Dark Matter(3)
「鳴海さんたちは、行ってしまったんですね」
響のベッドの上隼人は包帯塗れで横になっていた。つい先程まれドッペルゲンガーでレクレンスを作り、回復に当てていたお陰で容態は段々と回復に向かっている。今では無事、こうしてベッドに腰掛けた鶫と言葉を交わす事も出来るようになった。
傷だらけの隼人を見詰め、鶫は頷いた。林檎の皮を剥く器用に刃物が滑る音が心地良く、隼人は目を細めた。思い返すのは過去の記憶……。こうしてベッドの上で横になっている時、誰かが傍に居てくれた事なんてなかった。
切り分けた林檎をフォークに刺し、鶫は隼人にそれを手渡した。身体を起こした隼人はそっと林檎を齧る。甘酸っぱい爽やかな味が口の中に広がり、思わず笑みが零れ落ちる。
「おいしいです」
「そっか……良かった。具合、大丈夫?」
「ええ。回復に時間をかけられましたから。ドッペルゲンガーが長時間連続使用可能なら良かったんですけど……」
「焦らなくていいよ。生きていてくれただけでも充分だから。あんな事があったんだもん、しょうがないよ……」
ノブリス・オブリージュの新生における爆発は消滅の波動を伴って大きく空を斬り裂いた。隼人が助かったのは、単にケイトが全力で逃げようとしてくれたお陰である。あの場に踏みとどまっていたなら、間違いなく今こうして意識を保っている事は出来なかっただろう。
思い返すと胸が苦しくなった。櫻井響が消えてしまうのを、自分はただ黙ってみている事しか出来なかった。生き残り、しかしそれは同時に敗走を意味している。何も出来なかった。だからこそ生きている。その矛盾に少年は押しつぶされそうだった。
「…………すみません」
「どうして謝るの?」
「ぼくにももっと何か……出来る事があったはずなんです。そうしたら櫻井さんは……」
そう呟き握り締める拳。鶫はその硬くなった拳の上に掌を重ね、柔らかく握り締めた。優しくて暖かい感触に顔を上げる。鶫はただ、微笑んでいた。
「だから、これから取り返しに行くんだよ。だからその気持ちは、もう少しだけとっておこうよ。そうしたらきっと、次は上手にやれるから」
その笑顔に何故か許された気がして隼人は思わず涙を零した。この戦いの中で、沢山の人と触れ合って……同じ時間を過ごした。響は心の中に新しい風を吹き込ませてくれた。間違いだらけで、それでもそんな自分と向き合って生きて行こうともがいている響の事が、いつの間にか大好きに成っていたのに。
助ける事が出来なかった。仲間達は皆、助けたいと願っていただろう。それが叶えられたのは傍に居た自分だけだったのに……。涙を拭い、隼人は肩を落す。鶫は黙って傍に座っていた。風の音が部屋を抜けて行く。
「…………ねえ。もしもこの物語に意味があったのだとしたら……それはきっと、私たちを変える為にあったんだと思うんだ」
「……変える?」
「痛がりで、寂しがりで……でも強がりで。私たちはいつも自分の事で精一杯で、誰かの言葉に耳を傾ける事も、その手を握り締める事も出来なかったよね。でも、今なら出来る事がある……。誰かに優しく出来る事、自分と友達になる事……。それだけでもきっと、意味はあったんだよ」
握り締めた掌。鶫が笑う。隼人はその笑顔を見詰め――思いつめたように目を瞑った。
「あの……。皆瀬さん、ぼくは……」
「――――知ってるよ。私の弟……みたいなものなんでしょ?」
まさか言葉を先回りされるとは思っていなかった隼人が驚きを隠せず身を乗り出した。鶫はそれを思慮した上で笑っている。それを知っているのと知らないのとでは、意味は全く異なってしまう――。
織上隼人の両親は、随分昔に離婚していた。母親に引き取られた隼人は、それからあまり幸せではない人生を歩んできた。母親は仕事人間であり、お陰で金には困らなかったが隼人はいつでも一人ぼっちだった。
彼は幼い頃に居なくなった父親の顔を知らなかった。母親はそのことについて語りたがらなかったからだ。しかしその興味はある日一線を越え、隼人は自分の父について調べ始めた。そうして判った事が一つ。
「私のお父さん……。あの人が、隼人君のお父さんなんだよね?」
「…………皆瀬、さん……」
最早目を合わせる事も出来なかった。今の隼人は知っているのだ。鶫の身に何が起きたのか……。鶫は確かに父親を殺した。言葉を交わしたいと、一度くらいちゃんと向き合いたいと思っていた父親。その父親と触れ合う機会を永遠に奪ったのだ。やり場のない怒りと苦しみに囚われ、鶫を恨んだ事もあった。
殺そうとさえ思った彼女は、しかしこうして今は微笑んでいる。どんなに酷い毎日があの男の所為で訪れたのか、彼女は一番知っているはずなのに。隼人は愕然とした様子で壁に背を預けた。最早何も考えられなかった。
「いつ、から……気づいていたんですか……?」
「結構前、かな。私を恨む理由、私が殺してしまった人……。そんなに多くは無いし。君と関わりがありそうな人は、少ないから」
鶫もまた、気まずい気持ちであった。当然の事である。恨みたいのはこっちのほうだと、そう叫び出したところでおかしい事は何もないのだ。二人は互いに擦れ違い憎しみを抱え、今こうして奇妙なことに共に在る。それはとても不思議な事で。とても、幸せな事なのだ。
「――どうして、私があんな目に合うんだって思ったよ。でもね、それは貴方には関係のない事だから。あの人の罪は貴方の罪にはならない。だから私は隼人君を恨んだりしないよ」
「…………皆瀬さん……っ」
泣きながら項垂れる隼人。謝りたい気持ちでいっぱいだった。罪悪感で死んでしまいそうだった。どうしてこうなってしまったのか、それは判らない。でも、自分がすべきことを間違ったという事実だけはわかっていた。自分は彼女を憎むべきではなかったのだ。そうではなく、自分はむしろ、彼女を守らねばならなかったのだ。あの父親の血を継ぐ人間として、当然の責務を果たすべきだったのだ。
鶫は隼人を優しく抱きしめた。それは隼人が長い間忘れていた母親の温もりに近い暖かさを持っている。隼人は泣きじゃくりながら鶫に縋りついた。鶫は子供をあやすように、優しく少年の頭を撫でていた。
「ぼくは……っ!! ごめんなさい……! ごめんなさい……っ!!」
「いーんだよう。何も悪い事なんかしてないんだよ? だから、大丈夫なんだよ。謝る事なんか、何もないんだよ」
「でもっ!!!!」
「私たちは不器用にいつも間違えるよ。でもこうして分かり合う事が出来るから……もう、許されていいんだ。誰かを許せるなら、それはきっと……優しさと呼べるから」
隼人と鶫は暫くの間そうして抱き合っていた。隼人は心の中に強く誓った。この“姉”をもう、傷付けるような事はあってはならないのだと。この戦いが終わったあとも、終わるまでも。
全てが終わったら父親に話をしよう。自分の罪を受け入れよう。知らなかったでは済まされない過ちを清算しよう。そうしたらいつか――彼女を呼べるのだろうか。
“鶫姉さん”、と――。
Dark Matter(3)
真昼のジェネシス本社ビル前、そこに黒服の者たちが数名倒れていた。周囲の人の目は既に規制され、場に立ち入る人影は無い。
突然、何度かの爆発が起こり炎が渦巻く。爆煙を抜けて飛び退いた黒いシルエットは口元に笑みを浮かべながらバック転し、路上に駐車されていた車のボンネットの上に飛び乗る。着地点を狙って飛来した鎖の刃がそこに突き刺さり、新庄直衛は片目を閉じた。煙を切り分けて現れたのは同じくスーツ姿の奏であった。奏は鎖を引き戻し、周囲に渦巻かせながら新庄を見据える。
「うーん……。強いッスねえ。一応、それなりに超能力適正のある人間を連れてきたつもりなんスけど、まさか瞬殺とは」
「そういう貴方も随分特殊らしいな。鳴海機関の生き残り……。僕の知る以外にも存在しているらしい」
「そりゃあ、そうッスよ。まあ別であると同時に一緒みたいな物なんスけどねえ……。政府はジェネシスの超能力研究を今まで肯定してきたけど、いよいよ暴走が酷くなって来たんで阻止しようって慌ててる。何をしようとしてるんスか? お兄さんにちょっと教えてくださいよお」
返答代わりに奏が放つ鎖に手を翳し、爆発させる。連続で空中に炎が燃え上がり、鎖は燃えながらも新庄目掛けて突き進む。新庄はボンネットから飛び降り走って逃げるが、鎖は正確にコントロールされて新庄を追尾する。
逃げ回りながら本体である奏目掛けてパイロキネシスを発動する新庄。燃え上がるアスファルトから焦げた匂いが広がり、奏は後退する。二人は互いに攻撃を回避しながら能力を発動し続け、激しい攻防を繰り返した。お互いの攻撃がお互いに届く事は無く、奏は眉を潜める。新庄の身のこなしは鳴海を彷彿とさせ、超能力の威力は鳴海に匹敵する。
「貴方達が望んでこの街に悪意をばら撒いた。その結果がジェネシスの暴走ならばその責任は貴方達にあるのだろう?」
「だから慌てて来たんじゃないッスか〜。政府はいざとなったらこの島ごと海に沈めて無かった事にするつもりッスよ? 最終作戦が開始されたらこの島は戦場になる……。その前に大人しく要求を呑んで本社を明け渡してくださいよぉ」
「お断りだ。どうなるのか判っていながら野放しにしていた政府だ、使い道は似たような物だろう?」
「確かにそうッスねえっ!!!!」
新庄が狙いを定め、一層激しく火柱を巻き上げる。奏はその中心部で回転し、鎖で嵐を巻き起こしながらふわりと舞い上がり、上下逆様の状態で背部から鎖を放つ。空中から降り注ぐ鎖を回避し、しかし鎖は車に突き刺さる。刃先で車を持ち上げ、新庄へと投擲する奏。まさかそうくるとは予想していなかった新庄は回避しようとするが、範囲と速さを計算すればそれが不可能なことは一目瞭然だった。
突然、車が縦に真っ二つに両断されてしまった。その先に、車の陰から現れたのは槍を構えた丞であった。丞は槍を回転させて構え、背後に新庄を庇うようにして前に出る。
倒れかけていた新庄も動き出そうとするが、その身体は何故か動かなかった。理由はその背後から糸を伸ばしている藤原の姿があったからだが、新庄にそれを理解する術はない。口も動かせず、ただ人形のように黙り込んだ。
「……丞に龍之介か。お前たちは僕の敵になることを選んだらしいね」
「悪いなあ、奏! ワイらは響に着く事にしたわ。もうお前とは組まへん。まー尤も、同盟を破棄してノブリス・オブリージュを送り込んできたんはそっちやけどな」
「この世界を思い通りにはさせない……。奏、お前は間違っている。お前はこんな事は望んでいなかったはずだ」
「聞いていれば勝手な事を言ってくれるね。僕は昔からずっとこうさ。もう、十年も前からね……」
槍を構えた丞が全身する。降り注ぐ鎖の攻撃を槍でいなし、かわし、一瞬で奏まで接近する。その速さにオルタナティブは反応出来ず、繰り出された突きに奏は眉を潜めた。
後方に跳躍しながら鎖を納め、ビルの階段の上に降り立つ奏。それを追い掛けようとした丞の左右上下、大地が突然陥没する。慌てて背後に飛び退いた丞であったが、陥没した大地が音を立てて競りあがり、戻ってきた大地の上には――白いノブリス・オブリージュがぞろりと五体、そろって機関銃を構えていた。
何が起きたのか一瞬理解出来ずに丞は困惑する。その丞へ襲い掛かった機関銃の嵐を回避する事が出来たのは藤原が背後からエンペラーの糸を伸ばし、丞を操作して回避運動をとらせたからである。丞は藤原の所まで戻り、操られた新庄がパイロキネシスを発動する。車が爆発し、その衝撃でノブリス・オブリージュの隊列は崩れた。一瞬の隙を縫い、藤原達は姿を消す。
ビルの路地の隙間を走りながら藤原は冷や汗を流していた。まさかあのノブリス・オブリージュがぞろりと現れるとは誰も予想はしていなかっただろう。だがしかし、あの装甲そのものはただの量産タイプ――。ジェネシスが技術を軍事転用して生み出した人型戦車なのである。何機生産されていてもおかしな事は何もない。
「アホちゃうかっ!? あんなん勝てるかい、ボケッ!!」
「…………流石に分が悪いか」
「いやいや、分とかそういう問題やあらへんやろ……。ま、目的だった“これ”は捕まえられたんや。一先ずよしとしようや」
そう、何も行き成り奏と決着を付けるつもりであそこに降り立ったわけではない。二人の目的は政府関係者を捕まえる事である。エンペラーの能力で自分で走らされている新庄は非常に不満そうな表情を浮かべていた。
「とりあえずは出直しや。このまま黙ってベロニカが世界を飲み込んでいくのを見ているわけにはいかんし、それを阻止出来るのも今の所ウチら所有者だけや。事は身長に運ばなあかん」
「だが、俺の能力を使えばあの程度は切り抜けられたぞ……?」
「だから切り札は最後まで取っとくんやろ? お前の能力はホンマに最後の最後までとっとかなあかん。一瞬の勝機がそこにかかっとるんやからな――」
廃墟には、当時の事を物語る物があちらこちらに残されていた。かつて子供たちが暮らしていた古びた教会を改築したその孤児院は、今も静かに時を止めたままであるかのようにその場所に存在していた。
東京を出て三時間、鳴海たちは漸くその場所に足を踏み入れていた。木々の蔦が壁を飲み込み、森の中に吸い込まれていくような錯覚を覚える建造物。亀裂の入った白き壁、鳴海はそれを見上げて目を細めた。
「……変わらないですね。昔のままだ」
志乃が呟いた。鳴海は一人、扉に手をかける。開け放たれた扉の向こう、埃が広がった。欠けたステンドグラスから差し込む光の中、鳴海はゆっくりと記憶が鮮明になっていくのを感じていた。この場所には、何があるのか……。少しだけ、今ならば判る気がした。
メガフロートを出た瞬間、ユニフォンは効果を失った。同時にVSは召喚出来なくなり、今この場で異形の力を扱えるのは鳴海だけになっていた。この建造物を見た瞬間から鳴海は何かを感じていた。まるで人を寄せ付けず自ら忘れ去られようと教会が隠れているかのような印象を受ける。そっと、何も無い中空に手を伸ばした。しなやかな指が光に触れ、途端に心の中で何かが弾けた。
鳴海は駆け出した。突然の行動に志乃とケイトもそれを追い掛ける。鳴海はまるで最初から道順が判っていたかのように十年来訪れていなかった孤児院を駆け抜けた。教会から繋がる渡り廊下を駆け抜け、辿り着いたのは重苦しい木造の扉だった。両開きのそれに手をかける。息を呑んだ。この先に――きっと全てが眠っているだろう。
「鳴海!」
背後からケイトが声をかける。二人が合流するのを待ってから鳴海は扉を一気に押し開いた。そこにあったのは大きな部屋だった。ただベッドが一つだけあるだけの、これといって特徴の無い部屋――。しかし鳴海は鮮明に思い出していた。そこに、誰が横になっていたのかを。
ゆっくりとベッドの傍に進み、窓を覆っているカーテンを一気に開け放つ。眩い光が一斉に闇を切り裂き、世界が広がっていく。窓の向こうに広がる世界――。そこにはまるで紫色の絨毯を作り出すかのように広がる、広い花畑があった。
窓を開くと爽やかな風が吹きぬける。鳴海は窓辺に立ち、静かに言葉を呟いた。その花畑の中、走り回っている子供たちの姿が鮮明に彼女の目には浮かんでいた。
「……ベロニカの花だ」
「ベロニカ?」
背後、ケイトが腕を組んで呟く。鳴海は深々と息をつき、過去の記憶に思いを馳せる。ベッドの上、気づけば少女の幻影が座っていた。ベロニカの花を手にして、鳴海に微笑みかけている。
『知ってる? お姉ちゃん。ベロニカの花はね――』
「“常に微笑を持って”……」
鳴海が呟いた言葉にケイトが顔を上げる。何事かと首を傾げる志乃にケイトは目を瞑って囁いた。
「ベロニカの花言葉さ。微笑を絶やさないでと……そういう意味だ――」
かつてそのベッドに、櫻井京は横たわっていた。ベロニカの花を手に、鳴海に笑いかけていた。
一気に記憶が濁流となって心の中に流れ込む。そう、そこに鳴海は何度も通っていたのだ。この場所は――鳴海機関が解体された後、そこで実験体として扱われていた子供たちを集めた孤児院だった。
同じような孤児院が各所にあり、普通とは異なる子供を匿うこの場所のような施設に押し込められた彼等は皆、この世界の闇なんて知らないで生きていた。その頃には鳴海はもう学校に通っていたのに対しなぜ妹はまだここに居なければならなかったのか……。それは、妹の京には余りにも強力すぎる超能力が宿ってしまっていたからであった。
少女は未来を知り、過去を知り、全てを知る事が出来た。その力は全知全能という言葉を髣髴とさせ、あるはずも無い幻想を人々に思い出させてしまう。封印された少女――。この場所で緩やかに年老いて死んでいく事が彼女の宿命だったのだ。
鳴海はそんな妹に罪の意識を抱いていた。自分は幸せな日常に帰る事が出来たのに、妹は何故そう出来ないのか……。負い目を感じ、いつも笑う事が出来なかった鳴海。そんな鳴海がある日この部屋で見たのが、ベロニカの花畑だった。
蒼い、とても蒼い風が吹きぬけて行く。妹はそこで微笑んでいた。姉に笑って欲しいと、無邪気に手を差し伸べてくれていた。明日が来る事が恐ろしくなくなった。鳴海の名に立ち向かい続ける勇気を貰った。
なのに全ては壊れてしまった。何故、彼女は死んでしまったのだと思い込んでいたのか。おぞましい記憶が蘇る。それは全て、あの月の夜に起きた事が原因だった。たった一晩で、鳴海の世界は音を立てて崩れ去って言った――。
「そう……。そうなのね、奏……。貴方はこれを忘れずに、ずっと……」
「……鳴海さん?」
「思い出した……。思い出して、しまった……。ううん、きっと違う。ずっと覚えていたんだ。ただ、皆忘れようとしていただけで。忘れてもいいんだと、あの子が言ってくれたお陰で……」
「わたしはね、ただみんなが笑っていてくれたらいいなって思ってた。そうしたらきっと、みんな幸せな気持ちになれるんだって、そう信じてたから……。でもね、わたしは何も判ってなかったんだ。わたしがいるから、皆が困るんだよ。わたしはこの世界に生まれちゃいけなかった」
京は自分が嘗て居たという部屋の窓辺に立ち、俺に背を向けたままそう呟いていた。ずっと昔に見ただけの景色が目の前に広がり、孤児院はいつの間にかあの頃と同じ風景を取り戻していた。窓から吹き込む風も、棚引くしろいカーテンも、全てがあの頃に戻っている。
「ねえ、覚えてる? 響は、この窓からわたしの事を見てたんだ。わたしが手を振ったら、響は恥ずかしがって引っ込んじゃったんだよ」
「……そう、なのか?」
「誰もわたしに触れようとしなかった。みんな、わたしがどういう存在なのか知っていたから。でも、響は何も知らなかったんだよ。だから、きみはわたしと友達になった。内緒の友達……。一緒に居ちゃいけないって判っていたのに。わたし、それが嬉しくて……」
京は振り返り、それからベッドに移動する。腰掛けた京を見ていたら、段々と何かを思い出し始めた。そう、ベッドの上に座っていたんだ。女の子……とても髪の長い女の子だった。孤児院で遊んでいても見た事が無かった、不思議な女の子。窓から覗き込んだら、恥ずかしそうに手を振っていた。
ここは誰も立ち入ってはいけないといわれていた禁断の場所だった。花畑に近づく事は、先生に禁じられていたから。でも俺はその場所へ一人で訪れて、そうして窓から中を覗き込んだ。
『きみは……?』
あの頃の自分が蘇る。窓の向こう、ベッドの上に座った女の子に問い掛けた。
『……きょう。きみは?』
彼女がそう答え、問い掛けてくる。俺は答えにつまり、眉を潜めた。
『わかんない』
『どうして?』
『わすれちゃったから』
その日、俺たちはただそれだけの言葉を交わした。でも思えばあれが全ての始まりだったんだ。そう、俺は彼女を知っている。櫻井京、このベッドの上に居た少女を、俺は確かに知っている――。
「――思い出して。きみの事、わたしがどれだけ好きだったのかを」
彼女が真っ直ぐに俺を見てそう告げる。額に手を当て、俺は一生懸命に思い返すことにした。そう、記憶に鮮明に残っている。何故忘れてしまっていたのだろう? まるで魔法が解けて行くかのように俺は過去を振り返っていた。
花畑を抜けた先、窓辺に手を伸ばしていた彼女に花束を差し出した。彼女は姉に渡すんだと喜んでいた。少しずつ、心に蘇っていく。京が笑うと――俺も嬉しかった事。
全ての始まりはそう、このベロニカの花畑にあった。俺は――――名前のない少年は、そこで世界の終わりを知る少女と出会ったのだ――――。