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Dark Matter(1)

 とても、大切な人だった――。

 幼い頃から大好きで、いつまでも一緒に居たかった。離れ離れになって、十年待って。それでも助けに来てくれた人。

 例え世界が滅んでしまったとしても、それでも守りたかった人がいた。守ろうとしてくれた人がいた。だから、生きる事が出来た。生き残る事が、出来た。

 大切な物を守ろうとすれば、どうしても何かを手放してしまう。守れるものは少しだけで、いつだって世界は大切な物から順番に奪い去って行く。

 だからもう、それ以外何もいらないと、それ以外は何もかも捨ててしまっていいと、心の中に強く願った。でもそれで、何もかもなくなって。そこに残った大切な物は、笑いかけてくれるのだろうか――?



「――――ぉぉぉおおおおおおおッ!!!!」


 響の繰り出した拳がノブリス・オブリージュの装甲を一撃で砕く。反撃に繰り出した剣の嵐の中、響は空に拳を掲げ、大地へと叩き付ける。迸る現実改竄の雷が周囲を飲み込み、ノイズが吹き荒れた。

 世界の情報が何度も書き換えられ壊れて行く……。その景色を人は正しく認識する事が出来るのだろうか。誰にも判らない。それは最早人の身を超えている。とっくの昔に、誰にも止められない程に。

 伸ばした腕の先、ノブリス・オブリージュは銃弾を連射する。響は回り込むように駆け出し、海へと走っていく。靴が海面に触れた瞬間から海は停止し、凍てついたかのように全てが止まって行く。固まった水の上を疾走する響目掛け、ガトリング砲の掃射は続く。

 稲妻を纏った腕の輝きは増して行く。今の響には自分に何が出来て何が出来ないのかがはっきりと理解出来ていた。触れる傍から全ての存在の構成を改変し、己の思うがままにする事――。“世界を変える”事。それがジュブナイルの能力。

 ノブリス・オブリージュもまた同じくして世界の法則を容易に書き換えてしまう。今までの騎士とは違う、明らかに本気の様子が窺えた。最早どちらかが倒れるまで戦いは止まらない。誰にも止められない。

 騎士が両腕を左右に広げる。装甲が一瞬消滅し、光の粒となって再構成されて行く。露出したエリスの四肢から延びる機械の手足――そしてその背部には大型のキャノン砲が装填されていた。

 一斉に火を噴く砲台。次々にハ発射されるミサイル。エリスの目が輝き、大地が光を帯びる。次々に周囲の大地が消滅し、光が空に集まって行く。浮かび上がったのは何十本もの剣――。空を覆うような剣を一斉に放ち、響へと降り注がせる。

 爆発と衝撃、襲いかかる剣の雨――。響の身体が爆風で吹き飛ばされる。空中で反転しながら大地へ手をついた瞬間、海が爆発した。紅く燃え上がるように発光する海は一瞬で渦巻き周囲に刃となって飛散する。剣と水の棘がぶつかり合う中、二つのシルエットはお互いにお互いを目指して駆け始めた。

 ノブリス・オブリージュが再び変形し、背後に巨大なブースターを展開する。音の壁を越えて突っ込んでくるノブリス・オブリージュに轢かれた響は空中に投げ出され、きりもみ状に回転しながら海に落下した。

 騎士はあまりの速さに自分でも停止が出来ず、遥か彼方まで吹っ飛んでから漸く速度を落し始める。クイックカーブの連続は海を何度も爆発させ、Uターンと同時に響へと迫って行く。

 海から上がってきた響は全身傷だらけだった。普通なら即死の所、慌てて海に沈みながら防御を行ったのが成功したのである。自らの身体に手を当て。能力を発動する。

 そう、やり方は簡単だ。要は出来るかどうかではない。それをやろうと思うかどうか――。志乃は対象の構成を変化させて傷をなかった事にした。ならば自分にそれが出来ないはずもない。

 腕から満ちた輝きは響の身体を包んで行く。見るに耐えない程にボロボロだった響の身体は一瞬でノイズと共に復活していた。しかしそれも束の間、正面からノブリス・オブリージュが再び突っ込んでくる。

 回避が間に合わず再び轢かれる響と共にノブリス・オブリージュは陸地へ戻り、電波搭に衝突した。衝撃で鉄骨が歪み、搭が傾く。激しく巻き上げられた水飛沫と蒸発した水蒸気の影の中、響とノブリス・オブリージュは取っ組み合っていた。

 見れば響の身体、右腕だけではない。左腕までもがジュブナイルの装甲に覆われていた。その両腕で正面からノブリス・オブリージュを受け止めていたのである。騎士を押し返し、響は接近する。至近距離まで潜り込み、ノブリス・オブリージュの砲台を掴んで引き千切った。

 装甲を奪われたノブリス・オブリージュの周辺にノイズが走る。例え身体を引きちぎられようとも、その身体を構成する情報を上書きする事でそれはなかった事になる……そのはずだった。


「――――治せないんだろ? 俺がつけた傷は……」


 ノブリス・オブリージュを正面から押さえつけ、響が笑う。身動きが取れないノブリス・オブリージュの身体が治る事はいつまで待ってもなかった。響はエリスの背中に手を回し、ノブリス・オブリージュの装甲から引き千切る。強引に引っ張った事により背中についたコードがちぎれ、スパークする。しかし響は容赦なく機械の装甲からエリスを引っ張り出し、抜け殻となった装甲を遥か彼方へ蹴り飛ばした。

 吹き飛んで行くガラクタを見送り、響はエリスを抱いて背を向ける。目を向けたのは唖然としたまま戦いを眺めていた仲間達の方。響は微笑み、それから駆け寄った。


「意外とちょろかったぜ」


「……櫻井さん、貴方……人間ですか……?」


「なんだその失礼な発言は!? 列記とした人間だ!!」


「…………滅茶苦茶ですよ……。超能力とかそういう問題なんですか……?」


 驚きを通り越して最早あきれて苦笑するしかない隼人の傍ら、ケイトだけが神妙な面持ちで何かを考え込んでいた。やがて意を決したかのように顔を上げたケイトは響に歩み寄り、


「まだノブリス・オブリージュの反応は消えていない。やはり本体はあの装甲ではなく、神崎エリスのようだ。響、まだ終わって――!?」


 まだ、終わっていない――そう告げようとした瞬間であった。


「……作戦目標に接触完了。データの移送を開始。これよりベロニカシステムの強制インストールを開始します」


「何ッ!?」


 突然目を瞑ったままのエリスがそう呟く。次の瞬間、延びたエリスの手が響の頭を掴んでいた。虹色の光が溢れ、響を包み込んで行く。


「櫻井さんっ!! 早く離れてっ!!」


「く……っ!? エリスの力じゃないのか!? 離れねえ……ッ!!」


「――下がるぞ、隼人君!!」


「でも櫻井さんがっ!!」


「現実空間に目にも見えるほどの歪が発生している……! 間違いない、このままでは“爆発”するぞ……!!」


 苦虫を噛み潰したような表情で隼人を担いで走るケイト。二人が遠ざかって行く中、響はエリスから逃れようと必死でもがく。しかし鋼鉄の腕を以ってしてもそこから逃れる事は出来なかった。

 響が考えている事、それは今自分が逃れる事ではなかった。神崎エリスを救う方法――ただたった一つ、それだけの事を思う。エリスだけはなんとかして助けねばならない。もう、どうにもならないとしても――。


「――――櫻井さあああああああんッ!!!!」


 途端、叫びを合図としたかのように空間の歪みは断裂へと変わり、内側へと飲み込まれるように捻れて行く。その歪みが限界を超えた時、光の渦となって空間は四方へ飛散。大規模な爆発となって闇夜を照らし上げた――。



Dark Matter(1)



「あれっ?」


 気がつくと、俺は見知らぬ場所に立っていた。

 なんか、ついさっきまで物凄い戦いをして、物凄い事になって、物凄い死んだ気がしたんだが……どこだろう。まさか、死後の世界とか……?

 周囲を見渡す。そこはどこかの森の中だった。見覚えはないのだが、忘れているだけで知っている場所なのかも知れない。何となくそう思った。

 仕方がないので歩き出す。死後の世界だったとしたら最悪だ。まだ何もしていないのに、死んでしまったんだから。まだ、何も……。

 エリスは無事だろうか。他の連中はどうなったろう? 色々と気になる事があるはずなのに、何故かあまり緊張感や焦りはなかった。まるで全て遠い世界の出来事のようだ。

 森を抜けた先、そこにはあの教会があった。そう、俺たちが昔預けられていた教会だ。何度か夢に見た。でも、どうしてまたここなんだ?

 一人で扉を開き、中へと足を踏み入れる。なんだか疲れていたので椅子の上に座らせてもらった。礼拝堂はとても静かで、優しい光が満ちている。なんだかとても懐かしく、穏やかな気持ちで目を閉じた。

 なんだか長い間、夢でも見ていたような気分だ。なんだろう、よく思い出せない。俺は…………どうなってしまったんだろう。


「死後の世界、か」


 ここがそうだっていうのなら、多分そう悪くはないんだろう。少なくとも今の俺には、そう感じる事が出来た――。



「――――始まったか」


 オルタナティブの鎖を引き戻しながら奏が呟く。一方的な戦闘結果に傷だらけになった志乃と鳴海を一瞥し、奏は二人に背を向ける。


「待ち、なさい……! どこに行くつもり……!?」


「お前たちは戦力を分散させ同時攻撃を仕掛ける事でこちらの戦力を分散させたつもりだろうが……それはこちらも同じ事だ。最初から狙いは一つだけだからね」


「狙い……?」


「もうどうしようもない。誰にも止められない。生かしておくのは、思い出させる為だ。最後の最後まで苦しみ、後悔しながら死なせる為だ。急がなければ何もかもが台無しになるぞ? 精々走ったらどうだ? 鳴海姉さん」


 笑いながら奏は姿を消してしまう。鳴海はそれを追い掛ける術を持たなかった。その場に膝を付き、肩で息をする。どんなに力をつけたつもりでも、奏には追いつけなかった。奏の力は圧倒的過ぎた。このまま長引けば敗北を喫していたのは恐らく鳴海たちの方であろう。

 見逃された――ここは助かったと喜ぶべきなのだろうか。だがしかし奏の言葉はどこか引っかかる。急ぐべき事があるとすれば、恐らくここではないどこか――。


「……鳴海さん、響たちの方はどうなってるんでしょうか?」


「…………」


 奏はこちらの戦力を分散させる事に成功したと言っていた。それがもしも負け惜しみではなく事実なのだとすれば――。狙いはここではなく、別行動中の響たちの方にある事になる。

 鳴海が無言で立ち上がり、その場を後にした頃。鳴海たちが慌てて引き返す道の途中、倒れた舞とそれを見下ろす傷だらけの鶫の姿があった。二人の戦いは結局鶫の優勢で終了し、こうして上下の対立図を生み出している。


「……やっぱり、本気で殺そうとしないんですね」


「…………お嬢さんだって、止め……ささないの、ね」


 倒れた舞の枕元に立ち、腰を落す。鶫は既にVSを解除していた。舞は小さく溜息を漏らし、顔を腕で覆った。


「……始まっちゃったみたい。もう、あたしもきっと用済みね」


「何が……始まったんですか?」


「…………本当の、ベロニカシステムの発動。笑っちゃうよね……。奏は結局、あたしの所になんか……助けにも来なかったよ……」


 顔を隠した舞から流れた涙が硬い大地に零れ落ちる。鶫は目を瞑り、それから顔を上げた。正面からは鳴海と志乃が走ってくる。二人と合流した鶫は一度倒れた舞を振り返り――それを振り切るようにして走り出した。



 第二電波搭は完全に大破し、今は海に倒れこんでしまっている。爆発は電波搭の半分を飲み込み消滅させ、周囲に激しい衝撃派を生み出した。発生した津波は海の向こうまで迸り、大きく吹き飛ばされたケイトと隼人は傷だらけで気を失っていた。

 爆心地となった場所には雨のように海水が降り注いでいた。爆発して巻き上げられた大量の海水はスコールさながらである。雨に濡れた身体で櫻井響は立っていた。足元には神崎エリスが気を失って倒れ、しかし奇跡的に二人は無事だった。

 櫻井響は立ったまま、頭を抱えていた。意識は既に存在していない。両腕を覆っていただけの装甲が徐々に伸び、肩を、身体を、全てを覆って行く。黒く変色した装甲に――自らのVSに飲み込まれるようにして響は埋もれて行った。結果そこに残ったのは――黒い鋼の装甲を身に纏った騎士であった。

 黒い、真っ黒な騎士。剣の翼を持ち、重苦しい漆黒の甲冑に守られている。騎士は顔を挙げ、それからゆっくりと空を見上げた。広げた両腕で世界を感じ取る。黒い――ノブリス・オブリージュは、深々と深呼吸をしているかのようだった。


「素晴らしい成果だ。ようやく手に入れたぞ……。“ダークマターの右腕”……!」


 声の主はダークスーツを身に纏い、闇の中を歩いてくる。櫻井響の傍まで歩み寄り、美しいその姿に思わず感嘆の息を漏らした。氷室雅隆――。全ての計画の発案者は自らが漸く辿り着いた一つの結論を前にどれだけ満たされた気持ちであっただろうか。神崎エリスを用いたノブリス・オブリージュなど、全て櫻井響を取り込む為の囮に過ぎなかった。確かに神崎エリスはノブリス・オブリージュとして高い適正を持っていた。だが所詮なんの因子も持たないただの少女に過ぎなかった。

 神埼エリスの心は限りなく真っ白だった。純粋無垢――それが彼女に相応しい形容詞だろう。神崎エリスは純粋であるが故に全てを受け入れる器として足る物であり、ノブリス・オブリージュの素体候補のひとつとしてこの町が組み上げられた時から目をつけられていた。

 だからこそ、わざわざ大して力もない彼女の父親を大事な役職につかせ、この街から離れないように様々な優遇特権を与えてきたのだ。父親は嬉々として娘をジェネシスに差し出した。勿論、ノブリス・オブリージュの素体にするなどとは伝えていない。“死んでしまった”娘の遺体、それを有効活用しているだけの話である。

 そう、神崎エリスは一度は死んだのである。確かにそれは確定した現実だった。それが書き換えられるよりも早く、彼女を“世界の法則から外れた存在”にしてしまえば、いかにベロニカシステムを以ってしても改竄する事は不可能となる。人の状態で人を凌駕し、世界の輪から除外される事。それが彼女に与えられた役目であり、終焉でもあった。

 そして今、雅隆が願ったダークマターの欠片を取り込み、補完することに成功したのである。これで全ては計画通り、最早最終段階を発動するに充分足る状況が生み出されたわけである。


「長かったぞ。お前がダークマターの右腕を内包していると突き止めるのに何年かかったか。お前の中のダークマターを目覚めさせるのにどれだけ回りくどく戦いを仕組んだか……。ふん、尤もそれはついでだがな。これでベロニカシステムは完全な物となった。世界は全て思うがまま、というわけだ。なあ――櫻井奏?」


 雅隆の背後、転送されてきた奏が舞い降りる。姿を現した奏は黒いノブリス・オブリージュと化した響を見詰め、眉を潜めた。雅隆は振り返り、両腕を広げる。


「これもお前のお陰だ。お前がダークマターの欠片の在り処を教えてくれなければこうは行かなかっただろう」


「……自分の願いを叶える為、ですよ。それよりこれで――“彼女”は解放されるんですね?」


「まだだ。この腕の方にシステムを全て移し変える必要がある。ダークマターとして完全に機能させるまでにはまだ段取りがあるが、それが終われば――」


「……長かった。やっと、あの子を助けて上げられる……」


 奏は肩を竦め、空を見上げた。溜息を漏らしながらノブリス・オブリージュへと歩み寄り、その黒い甲冑の肩を叩いた。


「悪く思うなよ。全てはお前の所為……お前の招いた結果だ。恨むなら、こういう世界にした自分を恨め」


 奏は哀れみを込めた瞳で響を見詰める。しかし響に最早自我は無く、奏の言葉にも全く反応する事はなかった。そうして手を離し、奏が振り返った瞬間だった。雅隆の背後、一人の少女がそこには立っていた。

 長い黒髪を風に靡かせ、ライダースーツの少女――櫻井京は瞳を震わせながら響の惨状を見詰めていた。転送に気づいた雅隆が振り返り、奏が慌てた様子でライダーへと駆け寄った。


「京……」


「…………響を、どうするつもりなの? “お兄ちゃん”……?」


 奏はその質問に応える事が出来なかった。ただ押し黙って視線を反らす。その態度から京は全てを悟った。目をきつく瞑り、拳を握り締める。


「丁度いい機会だ。お前を消せばこの世界は完全に安定する。最後の不安要素が自ら出向いてくれたのだ。丁度いい――。新しいノブリス・オブリージュの実験台になってもらおう」


「雅隆!? どういう事だ!? 彼女を取り込むつもりかっ!?」


「本社地下のマザーからわざわざデータを組み上げる必要もなくなるだろう? 何、別にこの小娘が居なくなった所でこの世界に影響などないさ。それにそれが済めば――お前の大事な、“本物の妹”にだって直ぐに会える」


「く……ッ」


 雅隆の言う事は至極尤もである。奏は全く反論できず、ただ歯を食いしばることしか出来なかった。だが確かに――。こちらの世界の京を使うのではなく。対岸の京を使えば。こっちの世界の誰も傷つく事は無く。全てを完遂出来る――。

 誘惑と冷静な判断は奏を黙らせた。奏は身を引き、黒いノブリス・オブリージュが前に出る。獣のように荒い息で肩を上下させ、口を開くノブリス・オブリージュを見て京は泣きそうな表情でベロニカを手にした。


「響……。ごめんね……。助けてあげられなくて……。傍に、居てあげられなくて……」


 雅隆が指を鳴らす。それを合図にノブリス・オブリージュは空に吼えた。耳を劈くような轟音の後、前屈みに走り出す。両腕を伸ばして京へと襲い掛かる黒いシルエットは獰猛な獣そのものである。響はその手に白い聖剣を握り、その突撃を受け止めた。

 力は以前の数倍にまで跳ね上がり、最早櫻井響であった頃の面影は殆ど残されてはいなかった。吹き飛ばされたライダーは大地に激しく叩きつけられ、額から血を流す。流れているのは紅い血液だけではなかった。心の傷から染み出た透明な涙が、紅く交わって頬を伝っていく。


『ォォオオオオオオオオオオオオオ――――ッッッッ!!!!』


「……好きだよ、響……」


 小さく呟く言葉。何故こうなってしまうのだろう? 違った未来があってもよかったはずなのに。そう出来るように努力してきたはずなのに。

 何も変わらない未来。何も変わらない結末。でも、戦わなければ明日はないのだ。判っている。ずっと前から知っていた。夢なんてみていられない。だから剣を手にする事を選んだ。だから。ここに居る――。


「大好きだよ……響ッ!!」


 剣を強く強く両手で握り締め、低い姿勢から走り出す。獣の身体目掛けて横に薙ぎ払い、しかし装甲に触れた瞬間刀身のほうが砕けてしまった。圧倒的な外部に対する拒絶――。だが、京は諦めない。次々に剣を取り出し、連続で襲い掛かる。その猛攻は目を見張るほど美しく、そして激しく力強い。

 次々に剣が砕けて行く。反撃の拳が京の腹に減り込み、少女の口から信じられない程の血が飛び出した。内臓ごとぶちまけるのではないかという恐ろしい威力の拳に一瞬気を失う。だが直ぐに踏みとどまり、倒れる事を許さない。


「う……ああああああああああああっ!!!!」


 剣を構築し、ノブリス・オブリージュの肩に突き刺す。いよいよ防御能力を上回り始めた刃の鋭さは、まだ彼女が覚悟を決められていない事に起因する。本当ならば二つの能力は互角――。否、オリジナルに限りなく近い京の方が上なのである。

 だが、相手を殺すという意思において京は非常にぶれている。大好きな彼を殺す事なんて出来るはずもない。流れる涙が止まりそうにもなかった。必死で歯を食いしばり、ノブリス・オブリージュを蹴り飛ばす。

 空中に跳躍し、剣を連続で投擲する。ノブリス・オブリージュもまた剣でそれを迎え撃つ。大地に降り立った京が手を着くと、次々に剣が大地より飛び出して騎士へと襲い掛かった。叫びと共に剣は大地を埋め尽くし――その様子は文字通り剣山さながらである。

 体中を貫かれたノブリス・オブリージュは必死でもがき、突き刺さった剣の拘束から逃れようとする。刃の合間を縫うようにして走る京は悲しげに京を見詰めながら剣を振り上げ、飛び掛ると同時に袈裟に斬りかかった。

 肩に刃が減り込み、騎士が吼える。噴出す血の雨を浴びながら京は形相を作り刃を減り込ませていく。その様子は世界の闇を体現した魔物に立ち向かう光の勇者さながらであった。

 だが、この戦いはそんなにもシンプルなものではなく。一方的な正義も、勝者さえも存在しない。京の手は止まっていた。大事な櫻井響が、このままでは死んでしまう――。


「はあっ! はあ……! 響……っ! お願いだから、もう止めて……っ!」


「何をしている、ノブリス・オブリージュ! 戦え!!」


 雅隆の言葉に反応し、騎士が腕を伸ばす。響の左腕に掴みかかった手は一瞬で細腕を圧し折り、力任せに引っ張って千切ってしまう。筋組織が強引に引きちぎられ、グロテスクに糸を引く。血が大量に噴出す中、京は痛みに耐えて右腕だけでノブリス・オブリージュへと刃を押し進めていた。


「響……っ」


 腕を引き契り、次に腕が伸ばされたのは少女の頭だった。頭部につかみかかり、指が皮膚に減り込んで行く。親指が眼球を潰し、あまりの痛みにまた気が飛びそうになる。響の残されていた腕から力が抜け、だらりと腕がぶら下がった。


「でき、ない……よ……」


 京は泣きながら目を瞑る。


「君を、殺すなんて……。出来ない、よ……っ」


 何度も、助けられた。何度も何度も、助けられた。

 傍に居てくれるだけでよかった。姿を見られるだけでよかった。それだけでよかったはずだった。所詮は対岸の住人、現実さえ変えてしまえば用などない、そのはずだった。

 なのにやっぱり、“あっち”で死んでしまった響と同じくらい大事で。同じくらい大好きで。一緒に過ごす事が出来なかった沢山の時間を共に過ごしている内に、大切に思う気持ちは増して行った。

 全部を台無しには出来なかった。でも、だからって響を殺すことだって出来ない。京は泣きながら優しく微笑んだ。血塗れの、偽りの腕で。そっとノブリス・オブリージュの頬に触れる。


「だい、すき、だよ……。きょ、う――」


 ――――響は忘れないよ。ずっと……きっと、ね。





「なあ、ライダー」


 ライダーが振り返る。


「また来ような、いつか」


 俺の目を真っ直ぐに見詰めて。


「そしたら今度は……皆でアイスを食おう」


 水の中、まるで妖精のように笑いながら。


「また、トリプルでさ」


 多分俺は、今日の事をずっと忘れない。京の事を、ずっと忘れない。

 忘れない。何があっても。忘れちゃならない。大事な事を――。自由である為に。俺が俺である為に――。


「あれ……?」


 なんで俺、こんな事思い出してるんだ?


「何で俺……泣いてんだ――?」





『オオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!』


 肉がちぎれる、酷く奇妙な音が鳴り響いた。噴水のように湧き出る血液を浴び、ノブリス・オブリージュは夜の空に吼えている。

 その片手には嘗て共に凄し、仲間として肩をならべ、そして自分が守りたいと思った少女の首があった。頭を失った肉体は最早意味を成さず、ただ血を噴出すだけの装置のようでさえあった。

 目を瞑り、片目から血を流し、もう動かなくなった櫻井京の首を見詰め、ノブリス・オブリージュは血の雨の中で沈黙する。暖かく、身体を滴っていく血の感覚。それを櫻井響が知る事は――恐らく一生、ないままだった――。


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