復讐(1)
「……あむっ」
というのは勿論俺の台詞ではない。俺の目の前、何故か例のライダーと呼ばれている女がハンバーグにかぶりついている。つまり今のはそう、このライダーの台詞なのである。
相良探偵事務所からの帰り道、俺はライダーと遭遇した。その時点で何がどうなるのかと思ったが、ライダーは話があると言うだけで襲い掛かってくるような事はなかった。その場で話すのは嫌だったし、暑さにうんざりしていたので以前舞と共に入ったファミレスに今回もお邪魔する事にした。
昼過ぎという事もあり、腹が減っていたのも理由の一つである。とりあえずハンバーグのランチセットを注文したのだが……。ライダーが口から涎を垂らしながらじーっとハンバーグを見ていたので、くれてやったのである。
すると物凄い勢いでハンバーグを食べ始めたではないか。まるで飢えた犬か猫にエサでもやったような気分である。余程腹が減っていたのか、ライダーは手を止める事無く黙々と食べ続けていた。
「お前……そんなに腹減ってたのか?」
「うん」
にしたってもうちょっとこう、あんだろう。ライダーは口の周りをソースでべたべたにして、あろう事かフォークも逆手に持って食べていた。こう、幼い子供がフォークをきちんと持てずにぎゅっと握り締めているような持ち方である。勿論ライダーはそんなに幼いわけではない。むしろ外見だけで言えば大人びていると言えるだろう。年齢は俺と大して変わらないし、かなりスマートな体型に切れ長の目、黒い長髪が落ち着いた雰囲気を放っている。
服装がライダースーツというのもあるのだろう。しかしこんな格好で暑くないのだろうか……。胸元を開き、ライダーはもぐもぐとハンバーグを貪る。俺はそれを頬杖をついて眺めていた。
「何か話があったんじゃないのか?」
「うん」
「……その話はしないのか?」
「食べてからする」
「そうか……」
そんな会話をしていると、追加注文しなおしたハンバーグランチがやってきた。改めてそれに手をつける。確かにうまいが、あそこまでばくばく食いまくる程のものでもないと思う。
そういえばこいつ、普段は何してんだろうか。夜になると他の所有者を襲っている……そんな話は聞いているが、昼間だって何もしてないって訳には行かないはずだ。
「お前、口の周り酷い事になってるぞ……。ほら、ちょっとじっとしてろ!」
仕方がないのでナプキンで拭いてやる。なんだろう……本当に外見はむしろ大人びている方なんだが……。まるで子供を相手にしているような感覚だ。
ソースを拭いてやるとライダーは俺をじっと見詰めてきた。なんだか良く判らんが、まあ何となく言いたい事はわかる。多分感謝してるんだろう。そんな気がした。
「響」
「あ?」
「“ベロニカ”を壊して」
単刀直入、その一言に尽きる――。それは、果たして飯食いながらするような話なんだろうか……。烏龍茶を飲みながらそう考える。ライダーはその間も手を止めず、口にライスをかきこんでいた。
「ベロニカ、か。やっぱりお前の狙いはベロニカ……それで、なんでベロニカを狙う? ベロニカってのは何なんだ? なんでお前もベロニカを持ってる?」
一気に質問する。この様子なら、とりあえず襲い掛かってくるって事はないだろうと思えた。それになんというか……こいつからは敵意のような物を感じない。少なくとも俺に対して、こいつは悪い感情は抱いていないらしい。
「ベロニカはシステム。システムは世界を改変するコード。コードは“サクライキョウ”から発現したもの」
「すまん、人間にわかるように話してくれ」
何を言っているのかさっぱりわからなかった。ライダーは水を一気に飲み干し、口元を拭いながら頷く。
「ベロニカは、全てのユニフォンの始祖――オリジナルユニフォンであり、同時に最終形態でもある。重要なのはユニフォンそのものじゃない。ユニフォンは単にシステムを読み込むために必要な装置に過ぎない。問題なのは、ベロニカシステム」
「だから、何言ってんだかわかんねえっつの。もうちょっと判りやすく説明出来ないのかよ」
「出来る。でもしたくない」
そうっすか――。最早何も言う気にならなかった。ライダーはそそくさと食事を終え、俺が頼んだはずの烏龍茶を飲み干して満足げに目を瞑った。お腹一杯で幸せですってか。ざけんじゃねえぞこの女――。
「ベロニカを奪われると困るの。だから響、ベロニカを壊して」
「そういうわけには行かない。一応こいつは奏が舞に、そして俺に託したもんだ。お前みたいなわけわかんねーやつの言葉のどこを信じろっていうんだ? そもそもだから、なんでベロニカを壊すんだよ。奪われると困るってどういう事だ」
ライダーは突然だんまりを決め込み始めた。成る程、答えたくないからそうやって一生懸命耳をふさいで口も閉じてるわけだ。へえ、成る程……喧嘩売ってんのかテメエ。
「響は、何も判ってない」
耳を塞いでいた両手を下ろし、ライダーはそう切り出す。俺は眉を潜め、しかし続く言葉に聞き入っていた。
「VSもベロニカシステムも、全ては破壊されなくてはならない。わたしはただ、ベロニカシステムの全てをこの世界から抹消したいだけ」
「……なんだか良く判らんが……つまりこういう事か? お前はその、なんていうか……全部のVSを破壊しようとしている、と?」
「厳密にはそれとベロニカシステム」
「だからそのベロニカシステムってのがわかんねえんだろが――って、おいっ!! テメエいい加減にしろよ!? そ知らぬ顔で俺のハンバーグに手ぇ伸ばしてんじゃあねえよボケッ!!!!」
「だっておなかすいた……」
「追加注文すりゃいいだろが!? 今真面目な話してんだよ!! 俺とお前は敵同士! てーきーどーうーしー! そこ判ってんのか!?」
「それは違う。わたしは響の敵じゃない」
と、言いながら俺のハンバーグを掻っ攫って行くライダー。そんなもぐもぐ食いながら真顔でそんなこと言われても説得力は皆無なんだが――。
「わたしは響の敵じゃない。ただ……響を守りたいだけ」
「守る……? 俺を?」
ゆっくりと頷くライダー。ハンバーグを飲み込み――俺の瞳を真っ直ぐに覗き込んでくる。するとまた、頭の中で何かがぐらぐらと揺れ始めるような錯覚を覚えた。
以前もこいつと目を合わせた時、この奇妙な感覚に襲われたんだ。片手で頭を押える。何故だか判らないが、中々視線を反らす事が出来ない。数秒間、数分間……わからない。時間の感覚が乱れる。思考の中、何かの記憶が過ぎった。
ノイズのようなざらついた感触……。掻き乱されたシーン映像。その中で、俺は何かとても嫌な物を見た気がした。しかし次の瞬間には俺は目を瞑り、ライダーの視線を遮っていた。すでに奇妙な感覚からは開放されていた。
「お前……一体何なんだ……?」
ライダーは何も答えようとはしなかった。烏龍茶が注がれていたグラスから氷を口に放り込み、もぐもぐしている。なんというユルさ……。
「本当は、響ちゃんの傍にいてずっと守ってあげたいけど……でも、それじゃ駄目だから。それは出来ないから。だからベロニカだけ壊させて。そうすればもう、響ちゃんの前には姿を現さないから」
その言葉の意味は良くわからなかった。だが、それはしてはいけない気がした。何より俺はこいつの事を何もわかっていない。こいつの狙いがベロニカなのだとしたら、或いはこれはチャンスなのかもしれない。ベロニカを持ってさえ居れば、とりあえずこちらが有利ではある。
だがこいつの口ぶりからは、危機感のような物が感じられない。この終始ゆるゆるした態度……どうにも腑に落ちない。さてどうした物か……。
「兎に角、ベロニカは渡せない。それに俺一人じゃ決めようがないからな。悪いがうちまで来てくれ。皆で話し合おう」
勿論そのままの意味でもあるが、時間稼ぎでもある。それにいざもめる事になった時、店内ってのはまずいだろうし。
伝票を片手に立ち上がる。ライダーも一応大人しく着いて来てくれているようだ。一先ず会計を済ませ、店から出ようとしたその時だった。
「お前……金は?」
「持ってない」
堂々と言い放つライダー。なんだか嫌な予感がする……。
「お前、今まで飯とかどうしてたんだ……?」
「コンビニの裏に落ちてる」
それは――落ちてるんじゃなくて捨ててあるんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!?
「ホォオオオオオオオ-――――ッムレスじゃねえかテメエッ!!!! マジか!? マジでリアルホームレスか――って、汗くせえっ!? ああもう、兎に角ウチまで行くぞ!! 風呂に入れ、なんでもいいからっ!!」
こくりと頷くライダー。なんというか――俺はこいつに対してどのような気持ちを抱けばいいのだろう。どんな感情で接すればいいのだろう。まるでつかみ所がない――そんな感覚だった。
復讐(1)
結局ライダーを連れて家路を急ぐ俺……。このライダーってのは一体全体本当に何者なんだろうか。ホームレスで、恐ろしく強い力を持ったVSユーザーで……。俺と同じ名前、そしてベロニカを持つ存在。
ライダーは俺の後ろについて歩いてくる。大人しくしている分には全く普通の女なのだが、これが暴走し出すととんでもない事になってしまう。あらゆる意味で未知数であり――しかしまあ、ほうっておけない気もする。
何となく敵じゃないような気はするんだよなあ、ぶっちゃけ。でも、どこまで信用出来るかは決めあぐねている感じだ。我ながらはっきりしないが、それも仕方の無い事だろう。
「お前、寝る時はどうしてたんだ?」
「公園のベンチで寝てた」
「……マジかよ。ハンパねーなオイ」
まあ、なんかあのままだと鶫もそうなってた気もしないでもないが……。
二人して肩を並べてマンションに帰宅する。コンビニの店長が“また女を連れ込んでるわ”みたいな目で店内から俺を見ていたがスルー。
エレベータに乗り込むと、ライダーは結構汚いのが良く判る。本当に何をしていたんだか……。黒いライダースーツなので目立たなかったが、そのスーツには血痕みたいな物や泥なんかもついていてそもそも服装が汚い。
「兎に角風呂だな、風呂……。三回くらい頭洗った方がいいぞお前」
ライダーは俺の話を聞いているのか聞いていないのか、欠伸を浮かべながら目を擦っていた。眠いのかテメエ。俺が親切でつれてきてやってんのにおねむかコラァ。本当に上等な根性してやがる……。
そうして停止したエレベータから降りた時だった。通路に何故かスーツ姿の男が立っていた。いや、それそのものはいいのだが――どうにも用事があるのは俺の家らしく、部屋から顔を出した鶫と男は何かやりとりをしている様子だった。
しかも、どうにも様子がおかしい。鶫の表情は青ざめており、男は自らのユニフォンを鶫に見せているようだった。なんだかよくわからないが、ちょっと普通の状況ではない。
「ライダー、ちょっとここで待ってろ」
「らいだー?」
「お前の事やねんがなアホが!! くそ、藤原みてえな口調になっちまったッ! 兎に角ここで待ってろ!」
ライダーをエレベータ脇の溝に押し込め、俺はそのまま走り出した。二人の所まで駆け寄ると、鶫は青ざめた表情で俺を見詰めた。
「櫻井君……」
「そこ、俺ん家なんスけど……何か用ですか?」
「ああ、君が櫻井君か。初めまして、自分はこういう者なんッスけど」
そう言って男が差し出したのは所謂警察手帳という奴だった。突きつけられるのは初めてなので流石にぎょっとしてしまったが、名前はしっかり確認した。“新庄 薫”……それがこの男の名前らしい。
如何にも真面目そうな顔つきをした実に真面目そうな刑事だ。つまりまあ、なんというか……それで大体の経緯は予想がついてしまった。
「櫻井君は知ってまスかねえ? 先週起こった連続自殺事件……。清明高校の生徒だったら知ってるッスよね?」
「……ああ」
「その事件の犯人が、“B組のいじめられっ子”じゃないかっていう噂が流れてたんスよ。今日は自分、その調査に来たんス」
そう言って新庄という刑事は自分のユニフォンを俺に差し出した。そこに表示されていたのは真ウェブのページで、掲示板には様々な憶測が飛び交っていた。
所謂連続で発生した奇怪な自殺事件という事で話題性は元々充分だったと言える。俺も確かにここまでは確認していた。いや、暇な時間に見て情報は追っていたはずだった。
ページから目を離したのは昨日と今日、たった二日間くらいの間の事だった。なのにそこにはもう俺の全く知らない情報が飛び交っていた。
「噂ではこのいじめられっ子というのは、連続自殺事件が発生する数ヶ月前に起きた学校屋上からの自殺事件によって亡くなった女子生徒の幼馴染だったらしいと。死んだ生徒の名前は榛原陽子――。榛原陽子さんの友人というのは皆瀬鶫さん、貴方で間違いないッスよね?」
椿の瞳は揺れていた。もう完全に動揺しきっていて、それじゃあまるで全部肯定しているようなもんだった。刑事は目を細め、真剣な表情で言葉を続ける。
「実際、調べてみたんスよ。自殺した生徒たちは神崎エリスという生徒の関係者であり、その神崎エリスに榛原陽子はいじめられていたと。しかしその実いじめを受けていたのは榛原陽子本人ではなく――親友である貴方、皆瀬鶫であった。ここまでは間違いないッスね?」
「おい、あんたっ!! 行き成り何なんだ!? 言っていい事と悪い事があるぞ!?」
追い詰められた鶫は今にも倒れてしまいそうなくらい焦燥しているように見えた。ただでさえこいつは精神的に自分を追い詰めやすい奴なんだ、こんな風にズカズカ事実を突きつけられたら耐え切れなくなるんじゃないか……そう心配してしまう。
だがいつかはこうなる事が判っていたんだ。いつまでも誤魔化せるわけじゃない。いつかは全てが終わってしまうと……。罪は裁かれて当然なのだ。だが、しかし……。
「勿論、証拠があるわけじゃないッス。ただこの街で奇妙な事件が起こっているのも事実……。こっちの画像に見覚えは?」
見せられたのは動画だった。どうやらモノレールの監視カメラの映像のようだが、無人となった列車に俺が駆け込んで行くのが映し出されている。続いて鶫が乗り込み、映像は切り替わり――車内の物になった。
当然そこでは大量の一般人と戦っている俺の映像が写りこんでいた。まさかこんな映像が残っているとは思わなかった。こいつ……本気で俺たちを犯人じゃないかと疑っているのか。
「二人とも、モノレールが暴走した事件の時にも現場に居合わせたんスよね? この事件はシステム系統の異常で発生したもので、しかし搭乗者は“いなかった”はず……。走行中のモノレールからどうやって脱出を?」
「……さあな。飛び降りたんじゃねえのか?」
「としか考えられないッスよね。停止した車内を調査に行った時には無人だったんスから。で、例の連続自殺事件はこのモノレール暴走事件があった晩からパッタリと止んでいる……。渦中にあるはずの神埼エリスを生き残らせたまま」
新庄が鋭い目つきで俺たちを見てくる。これは――まずい。確信はないのだろう。だが俺たちが関係者だと完全に決め付けている目だ。いや、ここまで情報と証拠が出揃ってしまえばそう考えないほうが不自然だろう。この刑事、しかしそんな根も葉もない噂みたいなもんを信じてここまで漕ぎ着けたのか……。
「更に榛原陽子の自殺事件についても自分は調べてみたんスよ。そしたら当時、やっぱり君も現場にいたそうッスね? それも何故か、屋上のフェンスの向こう側に……。これは推測なんスけど、榛原陽子は自殺じゃなかったんじゃないスか?」
「え……?」
鶫の表情が驚きに染まって行く。刑事はユニフォンを閉じ、ポケットに仕舞いこんで通路の策に手を触れた。
「例えば……自殺しようとしていたのは本当は君の方で、榛原陽子は君を助けようとフェンスを乗り越えて――手を滑らせて落下してしまった、とか。違うッスか?」
「だとしたら、どうだっていうんですか……?」
「君を自殺間際まで追いやり、親友を事故死させた神崎エリスを恨んでいたとしても全く不自然な事は無い……。神崎エリスの取り巻きが君たちにしていた事を考えれば至極当然の事でしょう。“復讐したい”……人間なら当然の感情ですからね」
流石にこれ以上言わせるのは拙いと思い、俺は割って入ろうと一歩前に出た――その時だった。部屋の中から物音がした。三人同時にそちらの方向に視線を向ける。そこには呆然と立ち尽くす――エリスの姿があった。
何でエリスが部屋の中にいるんだ……それがまず最早理解不能だ。しかし兎に角、いや問題はそういうことではない。エリスがここにいるという事は――つまり――。
「あ、あれ? 神埼エリス、君……? どうしてここに……?」
新庄も訳が判らないのか、片手を頭に当てて小首を傾げていた。そりゃ俺もそういうリアクションを取りたいが――おい、状況はそれどころじゃないだろう。
「今、何の話してたの……? 響ちゃん、つぐみん……」
「エリス、いや、これは違うんだよ……!」
「何が違うの!? その人本物の刑事さんだよね!? 違うならどうしてこんな所に来るの!?」
「エリス、ちゃん……」
鶫は完全にもう言葉を失っていた。何も出来そうにはない。ふらふらと後退し、エリスから逃げるように視線を反らしてしまう。こいつ――俺とは目をあわせられるようになったのに。これじゃあだから、全部肯定しているようなもんじゃないか。
エリスは悲しげに表情を曇らせた。エリスがこんな顔をするのを俺は初めて見る。いつもにこにこ笑っていて明るさの化身のようなエリスが、今は完全に混乱と悲しみ、それを半分ずつ織り交ぜたような表情を浮かべていた。
「……響ちゃんも知ってたの? ううん、知ってたんだよね……。だからもう大丈夫とか、そう言ってたんだよね……」
「エリスッ!!」
呼び止める間も無くエリスは走り去ってしまった。追いかけようにもこのままこっちを放置するわけにも行かない。鶫は両手で頭を抱え、何か一人でぶつぶつとうわ言を繰り返していた。肩で大きく呼吸を繰り返し、今にも倒れてしまいそうだ。
「とりあえず今日は勘弁してくれ! あんたのお陰でこっちは滅茶苦茶だ!!」
「いや、でもそういうわけにも行かないんスよ。皆瀬鶫、君には君の“ご両親”の事についても話を聞かせてもらわなきゃならないんだ。このまま署まで同行願うよ」
「私は……っ!! 私はああああああああああああああっ!!!!」
鶫が頭を抱えて叫んだ。次の瞬間――なんだか訳が判らないまま俺も刑事もふっとばされていた。黒い光みたいな物が弾け、壁にたたきつけられる。
あまりの激痛に呼吸が停止する。吐き出しそうになった胃の中の物を必死で飲み込んでふらつく身体を起こした。刑事の奴は廊下に寝そべり、大の字になって気を失っている様子だった。
そして目の前には非常事態が起こっていた。鶫の周りには黒い光が渦巻いている。ユニフォンを手にしているわけでもないのに、鶫の背後にはいつの間にかアンビバレッジが召喚されていた。
「鶫ッ!!」
ユニフォンを抜き、叫び声を上げる。嵐のような風の中VSアプリケーションを起動する。何が起きているのかは判らなかったが、鶫のVSの様子は明らかに異常だった。
巨大な蜘蛛の背中に亀裂が走る。その間も鶫は叫び続けていた。悲鳴にも似た声と同時にアンビバレッジは縦に真っ二つに両断されてしまう。そして――その亀裂から細くしなやかな腕が伸びていた。
蜘蛛の背中から血飛沫が舞散る。奇妙な悲鳴の中、蜘蛛の背中から腕と――そして蒼い羽が現れた。それはまるで羽化――。嵐が止み、風の中心部にあったアンビバレッジの身体は分解され、再構築されて行く。
――“Evolution”!
どこからとも無く声が聞こえた。現れたVSは既に蜘蛛の形などしてはいなかった。二つの足に二つの手――。そこに立っていたのは人間。人間に限りなく近い形状をしたVSだった。
黒い長髪を揺らしながら額を覆い隠した巨大なバイザーごしに電子の瞳が輝く。機械の装甲を纏い、蝶のような羽を広げたアンビバレッジは最早蜘蛛ではなくなっていた。アンビバレッジの“進化”が終了した瞬間、鶫は力なくだらりと両腕をぶら下げて顔を上げた。その表情は――俺にも読み取れなかった。
「――ッ!! ジュブナイルッ!!!!」
稲妻が迸りジュブナイルが鏡より姿を現す。太い腕がアンビバレッジを拘束しようと伸びるが、アンビバレッジは片手でそれを払い除けた。
力が以前とは比べ物にならない。驚きながら後退していると、アンビバレッジの片手に光が収束する。光の羽から集まった輝きは一箇所に集約し、そして――“放たれた”。
それは光の矢。平たく言えば光線。ビームはジュブナイルの肩を貫通し、背後のエレベーターをブチ抜いて爆発させながら遥か彼方、空の向こうに消えて行く。
「……な……に……っ!?」
ジュブナイルの腕が焼ききられる。図太いビームで射抜かれた肩は殆ど首の皮一枚繋がっているような状態で、ぶらりとだらしがなく垂れていた。
同様に腕がちぎれるような激痛が俺にもフィードバックしてくる。その場に膝を着き、肩を押えている間に鶫はアンビバレッジに抱えられてしまう。
「つ……ぐみっ!! 待てッ!!!!」
鶫は何も言わずに一度だけ俺を見た。しかしそれは一瞥でしかない。一瞬俺を見やり、それからまるで何も見えなかったかのような素振りで鶫はアンビバレッジの広げた翼で空に飛んで行く。一瞬で凄まじい速度まで加速したアンビバレッジは蒼と緑の光の軌跡を残してどこかへ飛び去っていってしまった。
「くそっ!!」
エリスはどっか言っちまうし、鶫は……なんだ、あれは。VSが進化したとでも言うのか? ジュブナイルを引っ込める。廊下には刑事がぶっ倒れている。振り返るとライダーがエレベータ脇の隙間にすっぽり納まったままウトウトしていた。
「おい……! てめえ、起きろ!!」
「う?」
「少々拙い事になった……。お前強いんだろ!? 手を貸しやがれっ!!」
強引にライダーを立たせる。それと同時に部屋の中から寝ぼけた様子の舞が飛び出してきた。お前も寝てたんかいいいいい!!
「ちょ、これどういう事!? エレベータ、燃えてるわよ……」
やや遅れて通路全体にスプリンクラーのシャワーが降り注ぐ。全員同時にずぶ濡れになり、しかし俺はライダーの首根っ子を掴んで舞に合流する。
「……どういう事? 何があったのか説明して!」
言われなくてもそうするさ。しかしこれは……俺の甘さが招いた事態でもある。ライダーを立たせ、その肩を叩く。ライダーはきょとんとした様子で俺を見ていた。