Shadow(2)
――夢を、見ていた。随分と昔の夢……。気づけばまた、俺は色の無い世界の中で教会を前に立ち尽くしている。
何故か、ここ最近急に見るようになった夢……。俺たちが子供の頃預けられていた施設、“木漏れ日の家”……。両開きの扉の向こう、誰かが暗闇から俺を見ている。
誰が見ているのか……それを確かめるために俺は歩き出す。しかし気配は俺から逃げるように去って行く。教会の奥へと。追い掛けて扉を開く。光が差し込む教会の中、しかし無人の礼拝堂に一人立ち尽くした。
昔は散々出入りした場所だが、こうして改めて見ると薄気味悪さを覚える。人気の無い、まるで静止した時の中に取り残されてしまったかのような空間……。夢だとわかっていても、それは酷く不気味だった。
奥で物音が聞こえた。慌てて視線を向ける。向こうにあるのは奥へと続く扉……。その先は増築が行われていて、孤児院の子供たちが暮らしていた居住スペースへと続いている。
ドアノブに手をかける。扉は当然のように開いた。向こうには何があるのだろうか……。そっと踏み込む世界の果て。長く伸びた廊下の向こう、どこかへと続いている扉がある。
ゆっくりと俺は歩き出す。何をしているのか。ここはどこなのか。わからなくなる。思考が纏まらない。頭が痛くなる。頭痛が、眩暈が、頭が、脳が……。
呼吸をするのを忘れた。言葉を紡ぐのを忘れた。ただ何もかも忘れて失って行く。歩く度に。どんな思い出も。繰り返し繰り返し……失い続ける。何度でも。俺は。
扉の前に立つ。ドアノブにゆっくりと手を触れようとして――身体が震えてそれ以上前に進めなくなっていた。呼吸が乱れ――息の仕方を忘れてしまう。酸素を取り込もうとして必死に肩を上下させるのに、一向に視界は明るくならなかった。
悪夢だと自覚している。しかしそれを超えて直、心を蝕むこの恐怖……。恐怖――なの、だろうか。今まで感じた事もないような薄ら寒い感触。この向こうに誰かが居ると判っているのに……俺の手はそれ以上動かない。
引き返そう。進んだところで欲しい物は“手に入らなかった”じゃないか――。自分に言い聞かせる。“悪い夢はもうお終い”にしよう。そっとドアノブから手を離そうとした――その時だった。
突然両開きの扉が片方開き、僅かな隙間からやせ細った小さな手がぬっと伸びて俺の手首を掴んだ。それは子供の手……しかしそれとは思えぬほどの強い力で俺を掴んでいる。
扉の向こうに誰かが居て、俺を見ていた。引きずり込まれる――そんな悪寒に思わず悲鳴を上げる。入っちゃいけないのに。“駄目だって言われてたのに”――。それなのに、俺は、
「――――ッ!?」
逃れようとしてもがいていたら、気づけば現実の世界に戻っていた。天井を見上げたまま俺は身体を強張らせ、汗だくになって天井に手を伸ばしていた。身体を起こし、深く息をつく。まるで長い間覚醒していたかのように意識ははっきりとしていて、眠っていたのか起きていたのか、その境界線さえ曖昧だ。
「……ふう」
額に手を当てる。なんて嫌な夢だったんだ。なんだか良く判らないが……酷く嫌な物を見た気がする。夢の内容はもうはっきりしなくて、何故あんな夢を見たのかその理由さえもわからなかった。
昔の友人であるはずの志乃と再会を果たした事が一つのトリガーとして存在しているのかも知れない。兎に角、あの教会での日々の記憶はいつも不鮮明で、俺にはどうにも思い出す事が出来そうにもなかった。
勿論今までだって何度か思い返そうとしてみた。しかし、どうやっても過去を思い返す事が出来なかった。俺の記憶の起点は櫻井の家に貰われてからであり、それ以前の記憶は曖昧なままだ。
子供の頃の記憶などそんな物なのかもしれない。だが――俺にはどうしても思い出したい記憶があった。というよりは、“知りたい”……。
気づけば大嫌いだった兄貴。その存在の何もかもが気に入らなかった。けれど、“何かされた”ような覚えはなかった。俺が言うのも妙な話だが、ありゃ出来た兄貴だ。俺より余程優れた人間だと言える。本当ならきっと……俺だって文句なんかつけようがないんだ。
なのにどうしてなのだろう。“何か”が俺の中であいつを否定させる。あいつと一緒に居るのはおかしいのだと叫んでいるのだ。その全ての始まりは思い出せない記憶の中にある……そんな気がして。
「でも、思い出せないんだよな……」
正直、志乃の事もまだはっきりしない。名前を聞けば判るかも知れないなんて言ったが、それもどうだか怪しい。いや、きっと俺は思い出したいんだ。どうにかして、手繰り寄せたいんだ……。自分の中のルーツって奴を。
今日は疲れた。昼間は散々遊びまわって、夜には飯食って更に皆でカラオケ……。終わって家に帰って来た頃には日付が変わる直前で、俺はそのまま転がり込むようにしてベッドの上で眠ってしまった。
本当は直ぐ起きてシャワーを浴びるつもりだったんだが……かなり寝てしまったらしい。夜中の三時、起きるには早すぎるがまた眠るには微妙な時間だった。完全に目も覚めてしまったし、ついでにシャワーでも浴びようかと考えて部屋を出る。
リビングに向かうと、まだ灯りがついている事に気づく。弱められた照明の下、ソファに座ってぼんやりとしている鶫の姿があった。帰る場所がない彼女は、結局しばらくは普通にここにいることになっている。
舞のやつはちゃんと部屋で寝ているのだろう。“共同戦線”の事もあり、舞もうちに寝泊りする事になった。三人で暮らしても余りあるほどの広さを持つ部屋に住んでいた自分の特異さを改めて認識するが……今はそんな事はおいておく。
「……あれ? 櫻井君、目が覚めちゃったんですか?」
「ああ。それに、こんな格好で寝てたんじゃ気持ち悪くてな……」
遊びまわってそのまま寝たもんだから、色々大変な事になっとるがな。
「今日は熱帯夜だから」
確かに、ここ最近の暑さったらないな。もう夏休みも間近――七月が終わり、八月を迎えようとしているのだからそれも当然か。梅雨の気配も最近は形を潜め、太陽の日差しは強くなる一方だ。
今夜は空が晴れている。街の明かりで星は見えなかったが、月は輝き鮮明な美しさで夜空に浮かんでいる。それを見上げ、開かれた窓から差し込む風を受けて鶫は微笑んでいた。
窓辺に吊るされた風鈴が音を立てる。それは、今日皆で出かけた記念に購入してきた物だった。エアコンをつければいいだけの話だが、こういうのもそう悪くはない。涼しげな音を立てる風鈴に目を細め、胸元を扇ぐ。
「眠れないのか?」
「少し、考え事を……」
「考え事、か……。なんかお前、いつも考え事だな」
鶫の隣に腰を下ろし、そう呟く。彼女は複雑そうな表情を浮かべていた。冗談で笑えないくらいには思いつめていたらしい。
「俺も少し、考えたい事があるよ。もう随分と昔の事だけどさ」
「昔、ですか?」
「まだ孤児院に居た頃の話だ。俺、どうしてもその頃の事が思い出せないんだよな……。この話はしたっけか? 俺と兄貴の仲がすげー悪いって話」
首を横に振る鶫。そういえば、そうか。そうだな……。なんだか鶫とは殆ど自分たちの話はしてないんだったな。色々あって、こういう状況にはなってるけど。
俺はゆっくりと自分の事を話して聞かせた。何故そんな事をしたのかは判らない。もしかしたら寂しかったのかもしれない。或いは、投げかける言葉が見つからず、自分の事を話すしかなかったのかもしれない。どちらにせよ、苦し紛れの行動だった。
そんな俺の話を鶫は丁寧に聞いてくれた。何度も頷いて、何度も相槌を打って、何度も俺の目を見てくれた。ほんの数日前、怯えるような目をしていた鶫はそこにはいなかった。不思議な話だが、彼女はきちんと俺と向き合っていたように思う。
「理由も無く嫌い……か。そんな事もあるのかもしれないですけど」
「人間、自我がある以上全ての存在とは分かり合えないさ。どうにも折り合いがつけられない奴ってのはいる……。でも、理由があるんじゃないかって思うんだよな。いや、あって欲しいのかもしれない」
「お兄さんを、本当は嫌いたくない?」
「……かも、な。ただ、結局もう十年近くわだかまったままで、何一つ解決してないんだ。まあ、実際それで困ってないし、ぶっちゃけ別にもういいんだけどな」
肩を竦めて笑いかけると鶫も微笑を返してくれた。しかし、何でこんな話をしてんだかな。誰かに話したところでしょうがないんだが。
「さて! 明日は休みだし、のんびりするか……。シャワー浴びて寝なおすとするわ。お前はどうするんだ?」
「あ……じゃあ、背中でも流しましょうか?」
真顔でそんな事を言われても困るわけだが。やんわりとお断りし、俺は鶫に背を向けた。
「一人で考えているよりも、誰かに話したほうが少しはすっきりするかもな」
「……そう、みたいですね」
俺の顔を見てそう笑う鶫。少し余計な話をしてしまったかもしれない。俺は廊下へと向かい、歩きながら居なくなった兄貴の事を考えていた。
Shadow(2)
夕暮れの路地を鳴海は走っていた。広い通りに車を停め――無論違法駐車――態々狭苦しい路地へとやって来たのには勿論理由がある。
その場所は以前新庄と二人で調査に訪れた“ジャスティス”の溜まり場の一つ――。闇へと続く道を前に鳴海は足を止め、眉を潜めていた。
今日は新庄とは別行動を取り、それぞれ別の方向から事件について探っていた。しかしその結果、このような状況に陥ってしまっている。
別行動中の新庄から電話がかかってきたのは鳴海が相良の事務所を出てから凡そ一時間後の事だった。その内容に流石の鳴海も目を丸くしたが、冗談とも思えずここまで駆けつけた次第である。
日が落ちかけ、闇は色濃くなり始めている。光の届かない闇の中へと鳴海は歩み始めた。靴音の響き渡る先、開けた路地へと足を踏み入れる鳴海の視界、そこにはロープで縛られた新庄の姿があった。
「な、鳴海さん……っ!」
「新庄君っ! もう、何やってるのよアンタは!」
鳴海の姿を確認するや否や新庄は涙目になってしまった。そう、ここまで鳴海が駆けつけた理由は正に目の前にある。彼女と行動を共にしていたはずの新庄――彼が単独で行動を開始した途端、突然何者かに襲われてここまで拉致されてしまったのである。
勿論、ある程度危険な捜査を行っているという認識は鳴海にもあった。しかし突然ここまで直接的な攻撃を受ける事は予想していなかった。縛られた新庄に駆け寄り、縄を解こうと手を伸ばす。
「鳴海さん、来てくれたんですねえ〜……っ! うぅ、すいません……自分がドジなばっかりに……」
「泣いてないでじっとしてなさい! 縄を解くわ!」
「は、はい! それより鳴海さん、自分を捕まえた男がまだ近くにいるはずッス……! 気をつけて下さいッス」
当然それは鳴海も気づいている。しかし鳴海がここまでやってきたというのに、新庄のほかに人気は感じられなかった。ここまで鳴海を呼び出したのは新庄のユニフォンからであり、新庄の声で鳴海は呼び出しを受けた。新庄を襲った犯人が新庄に鳴海を呼ぶようにと指示をしたのである。結果鳴海は新庄を人質に取られ、ここに訳もわからぬままに呼び出され、それに応じたのだ。
当たり前の事だが、呼び出すからには何らかの用事があると考えるべきだろう。そうでなければ意味がない。鳴海は当然、犯人がここで待ち構えている物だと考えていた。しかし袋小路にあったのは縛られた新庄の姿だけ――。
縄を解き、新庄が立ち上がる。二人で周囲を見渡すが、犯人の姿は見当たらない。縄で縛られていた手に残った跡をさすりながら新庄は眉を潜める。
「お、おかしいッスね……。ついさっきまでここに居たはずなんスけど……」
不安げに呟く新庄。鳴海は自らのユニフォンを取り出し、その画面を見詰める。当然それは鳴海個人が所持している物ではなく、今回の捜査に当たり支給された備品である。
画面には新庄からの着信履歴だけが存在している。それもその筈、このユニフォンの番号を知っているのは今のところ警察関係者くらいの物だ。だが、鳴海は当たり前のようにその画面を見詰めていた。しばらくするとユニフォンに着信があった。直ぐに電話に出ると、受話器の向こうからは微かな笑い声が聞こえてくる。
『驚いたな。電話がかかってくるのが判ってたみたいだ』
「まあ、何となくね。それで? アタシをここまで呼びつけたんだから、言いたい事があるんでしょう? “犯人”さん」
ユニフォンを耳に当てながら空を見上げる鳴海。ビルとビルの間に生まれた闇に差し込む淡い夕焼け……。直に世界は闇に支配されるだろう。目を細め、周囲へと警戒の神経を張る。
『話が早くて助かるよ。あんたももう気づいてるんだろ? こっちの要求は一つだけだ。これ以上、ムーンドロップに関わらないでほしいっていう、ただそれだけのお願いだ』
当然の事である。しかし鳴海は同時に様々な疑問に答えが生まれたような気もしていた。電話越しの声は若く、男というよりは少年という表現の方が適切である。鳴海は目を瞑り、それからゆっくりと言葉を紡ぐ。
「――お断りするわ。ムーンドロップの全てを調べ上げるし、それに関連する悪事も陰謀もアタシは全部ぶち壊す。新庄君も無事に連れ帰るし、アンタも確実に捕まえるわ」
『……これ以上無いくらいの宣戦布告だな。こっちもね、一応警告って事でそっちの若い刑事さん共々、これ以上調査を継続しないと約束してもらえるなら無事に帰してあげるつもりなんだけど』
「別に無事に帰してくれなんて頼む必要はないわ。“こちらから”。“自分の意思で”。“この両足で帰る”もの」
ぴしゃりと言い放つ鳴海。その背後で新庄が青ざめた表情を浮かべていた。相手側の声は聞こえていなかったが、鳴海がどんな会話をしているのかは容易に想像出来てしまう。
『そうかい。ちなみに、そこから逃げる道は一本だけだっていう事は理解してるかい? そこを、俺たちが張ってないとでも?』
「何度も言わせないで頂戴。だから子供は嫌なのよ――。“問答無用で押し通る”わ。お願いをするのはそっちの方よ。お約束どおり、自首するのならば今のうち――なんてセリフはどうかしら」
『口の減らない刑事さんだ。仕方ない、“あんたは殺すな”って命令だけど――生きてさえいれば命令違反にはならないだろ。残念だけど、あんたたちの調査はここでお終いだ』
その声と同時に頭上より人が落下してくるのが見えた。鳴海の視線の先で。ビルから飛び降りて。夕焼けの中、一人の少年が二人の眼前に舞い降りてくる。ゆっくりと、大地に足を着き。ユニフォンを二人へと向ける。
風が吹きぬけた。鳴海はその理解不能の情景に眉を潜める。完全に呆気に取られていたとも言えるだろう。新庄は理解が出来ないのか、頭を抱えて口をあんぐりと開けていた。今にも気を失ってしまいそうな状態である。
「それじゃ、残念だけど――これでお終い。忠告はしたんだ、恨まないでよね」
次の瞬間、鳴海は新庄を突き飛ばしていた。それと同時に自らも振り返り、背後に飛ぶ。直後、二人が居た辺りで何かが蠢いた。それは凄まじい力で動き、大気を振るわせる。
「「 え!? 」」
それは新庄と――それから襲撃者と、二人の声が重なった音だった。倒れこんだ新庄は何が起きたのか理解できずに目を丸くする。襲撃者も全く同様の感情に支配されていた。“何故”――?
振り返った鳴海が襲撃者へと目を向ける。それは鋭い視線だった。鳴海は目を凝らす。うすぼんやりと、何かが見えた。何かが――そこにいる。
「よけ、た……? いや――」
襲撃者の少年は自分の中の疑念を消し潰そうとするかのように正面を見据えた。少年の片手の中、そこにはVSアプリケーションを起動させたユニフォンがディスプレイを輝かせている。
少年の正面には灰色の奇妙な形状をした人型のロボットの姿があった。それはVSと呼ばれる存在であり、当然一般人には目視どころか気配を感じることさえも不可能である。それは現実に存在するわけではなく、人々の幻想の中に存在する――。
胡坐をかいたまま空中に浮遊し、奇妙に長い腕を胸の前で合わせたVS――“マイノリティ”は確かに鳴海目掛けて腕を振り下ろしたはずだった。マイノリティの攻撃力は決して高くはない。しかし一般人に命中すれば――それが不意打ちならば尚更、大ダメージは必至である。
それを何故か鳴海はまるで攻撃の予備動作から全て見えていたかのようにほぼ完璧なタイミングで攻撃を回避してみせた。しかし、鳴海の視線はマイノリティではなく、その奥に立つ襲撃者へと向けられている。
“見えていない”――。それが少年の解釈であった。焦点は確実にマイノリティを貫通し自分へと向けられているのだ。見えていない。見えているはずがない。
攻撃を再開する。腕を振り上げたマイノリティが鳴海目掛けて襲い掛かる。しかし次の瞬間、鳴海は右方向へと跳躍していた。空しく攻撃は空振り、次の瞬間には鳴海はマイノリティの存在を認識していた。
「何っ!? ど、どうして避けられるんだ……!? お前――見えているのかっ!?」
「――その口ぶりだと本当に何かがいるみたいね、“そこ”……。見えないけど――でも、何となく判るわ」
最早新庄には何がなんだかわからない状態が続く。鳴海は冷や汗を流しながらも冷静な表情で虚空を眺める。彼女の視線を代弁するならば、当然彼女にはVSの姿は見えていなかった。
何故ならば彼女はユニフォンを持たず。持っているユニフォンにも当然VSアプリケーションはインストールなどされてはいない。だがしかし、感じる事が出来る。五感のどれにも当てはまる事の無い感覚――。“第六感覚”とも呼べる物が鳴海に告げていた。危険の存在、そしてその対処法を――。
「新庄君は下がってなさい。彼は――アタシが一人でなんとかするわ」
「は、はいッス……?」
新庄はもうバカの一つ覚えの如くただ只管に頷く事しか出来なかった。マイノリティが両手を広げ、鳴海を一つの瞳で見詰める。
「馬鹿な……! なんで一般人にVSが見える……!?」
「だから、別に見えてないわよ。でも目で見えなくても避けられるものは避けられるわ」
「まぐれに決まってる!! マイノリティッ!!」
主の叫びに応え、マイノリティが動き出す。両腕を交互に繰り出し、二回連続のパンチ――。鳴海はそれを左右に軽くステップを刻み回避する。
次の瞬間、恐るべき事態が発生していた。回避のステップからそのまま身体を反転させ、捻るようにして鳴海は反撃に蹴りを繰り出したのである。腰のスナップを利かせた鋭い一撃が繰り出され、しかしそれは空を切るだけで終わるはずであった。
VSには生身で接触する事は出来ない。同じVSでのみ接触が可能なのである。VSは触れる対象と触れない対象を取捨選択する事が出来る。自らの意思でVSが触れようとしない限り、VSは物理的に存在しない幻影なのである。
その、幻影に触れた足が確かな手ごたえを鳴海に伝えていた。衝撃と共に轟音が響く。マイノリティの脇腹に命中した蹴りは常識外れの威力を以って巨体を吹き飛ばしたのである。
「な――にぃいいいいいいいいいッ!?」
少年は完全に動転していた。何が起きているのかさっぱり理解出来ない。何故? 何故? 何故? 何故? 何故何故何故何故何故!?
頭の中で繰り返す疑問。正面に立つ女はただの女のはずだ。警察とは言え、だからどうしたというのか。そんなものは恐れるに足らない。彼らは常にそうしてやってきたのだ。
なのに今は目の前の存在が恐ろしくて仕方がなかった。こんな話は聞いていない。見えもしないVSを感じ取り、触れることの出来ないはずの幻影を蹴り飛ばした――。規格外にも程がある、完全なるイレギュラー。
「にしても、何もないところを蹴るっていうのは変な感覚ね……。やっぱり目に見える物を蹴ったほうが気持ちがいいもの。そうでしょう?」
少年を睨みつけながら鳴海はそう語る。最早手加減などしている余裕はなかった。生身だからと侮る事もしてはならない。なんだかわからないが、この女――“余りにも危険すぎる”――。
マイノリティの雰囲気が変わる。恐ろしい圧力を持った風が吹き荒れ、鳴海はその気迫に背筋が凍りついた。目には見えないからこそはっきりと感じ取れる。何か恐ろしい、自分ではどうしようもないような事が起ころうとしている、と――。
少年がマイノリティに必殺の指示を下そうとした瞬間であった。次の刹那、鳴海の目の前には再び人影が舞い降りていた。マイノリティが繰り出した拳を弾き飛ばし、少年は顔を上げる。
その手に握り締められていたのは銀色の槍であった。くるりとそれを片手で回転させ、両手に持ち変えて構える。目の前に再び現れた見ず知らずの少年に鳴海は思わず目を丸くしたが――どうやら今度は敵ではないらしい。
「お前は……!? 邪魔をするつもりか、ジョー!」
ジョー……そう呼ばれた少年は銀色の髪の合間から覗き込む鋭い視線で敵を牽制する。木戸 丞は素早く槍を振るう。その長い間合いから逃れるようにマイノリティは後退し、その主は舌打ちを遺して闇の中を逃げ去って行った。
鳴海にそれを追い掛ける気力は残っていなかった。とりあえず今は新庄を救い出す事が出来ただけでも御の字である。気づかぬ間に停止していた呼吸を再開し、深く息を吸い込んだ。
「……ありがとう、助かったわ。えーと……ジョー?」
手にしていた槍を下げ、丞は振り返った。槍の幻影を纏っていたユニフォンが元の姿へと変化し、丞のポケットの中に姿を隠す。振り返った丞は鳴海を見詰め、それから真っ先に問い掛けた。
「……何者だ、あんたは――?」
夕焼けが完全に闇に沈む中、丞は堪え切れなかった質問を投げかける。丞はビルの上から鳴海の様子を確かに見ていた。或いは、助けに入る必要など無かったかもしれない……そう考える。何故なら鳴海は――。
「櫻井鳴海……ただのしがない正義のお姉さんよ」