかに話を聞いている様子がないパートナーに苦笑を浮かべる。
「鳴海さん、聞いてます?」
「はいはい、それが物凄いゲーム機だっていうのはわかったわよ。それが今回の事件と何の関係があるのよ」
「ユグドラシルはただのゲーム機じゃないんスよ。とりあえずやってもらうのが早いっすから、座って座って!」
「あ、ちょ、ちょっと……」
鳴海の背中を押して強引にユグドラシルへと座らせる。その外観は卵を連想させるようなデザインを施されており、前面分の出入り口はクリアパーツとなっているが、内部から外は見えても外部から中は覗き込めない仕様に成っている。
扉を開き、ユグドラシルの内部にあるシートに腰掛ける。座り心地はそれほど悪くはない。左右の手元にはキーボードやゲーム用のコントローラなども並んでおり、更にその内側にはユニフォンを設置する為の台が存在する。
「鳴海さんはユニフォン、持ってきてないんスよね」
「うーん、鞄にも入ってないわね」
ふと、昨日の夜弟の家を訪ねた時に机の上辺りに放り投げた記憶がよみがえる。後で取りに行かねばならないと考えると面倒くさいが、まあ弟に会う事そのものに不満はない。
「ユニフォンがあれば、個人情報読み込んだりデータを保存したり、かなり協力な互換性が発揮できるんスけど、体験するだけならゲストモードで充分ッスね。シートベルトを締めて、上からぶら下がってるヘルメットを被って」
「これ? なんかジェットコースターみたいね」
そんな感想を漏らしながらヘルメットを被る。そこでようやく気付く。ヘルメットを被った瞬間視界が完全にシャットアウトされたのである。何も見えない暗闇の中、こんな状態でどうやってゲームなどするのかと小首を傾げた次の瞬間――。
「へ?」
鳴海は真っ白い世界に立っていた。先ほどまで存在しなかった視界も、シートベルトで固定されているはずの体も自由に動かす事が出来る。
真っ白い床には光と共に鳴海の姿が映りこみ、遥か彼方、どこまでもどこまでも空間が広がっている。突然そんな場所に放り出され鳴海は何も理解出来ない。
ただ只管唖然としながら立ち尽くしていると、突然正面に新庄の姿が現れた。新庄は待ち合わせをしていた相手に挨拶をするように笑いながら歩み寄ってくる。
「どうッスか? ユグドラシルの実力は」
「あのね、何も言わずにこんな所に女性を連れ込まないの」
「それは失礼したッス……。でも、ああだこうだ説明してもどうせ鳴海さん、聞いちゃくれないでしょうし」
それに関しては本人も同意する。長い説明など聞いているだけで欠伸が出てしまう。ゲームの説明書も昔から読まない主義だ。格闘ゲームなど、技なんかは自分で発見するものだと思い込んでいる。
鳴海の趣味趣向は兎も角、そこはまさに幻想世界。真っ白い何も無い世界。本当の意味で“白い”というのはこういう場所の事を言うのだと、鳴海はそんな所に感心していた。
「ユグドラシルは高性能のシミュレーターなんス。メガフロート内部では普通にこうして配備されてますけど、ユニフォン同様まだ他の場所には存在しない」
「シミュレーター……? じゃあこれ、立体映像なの? でもアタシ普通にここにいるわよ?」
「“認識の問題”なんスよ。簡単に言うと、“脳を騙してる”んス。本物の鳴海さんはまだシートに座って、眠っているような状態にあるんスよ」
「夢を見る機械、って事?」
「それが限りなく正解に近いッス。意識をデジタル化するとか、そういうSFっぽい事をしているわけじゃないんスよ。ただ、人の意識に夢を見せるだけの機械なんス」
「これが夢、ねえ」
確かに鳴海にも思い当たる事はある。それが夢だと自覚してもなかなか抜け出せなかったり、夢だとわかっていてもそれにのめりこむ事もある。そもそも夢を見ているかどうかに明確な境界線などない。夢の中であろうが痛みを覚える事もある。感覚も、感情も、全てがリアルだ。何故ならばそれは自分の自意識そのものに他ならないのだから。
ユグドラシルはそうした架空を現実として認識させる。現実の身体へと直接流れるはずの情報を操作し、夢の中に強制的に意識を安定させる。それはユグドラシルそのものを通じて他の端末と共に管理され、一つの情報上の夢世界を構築する。
「自分らが立っているここも、所謂ユグドラシル内に存在するネットワークの一部なんス。ネットワークって言い方をするとデジタルっぽいっすけど、簡単に言えば“誰もが同じ夢を見る”ものなんすよ」
「じゃあ、新庄君はアタシの妄想なんじゃなくて、実際にどっかからアクセスしているってこと?」
「自分、隣の端末使わせてもらってるッスよ。プログラムは基本的にユニフォンから持ち込むものだから、ここはただの架空領域としての効果しか発揮しないんス。それぞれネットワーク上に存在するプログラムにアクセスする為には対応したアプリをインストールされているユニフォンが必要になるから」
「……ユニフォンが? それじゃあユニフォンがメモリーカードとゲームソフト、両方の役割を果たすって事?」
「そういう事っす。鳴海さん、ゲーム好きなんすね……」
「週三回はゲーセンに通うようにしているわ。それで、新庄君はこれが“認識の問題”で、“全員に同じ夢を見せる”って言ったわよね?」
「ゲーム好きなのにデジタルダメなんすか……。ええ。つまりソフトを持ち込む事で、共通したスペースを構築しそれを共有する事も出来るんス。で、最新型のユニフォンの機種の中にはこのユグドラシルの小型版とも言える物が搭載されていて、こういうネットカフェみたいな“ダイブスポット”ではない場所でもダイブが可能なんス」
腕を組んだまま新庄の話を聞き続ける鳴海。そうしてしばらくして、視線を鋭く斬り返した。
「つまりこれが――電子ドラッグにも繋がってる」
新庄はその言葉に頷いた。二人は勿論ここに遊びに来たわけではない。事件の調査の為、こうして何もない面白くもなんともないスペースに滞在しているのだ。
従来、電子ドラッグなる麻薬は実際には存在しなかった。それは所謂“造語”の類であり、“それに類似する現象”をそう呼称していただけの事、言ってしまえばユーモアが生み出した物だ。
しかしこの街での電子ドラッグは全く意味が異なる。文字通りの麻薬なのだ。それは薬物ではなく直接肉体に摂取される事もない。物的証拠の存在しない、“精神を狂わせる”シグナル。
「今この町で、ユグドラシルは一大ムーブメントを巻き起こし、メガフロート内で肥大化しつつある現実と架空ネットワークとの境界線を崩そうと叩き付けられた鉄槌ッス。この力を使えば、人はどんな夢でも見る事が出来る」
「……なるほど、そういう事。それじゃあまるでドラッグね。本当に――人の夢なんてロクなものじゃないもの」
「法令で禁止したり監視したりはしているみたいッスけどね。何分ユーザーの数がハンパじゃないのとユニフォンと同時に飛躍的に発達し、ユーザー同士で独立したコミュニティが次々に構築されその複雑さは最早単純なシミュレーターなんてレベルじゃなくなってるんス」
「だからこそ、アタシが呼ばれたわけね……なるほど、公安が動くのも無理ないわ。“国家の危機”じゃない、立派に」
鳴海がこの島に呼ばれた理由はただ一つ。メガフロート内部で流行し、密かに若者の間で拡大している電子ドラッグによる被害を調査し、可能であればこれを阻止する事――。
しかし、メガフロートという島はまるで日本国内にあって海外にあるかのような印象を受ける。ここは外界を拒絶している。誰もがコミュニティを固く結束させ、誰もがいくつもの自分を持って毎日を生きている。
「息が詰まりそう」
そんな呟きと共に鳴海は小さく溜息を漏らした。見上げる空に太陽はないし光源もどこにあるのかわからない。そんな世界にリアリティなんて感じない。目を瞑り、鳴海は過去に思いを馳せていた――。