同盟(2)
孤児院に居た頃の記憶は、正直よく覚えていない――。
多分、沢山嫌な事があった。気づけば忘れていたのは、多分俺がそう望んだからなのだろう。別にそれを悪いとは思わない。全てを背負って生きて行く必要はないはずだから。
俺にとっての世界。俺にとっての人生……。辛い事もあった。でも確かにそこには幸せがあった。楽しみがあった。生き方があった。でも、今になって思う事もある。
鶫という人間と関わった事で、俺はほんの些細な過去で人は全てを失い、全てを得るのだと知った。大きな切欠なんて必要ない。過去があるから人は形成されていく。ならばそれを失った俺は、今何者なのだろう。
辛い記憶を失い、幸せな夢だけを見てきた。でも……そうじゃないというのだろうか。兄貴は――奏は、あの頃の記憶をずっと引き摺ったまま、今まで生きてきたのだろうか。
俺が何もかも忘れて生きて行く日々を、あいつはどんな気持ちで見守っていたのだろう。そう考えた瞬間、苛立ちはどうしようもなく強くなっていた。
一人でポケットに両手を突っ込んで歩く。何も考えたくなかった。この町で起きている事。この世界にある秘密。俺たちが背負っていた物……。傷付けあい、殺しあう運命、戦い、死……。どれもが馬鹿げている。でも、実際に身に降りかかった物だ。
ふと、立ち止まる。するとずっと後ろを歩いていたらしい、ライダーが突然止まった俺の背中に衝突した。ライダーは顔をあげ、俺を見詰める。
「……どうして付いてきたんだよ。来るなっていったのに」
「響が心配だから」
「別に、一人で兄貴の所に行ったりしねえよ。クソ兄貴との決着は、もう俺だけの問題じゃねえしな」
「…………響は、一人では奏と向き合えない」
ライダーは俺の目をじっと見詰めて言う。俺は思わず黙り込んだ。人々の雑踏の中、停止する。俺はきっと……奏を恐れていた。
「……怒った?」
「いんや。事実だしな」
「響は、怒っていいんだよ。響は……もう、そういう事で悩まなくていいのに。響は……わたしが、守ってあげなきゃ行けないのに」
どうしてライダーはこんな顔をするのだろう。別にこいつが何か悪い事をしたわけでもないだろうに。そもそも俺を守るっていうのも、ずっと意味不明だ。
ライダー。俺はその、名前さえ知らない。いや、知っている……。でも、それを呼ぶ事はなかった。どうしてこいつは俺に関わるのだろう。最初は敵だったくせに。
ふと、片手でライダーの顔に触れた。ライダーの顔には……傷がある。刃物か何かで斜めに斬られたような、痛々しい傷跡だ。それを綺麗だと感じるのはおかしなことなのかもしれない。でも均衡の取れた存在についた傷は、時に人を魅了するだけの価値がある
傷を親指でなぞる。ライダーはじっと俺を見ていた。何故俺を見ているのだろう。こいつは何者なのだろう。イレギュラーセイヴァー。それって、なんなんだ?
「……ライダー」
「ん?」
「デートするか」
「…………ほっ?」
あのライダーが目を真ん丸くさせて素っ頓狂な声をあげている。それだけでも俺としては意味のあることだった。低く笑いながらその肩を叩き、歩き出す。
「デートだよ。知らないのか?」
「…………り、理論はしってる」
「……理論? そんなすごい物知ってるのか……。俺はデートの理論なんかわかんねえぞ」
ライダーはちょこちょこ走って隣に並んだ。ライダーの右腕は、義手だ。機械の腕……。顔に傷のある女の子。そんなのそうそういやしないだろう。その過去に背負っている物ってなんなんだろう。ただ少し、興味が沸いた。
多分それは今自分が向き合わなきゃいけない、考えなきゃいけないことから逃げる事だった。ただそれよりも身近に、傍にいるライダーの事を考える……。デートなんて甘いもんじゃない。ただ俺は、彼女に救われたいと考えているだけなのだ。なんとまあ、自分勝手な……。
「……響は、デートしたこと、あるの?」
「あるぜ」
「あるのっ!?」
「なんじゃその顔は……。そういうお前はないらしいな」
「ある」
「ほー、うそつけ」
「あるもん」
「誰とだ?」
「…………それは、言えない」
ライダーは俺を見上げ、そう呟いた。俺は肩を竦めて進んで行く。目指す場所は、特にはなかった――。
同盟(2)
「アタシ……結局家族に家族らしく出来たのかしらって、時々思うのよね」
響の部屋、鶫が作った昼食を食べる鳴海、鶫、隼人の姿があった。お茶を飲みながら鳴海は一人で呟く。
「響も奏も、本当はずっと寂しくて居場所を探していたんだと思う。血が繋がらないどころか、二人に許されない事をしたアタシたちを、二人が家族だと思ってくれるわけもない」
「許されない事……?」
「アタシの両親は、元は鳴海機関の研究員だった。それで、鳴海機関はあの二人に…………」
「二人、に?」
「……何をしたのか、覚えてないのよねえ〜」
そのオチは流石に予想していなかったのか、鶫も隼人もがっくりと肩を落とした。お茶を口にし、鳴海は過去をへ思いを馳せる。そう、鳴海の記憶には多くの欠落がある。鳴海機関に居た頃の事。響と奏、二人と出会った事。何よりも――。
「……そうね、覚えていないのね。大切な事さえも……」
「へえ……。なんだ、ちゃんとした格好すればちゃんと女の子なんだな」
とりあえず俺は、ライダーに服を買い与える事にした。常にライダースーツというのもちょっとあれだろうし。ライダーがライダースーツを着ていたのは、多分あの派手な義手を隠す為だったんだろう。本人が気にしているというより、周囲が気にする……その辺も彼女は考慮していた。
ぶっちゃけ俺は女の子の服なんて買った事もないので、テキトーに見繕う事にした。自然と服のセンスが舞っぽくなったのがなんとも言えないが、舞のように肩や背中の出る服は義手の所為で選べなかった。結局長袖に手袋をはめ、それで義手を隠す事にした。
かなり短いミニスカートを選んだのは俺のセンスではない。舞のセンスであると言い訳しておく。ついでに伸ばしっぱなしの髪を括る髪留めを購入した。三百円である。
店を出て先ず、ライダーのくそ長い髪を縛ってやる事にした。さてどんな縛り方にしようかと悩んだが、結局熱中して縛っていたら三つ編みになってしまった。
「あはははは! かわいいかわいい!」
「……なら、なんで笑うの」
「いや、なんかお前普段が化物っぽすぎてどうにもな」
そう、今でも思う。やっぱりこいつの戦闘能力は異常だ。ポジティブとかネガティブとかそういう問題じゃない、もっと根本的な差があるような気がする。
普段から無表情で、淡々と物を進めるライダー。でも、俺と一緒に居てくれた。助けてくれた。感謝している。だからもっと、ちゃんとしてもいいんじゃないかと思った。もっとちゃんと、歳相応にしたっていいはずだ。
ライダーは自分の髪を指先で撫で、俺を見上げた。結んである髪に違和感があるのかもしれない。でも俺の後ろ髪を見て何故か納得したように目を瞑り、頷いた。
「響、自分と同じ髪型にしようとしたでしょ」
「ん? 駄目か?」
「…………駄目じゃない。でも、どうして響、髪伸ばしてるの?」
「あ? あ〜……。そうだな。伸ばしてるのは後ろだけなんだが……」
「校則違反」
「お前でもそういう事言うんだな」
そんな話をしながら二人は歩き出す。響はあちこちへ向かった。別に目的地などない。気の赴くままに、右へ左へ。
「昔、舞が髪留めをくれた事があったんだ。その時は意識して髪を伸ばしてたわけじゃなかった。多分、めんどくさかったからなんだけどな」
でも、舞が自分の髪留めをくれた事がその時の俺は嬉しかったんだ。だからそれから髪を伸ばすようになった。舞はよく、小物を俺にくれた。お下がりのアクセサリっていうのもどうかと思うが、舞の使っていた物がもらえるのは結構嬉しい事だった。俺は子供の頃から、多分舞が好きだったんだ。
俺が髪を伸ばすようになると、舞は毎年のように髪留めをくれるようになった。だから俺も髪の毛を伸ばし続ける事にした。そうしている限り舞は毎年また髪留めを贈ってくるだろうから。
「……舞の事が、好きだったんだね」
俺の話を聞いてライダーはそう呟いた。なんというか、そりゃそうなのだが。面と向かって言われると恥ずかしいな。
「なあ、ライダー」
ふと、足を止める。ライダーは風に髪を靡かせながら俺を見る。その横顔を見詰め、それから片手を差し伸べた。
「手でも繋ぐか」
「なんで……?」
「さあ……なんでだろうな」
理由があったわけではない。ただ、さっき擦れ違ったカップルが手を繋いでいたのを見たからかもしれない。別に俺たちはカップルってわけではないが……でも、少なくとも友達にはなれたと思っている。
ライダーはおずおずと、俺の手を取った。ライダーの手は冷たかった。俺が左手を差し伸べたから、彼女はどうしても義手でそれを受けねばならなかった。冷たい手を握り、指を絡める。
「どうして、俺を助けてくれるんだ?」
「全てのVSを消滅させなきゃいけないから」
「それは理由になってんのか?」
二人で移動して、中央にある自然公園にまでやってきてしまった。公園内にはアイスクリームの屋台が出ていて、ライダーが涎を垂らしていたので買ってやる事にした。
「三個のっける」
と、どうしても聞かないライダーの所為でトリプルのアイスを買う事にした。しかし毎度思うが、ダブルでさえ食いづらいのにトリプルってお前……無理だろ。
案の定、ベンチの上に腰掛けてかぶりつくライダーは口の周りとべたべたにしていた。髪は結んでやったので邪魔にはなっていないようだったが、そういう問題でもない気がする。
俺もチョコミントのアイスを買って食べる事にした。ライダーは幸せそうに、頬を緩ませてアイスを食っていた。なんでたかがアイスでこんな極楽な顔が出来るのか理解出来ん。
公園内は緑が多く、水路と噴水が各所にあるせいか街中より断然涼しかった。木陰の下に居ると気持ちよく涼しい風が抜けて行く。ざわざわと木々を揺らし跳ねる光の中、ぼんやりとアイスを食う。あ……やべ、完璧忘れてたけど響学校じゃね? まあいっか。
ライダーしか見る物がないのでライダーを見る。にこにこ笑っていた。普段は笑わないくせに、なんとまあ……。俺よりアイスの方が上らしい。それにしても見ていて飽きないやつだ。もぐもぐと一生懸命にアイスを食っている。
「そんなに見ても、あげない」
「いらねーよ。つーかそれ俺の金で買ったアイスじゃねえかよ」
「お金ならない。一円もない」
「そんなに偉そうに言うことじゃねえと思うが……」
チョコクッキー、バニラを退治し、残すところ抹茶だけになったアイス。ふと、俺は以前からずっと気になっていた事を訊ねる事にした。
「ライダー、お前の名前って“サクライ キョウ”なんだよな」
「そう」
「何て書くんだ?」
ライダーは少しだけ困惑した様子だった。別に自分の名前くらい困るような事ではないと思った俺が間違いだった。彼女は――漢字が書けなかった。
どういう事なのか。ものすんごいバカなのか。でもそういう風には見えなかった。そもそもなんでホームレスなんだ? 学校は? 家族は……? そうして気づく。俺はライダーのことを何も知らないんだって事に。
「名前だけは、書ける」
そう言ってライダーは棒切れを拾い上げ、整備された石畳と芝生との間にある僅かな砂のスペースに、自らの名前を書き記した。
「“京”……? これが、お前の名前?」
ライダーは無言で頷く。そうしてアイスを食べ終え、ワッフルを齧りながらベンチに戻った。
「お前、家族は?」
「わからない」
「学校は?」
「行ってない」
「どこに住んでたんだ?」
「わからない」
「どうしてこの街に居るんだ?」
「……響を守る為」
風が抜けて行く。ライダーはどこか遠い所を見詰めていた。寂しげな、しかし懐かしむような瞳。ライダーにも、思い出はあるのだろうか。出来ればあってほしいと願う。思い出の無い人生なんて、寂しいだけだから。
「なあ、京」
俺がそう呼ぶとは思って居なかったのか、ライダーは目を真ん丸くしていた。速攻で振り返ったライダーに逆に俺がびびってしまう。
「京……か。多分お前の名前知ってるの、俺だけだぜ」
「うん。他の人には、教えたくないんだ」
何故かそんな事を当たり前のように言うライダー。おかしなことを言うやつだ。
「だから、響は忘れないよね。わたしがもし、居なくなっても……」
「は?」
「もし、この世界の誰もがわたしを忘れても……京がいたっていう記憶、きっと響だけは忘れないから」
「……忘れちゃうかもしれないぞ?」
「そんな事無い」
ライダーは顔を挙げ、にっこりと微笑んだ。それは多分、俺が初めて見た、ライダーが俺に向けた笑顔だった。
「響は忘れないよ。ずっと……きっと、ね」
その言葉の意味はわからなかった。でも俺は後にこの出来事を思い出す事になる。後になって思えば……それはライダーなりに懸命に俺に何かを残そうとしていたのだと思う。それを汲み取る事が、俺には出来たのだろうか。
涼しい風が吹きぬけて行く。ライダーは立ち上がり、水路の方へ歩いて行く。噴水の周囲には沢山の鳥が止まっていた。まだ子供たちは学校に行っている時間で、大人は働いている時間……。人気はまばらだった。
「おい、京?」
ライダーは靴を脱いで噴水に近づいて行く。巨大な噴水は中央のモニュメントから水が降り注ぎ、小さな虹をいくつも作り出していた。ライダーは買ってやったばかりの服なんて気にもしなかった。きっとあいつにとって価値のあることは、服や髪なんかじゃない。
冷たい水の感触を楽しむようにその場でスカートを翻してライダーは振り返って見せる。それからあえて降り注ぐ水と霧の中に身を投げ出し、気持ち良さそうに目を瞑ってそれを受けていた。まるで文明を忘れた人類のようだ……。
水辺に立ち、俺はライダーを眺めた。ライダーは暫くするとこっちに向かって走ってくる。そうして転びそうになり――俺は慌てて中に入っていた。
水飛沫が上がり、俺の服を濡らして行く。ライダーの体を支えながら、もう殆どびっしょり水に浸かってしまっていた。ライダーはまるで主人に擦り寄る猫のように俺に縋り、頬を寄せた。
普通なら、イラっときたかもしれない。でも俺はそんな気にはならなかった。ライダーはなんというか……何を考えているのかわからないやつだと俺はずっと考えていた。でもそれは違ったのかもしれない。
そもそもライダーは、“何かを考えている”のだろうか? 明確な目的を持ち、計算し、自分の理念に法って行動しているのだろうか? 俺にはそうは見えなかった。きっとライダーはそんな生き方はしていないんだ。
思った事、感じた事……。何かに縛られる事なんかない。ただ全て己の意思に、気紛れさえ彼女の行動を決定する重要な指標なのだ。行動に一貫性は無く。でも、後悔はしない。心がとても自由なんだ。
「お前ってさ……もしかしてすげえバカ?」
「え?」
「いや…………。羨ましいよ」
ライダーは体を離し、水の中、俺に背を向ける。濡れた前髪が水と光を弾いて揺れた。
「わたしも響の事が、羨ましいよ」
「そうか?」
「うん。だから、響の傍に居たいんだ」
そうして笑うライダーの笑顔はすごく魅力的だった。きらきら輝いていて、とても無邪気で。何か思い悩んでいた事さえ、全て些細な事であったように思えてくる。
実際そうなのかもしれない。人が人を縛るのはいつだって自分の中の価値観だ。誰かに縛られているわけじゃない。自分でそうあることを望んでいるだけだ。
だったら迷いや戸惑いは意味を成さないのかもしれない。全てを感じるままに、ライダーのように生きられたら……きっと世界の全てがきらきらして見えるんだろうに。
でもそんな風には生きられないから。誰かと同じにはなれないから。だからこそ誰かを求めたり、求められたりしていく生き物だから。傷つけあっても、それでも――。
「なあ、ライダー」
ライダーが振り返る。
「また来ような、いつか」
俺の目を真っ直ぐに見詰めて。
「そしたら今度は……皆でアイスを食おう」
水の中、まるで妖精のように笑いながら。
「また、トリプルでさ」
多分俺は、今日の事をずっと忘れない。京の事を、ずっと忘れない。
忘れない。何があっても。忘れちゃならない。大事な事を――。自由である為に。俺が俺である為に――。
ライダーが俺の前から姿を消してしまったのは、その翌日の事だった。