ブレイドダンサー(3)
櫻井 奏は“何時も何かを探していた”――三代 舞はそう考える。
彼が何かを探しているのだと初めて感じたのは彼と出会ってから数年後の事。ふと、空を見上げてはぼんやりとここではないどこかに思いを馳せる奏の姿を目撃し、その理由を自分なりに考えたのが切欠だった。
奏は何を見ているのだろう? 興味は尽きなかった。その疑問を払拭する為に舞はある日突然彼に問いかけた。それは響の物語が始まりを告げるよりも少しだけ前、まだ四月上旬の頃――。
「――奏は、何を探しているの?」
暖かな春風が吹き抜けて行く。二人はとある平日の昼下がり、大学から続く道を歩いていた。街の全てが人工物で覆われているようなメガフロートの道の中、二人が歩くその場所は桜並木が美しく花を開かせている。
奏――櫻井の一族に引き取られた響の実の兄。彼と舞が男女の関係になったのは一年前の事。丁度、この桜並木で二人は付き合う事を決めた。それは舞の願いが叶った瞬間であり――世界がようやく動き出すような、そんな予感を確かに感じさせた。
だがしかし、現実はそう上手くは行かなかった。舞と付き合う事になったというのに、奏は彼女と時間を同じくする事が少なかった。ふらりと消えてはふらりと現れる……そんな彼の性格が変わる事はなかったのだ。
木漏れ日の下、奏は足を止めて振り返った。舞へと視線を向け、穏やかに微笑む。その笑顔に心奪われ――何度も言いくるめられて来た。今日こそは引き下がらない。真実を確かめるまでは……。舞は一歩身を乗り出し、奏の瞳を覗き込む。
「何か、探しているんでしょ? あたし知ってるんだから。奏が――胡散臭い探偵の事務所に出入りしてる事くらい」
「なんだ、知っていたのか? 失念していたな……。尾行にくらい気づけないようじゃ、探偵の弟子は名乗れないな」
そう笑いながら肩を竦める奏。なんだかはぐらかされてしまう気がしたが、彼は素直に応えてくれた。“探偵の弟子”――だがそんな話は初耳だ。
奏がその探偵と付き合い始めたのは半年ほど前。それから今日まで彼は暇さえあれば事務所に出入りを重ねていた。自分が遊びに誘っても奏は事務所へと向かってしまう。やんわりと言いくるめられてしまっていたが、勿論納得が行っていたわけではない。
そもそも、奏に対して舞は不満しかなかった。心の底から惚れた男なのだから、その人格に文句などあるはずもない……しかし、それだけでは物足りない、満足できないのが恋人の関係という物。
付き合い始めて一年。未だに奏は舞を妹のように扱っていた。少なくとも舞はそう感じている。未だにキスどころか手を繋いだ事さえないのだ。健全な男女の付き合いとしてはむしろどうかしているとしか思えなかった。
「探し物があるから、探偵の弟子なんかになりたいんでしょ? 奏が探してる物ってなんなの? それってあたしには言えない物?」
一気にまくし立て、詰め寄る舞。瞳を丸くして奏は舞を見下ろす。柔らかく微笑み、それからその肩に手を乗せて。
「僕を信じられないかい?」
「……それは……」
「まあ、それも仕方がないね。僕は……あまり真っ当な人間ではないのだろうから」
寂しげに微笑み、それから視線を桜の木へと向ける。そうして微風を受けて奏は目を細めていた。舞は――“ああ、またか”と考える。
この、どうにも寂しげな目をしてどこかを見つめる彼の姿が嫌だった。子供の頃から嫌だった。それは自分を見ていないという事。そして何よりも――彼が孤独を感じている事の証明。
少しだけ、後悔した。訊かなければ良かったのかもしれない。実際、彼は自分に対してとても優しい。大切に、それこそ壊れ物を扱うように触れてくれる。それが不満でもあり、嬉しくもある。
しかし何よりも恐ろしいのはこの暖かい関係さえ壊れてしまう事。それを思えばこそ今まで長い間その疑問を口にする事を憚ってきたのだ。そっと顔色を伺う。奏はもう、普段の彼に戻っていた。
「言いたくないのは、君を巻き込みたくないから。言わなくてもいいのは、君には関係がないから。言いたい事は……僕を信じて欲しいって事」
「…………信じてるよ。信じてるけど……。でも、あたしだって奏の力になりたいよ……」
小さな声で搾り出す本音。泣き出しそうな気持ちの中、舞は目を瞑った。奏はどんな表情を浮かべていたのか――それは判らない。
ただ、彼は暖かな手で舞の頭を撫でた。それ以上は訊く事は出来なかった。彼が何を探していたのか――それは今になってもはっきりしない。
少しだけ、後悔した。訊いておけば良かったのかもしれない。そうすれば少なくとも――彼がいなくなってしまった今、彼の願いを追う事が出来たかもしれないのに――。
徐々に意識が覚醒して行く。そうして彼女はそれが夢の中の光景だったのだと自覚した。夢ならばせめて、もっといい夢を見せてくれればいいのに――心の中でそう考える。
瞼が重い。身体が痛む……しかしそれはまだ生きている証拠でもある。ゆっくりと息を吐く。そうして身体に負担を与えないよう――ゆっくりと瞼を開いた。
見覚えのない天井がまず視界に飛び込んでくる。次に薄暗い部屋だという情報――その次にそれが狭いと言う認識。体調は万全とは言えない。まだ脇腹が激しく痛む。
「……あたし……どうして……?」
“ライダー”に剣で切りつけられた傷口は包帯が巻かれ、適切な処置が施されているように見えた。実際痛みも若干和らいでいる。起き上がるには気力が足りず、脇腹を庇いながらゆっくりと再びベッドの上に寝転がる。
深く息をつく。何だか酷く疲れた――。カーテンの向こうからは日が差し込んでいる。恐らくは既に昼間……。状況をもう一度頭の中で認識する。その時だった。
部屋の扉が開く音が響き、何者かが姿を現した。鉄製の重い扉が閉まる音が大きく響く。反響する足跡……慌てて身体を起こし、舞は扉の方に身構えた。
姿を現したのは一人の少年だった。長めの銀髪……前髪の所為で表情はよく読み取る事が出来なかった。黒いタンクトップのシャツから延びる長い腕はかなり引き締まっており、痩躯ではあったが何らかのスポーツをやっているかのように見えた。
片手にぶら下げたビニール袋を鳴らしながら舞へと接近してくる。咄嗟にユニフォンへと手を伸ばそうとしたが、それは舞の傍のどこにもなかった。少年は自らのズボンのポケットに手を突っ込み、そこから舞のベルサスを取り出して見せる。
「探し物はこれか……?」
「……ユニフォンを奪う……って事は、あんたも……」
「ああ。俺もあんたと同じ……“所有者”だ」
そう告げ、しかし次の瞬間オレンジのベルサスを舞いへと投げ返す。あっさりと帰ってきたユニフォンに舞が目を丸くしていると、少年はどっかりと床の上に腰を落とした。
「……散らかってて悪いな。あんまり部屋には戻らないから」
「――? あんた……何? あんたが、その、あたしを助けてくれたんでしょ?」
少年は特に肯定も否定もしなかった。ビニール袋から取り出したペットボトルの蓋を開き、中身を一気に半分近く飲み干し、それから額の汗を拭う。
「あんた……このゲームの趣旨理解してるの? あたしに何か要求するとかしないと、助ける意味がないわよ?」
沈黙に耐え切れず自らそんな事を口にする舞。そう、この戦いはたった一人だけの勝者を決定する物――。弱っている参加者を助ける理由など、なんらか生かしておく事によるメリットがあるから以外に考えられない。
しかし先ほどから少年は黙り込んだまま、一人でぼんやり休んでいる。沈黙と退屈は舞にとっては最大の敵であり――当然、黙っていられるはずもなかった。不安な状況という事がさらに彼女の口に拍車をかける。
「まさかあんたが“ライダー”の中身?」
「……木戸 丞、俺の名前だ。あんたは……?」
「……唐突ね。三代 舞よ。えーと……ジョー? 日本人?」
銀髪も相まってどうも日本人には見えなかった。しかし丞にしてみれば今まで何度も言われてきた事なので特に反応はしなかった。
「三代 舞、か……。あんた――奏の知り合いか」
予想外の名前が飛び出し、舞は思わず身を乗り出した。しかし丞は舞の肩を掴み、そのままベッドに押し返す。
「奏の知り合いなの!? 奏は今どこにいるのよっ!!」
「それを知りたいのはこっちも同じだ。ただ……あんたが奏の知り合いだから助けた。それで理由は十分だろ」
訊きたい事は山ほどあった。しかし舞は小さくため息を漏らしてベッドの上に身体を投げ出す。奏の知り合い――それならば確かに信頼出来る。それほどまでに舞は奏に対して絶対の気持ちを置いていた。
改めて丞に視線を向けてみる。背格好は――響に似ている。体格を見るにやっている事も似たような物だろう。奏と一体どのような接点があるのか全く理解出来なかったが……少なくとも命の恩人には違いない。
「……お礼を言うのが遅れてたわね。助かったわ、ジョー。ありがとう」
それに対して丞は無言で立ち上がる。それから背を向け視線だけで舞へと振り返り、
「気分が落ち着いたら出ていってくれ。俺には他にもやる事がある」
「……それはいいけど……お礼くらいさせてよ。借りを作ったままは気持ち悪いわ」
その言葉に丞は足を止め、自らのユニフォンを取り出してみせる。そうして舞の目の前まで移動し、そのディスプレイを開いて見せた。
舞がじっとそのディスプレイを見つめる。するとそこには舞が今までに対戦してきたVSの情報、更には自分の能力、ディアブロスの性能などがはっきりと記されていた。そうしてようやく理解する。
「あんた……真ウェブ使ってあたしのユニフォンから情報引っ張り出したわね……?」
「――貸し借り無し、だろう? じゃあな」
口元に微笑を浮かべ丞は去っていく。その姿を見送り、重苦しい鉄の扉が音を立て、舞は額に手を当ててため息を漏らした。
ブレイドダンサー(3)
「うーんっ! もう亡霊に襲われなくて済むと思うと、放課後も清々しいなーっ!!」
そんな神崎の叫びに俺たちは苦笑を浮かべた。学校も無事に終了し、放課後――。こう、無事に放課後を迎えて安心して帰れるのってなんだか久しぶりな気がするなあ。最近は色々忙しかったし。
俺たち――つまり俺、氷室、神崎、藤原、それから鶫の五人は一緒に校門を潜り、下校を開始していた。先頭を切るのは神崎で、両手を広げてのびのびした様子である。
しかし神崎の叫びはちょっとこう、鶫としては来るものがあるんじゃないだろうか――そう心配したが、思いのほか鶫はエリスの言葉を気にしている様子はなかった。氷室と藤原が神崎に同意し、俺の肩を叩く。
「しっかしホンマ、響もエクソシストの一員やなこれで!」
「俺が退治したとは一言も言ってねえだろ」
「ううん! きっと響ちゃんだよ! 響ちゃんがエリスを助けてくれたんだよ! それが一番いい!!」
いいとか悪いとかそういう問題じゃないと思うんだが……。
エリスは相変わらずの様子で、いよいよアンビバレッジの恐怖から開放された事もあり嬉しそうな顔をしていた。最近ローテンションだった所為もあるのだろう、反動なのか、今日はとにかくハイテンションだった。
亡霊はもういなくなったと俺が神崎に告げたのが今朝の事。神崎はそれを鵜呑みにしてはしゃぎまくっている。それはそれでどうなのかと思うが、まあそれだけ信頼されているというのは悪い気分じゃない。
ふと、鶫に視線を向ける。正直神崎と一緒にするのはどうかと思ったが、思いの他馴染んでいる様子だった。まあ、実際に彼女たちを苦しめていたのは神崎ではなく神崎の名を利用した取り巻きだったわけで。しかもそいつらはなんというか……もう全滅しているわけで。
鶫はその罪を背負って生きていかなければならない。だが、それとこれとは別だ。少なくとも神崎は悪いやつではないのだ。むしろこの様子なら、鶫とも上手くやっていけるかもしれない。
「明日は休みだし、せっかくだから皆でどっかいこーよ!! エリスん家の別荘とかでもいいよ?」
「こらこら、お前はそんなんだから周りの人間に利用されんの。神埼はもう少しさあ、こう……セコくなれよ」
「……ぶー。響ちんのいじわる」
「意地悪じゃない。お前の為を思ってだなあ……」
「何でつぐみんは鶫って呼ぶのに、エリスは神崎なのーっ! 不公平だよーっ!!」
って、そっちで怒ってたのか。俺の話聞いてたんだろうか……ふ、不安だ。まあ、こいつの性格はそう簡単には直らんだろうし、俺たちがしっかりしてりゃあいいだけの話か……。
「ていうか皆もエリスって呼んでよ。神崎って苗字あんまり好きくないし。なんかダサくない?」
「そうか? 藤原の方がダサいと思うぞ、俺」
「ちょーっと待ったあ!! 藤原のどこがダッサいねん!? めっちゃかっこええがなっ!!」
「ふむ。俺が思うに、響は藤原と言う文字がダサいのではなく、お前の存在がダサいと言っているのではないかと思うのだが」
まあそれはともかく、かんざ……エリスとしては今後は自分の事は名前で呼んで欲しいらしい。藤原と氷室もそれを了解した。ただ一人了解しなかったのは――俺たちから少しだけ離れて歩いている鶫だった。
正直まだ彼女は元気になったわけではない。自分の中の心の闇と今も折り合いをつけようと戦っているのだろう。元々社交的ではなかっただけあって、この元気すぎるノリについてこられない様子だった。
一人俯いている鶫を見てエリスが前に出る。彼女の目の前に立ち、それから下から顔を覗き込んだ。
「つぐみん、聞いてる〜? シカトですかあ〜?」
「あ、うん……。聞いてるよ」
やっぱりエリスと話すのは気まずそうだ。実際彼女たちの間に在る壁みたいなものはそう簡単には崩せないだろう。エリスは鶫に殺されかけたし、鶫はエリスに親友を殺されたも同然なのだ。だがしかしその両方が間違いであり、正義も悪もなかった。単純に二人は少しだけすれ違い、ただそれだけの事で……だから、出来れば二人には仲良くなってもらいたかった。
当然それが直ぐに上手くいくなんて考えちゃいない。だけどエリスはあんな性格だし、人懐っこくて誰にでも笑顔を見せる。今朝あんなことがあった時はすごい顔をしていたが、今はもうケロっと忘れてしまったらしい。なんとも便利なお脳である。
「まぁ? 呼びたくないなら、無理にとは言わないけど」
「……そ、そういうわけじゃないけど……」
鶫は煮え切らない態度だった。エリスはそんな鶫を構うのに飽きてしまったのか、俺たちに振り返って声を上げた。
「それじゃあ、明日は五人で遊びに行きます! エリスが今きーめーまーしーたーっ!」
「なんや、強制やな〜。ま、どうせ暇やしええけど」
「俺も右に同じだ。響はどうだ?」
「ああ〜……まあ、俺もやる事は一段落ついたしな。ま、行ってやるか」
どこに行くのにかもよるが、まあたまには付き合ってやるのも悪くない。今のエリスだったらこの間よりは楽しめそうだし。
なんだかこうしてこのメンバーで一緒にいるなんて事は今まで想像もした事がなかったのに、こうあっさりと一緒にいることになるのだから不思議なものだ。エリスも鶫も、この事件が無ければ絶対に付き合いなんかなかったろう。
だからこそ、鶫には少しでも俺たちと一緒にいて欲しかった。一人じゃ考える事はきっと後ろ向きになる。だが、誰かと一緒にいれば少しでも気はまぎれるだろう。
勿論一人でいる事だって大事だ。でも今の鶫は自分を責めすぎて思いつめてしまっている。こういう時はエリスみたいな“風”があったほうがいい。
「つぐみんも行くよね?」
エリスが問いかける。俺は鶫が頷いてくれる事を祈っていた。だが――。
「――ごめんなさい。私は……一緒には行けないよ」
当然、彼女は断った。遊んでいるような気分ではないのだろう。俺もそれは仕方ないと思った。だが――。
「参加は強制です! つぐみんも一緒に来る事っ!! どうせ響ちゃんに部屋借りてるんだし、いいでしょ?」
そう、今朝の事はそういうことになっている。鶫は色々事情があって今は家がないので俺が部屋を貸していると……。まあ、家はアレだし嘘はついてない。
視線を鶫に向ける。彼女は助けを求めるように俺を見つめていた。しかしあえて俺は助け舟を出さない事にした。肩を竦め、諦めるように促す。
「エリス、友達が皆居なくなっちゃったから。だからつぐみんも、藤原も、氷室も――響ちゃんも。大事な大事な、友達なんだよ。一緒にいたいのは当たり前でしょ? 鶫だって、エリスたちと一緒に居たいでしょ?」
「……友達……? 私、が……?」
「え? 違うの?」
「え、っと……。でも、私……」
「とにかく一緒にいくの! いーくーのー!!」
「う、うん……わ、わかった」
その場で両手両足を振り回して地団駄踏むエリス。そのあまりにも子供じみた様子に流石の鶫も折れたらしい。こうして無事に五人で出かけることが決定した。
集合時間と集合場所だけ決定し、俺たちは日が暮れ始めた帰り道をそれぞれ別れた。俺は鶫と肩を並べ――久しぶりに穏やかな放課後を楽しんでいた。
アンビバレッジ事件の所為でこの一週間はものすごく忙しかったように思える。思い返すと短い間に色々な事があった。
VSの事も、自分の戦う意味も……正直な話まだ判らない。ハッキリしたものなんて何も無いんだ。でも、少なくともこれから決めていく事は出来る。知っていく事が出来る。道が続いている――それだけでも俺は前へと進める。
ふと、鶫へと視線を向ける。そうして――思わず黙り込んでしまった。鶫は声も上げず、一人で夕焼けの中泣きながら歩いていた。その表情はとても冷たく、感情の色はなかった。
足を止める。彼女も数歩歩いて振り返った。そうして――意外な事に彼女は微笑んでいた。困ったような、でも嬉しそうな笑顔で。それは彼女が生きる為に仕方が無く浮かべていた作り笑いとは違う。もっと綺麗で……純粋な笑顔だった。
「……神崎さん……ううん、エリスちゃん……私の事、友達だって」
「そうだな」
「あんなことしたのに……友達だって……」
「……ああ」
「何も知らないから、笑ってくれるんだよね……。私がその、彼女の友達を奪ったんだって知ったら……きっと彼女は私を憎むのに……なのに」
涙を拭い、そうして彼女は俺に微笑みかけていた。夕焼けの中、雫が光を吸い込んで紅く輝く。
「私、嬉しかった……。すごく、嬉しかった……。そんな資格ないんだって、もう駄目なんだって判ってるのに……嬉しくて……っ」
彼女の肩を叩き、俺は首を横に振る。資格なんて誰もが持っていないんだ。皆上っ面だけで、本当は相手の事をどう思っているのかなんてわからない。ウザいとかムカつくとか、キモいとか……笑顔で話している相手がそう考えていたってわからないんだ。
俺たちの人間関係は知らないからこそ成り立っている部分がある。相手の気持ちを知ってしまえば、社会だって簡単に崩壊するだろう。だから人は痛みから目をそらしている。暗闇に背を向けている。でも、鶫はそれが出来ない。もう見つめる事しか、立ち向かう事しか出来ないんだ。
それはとても辛い事だ。とても大きな勇気と、全身を切り刻まれるような痛み、その両方を胸に前に進まねばならない。彼女はもう戻れない。それが判っているからこそ――。
「駄目なんて事はないさ。エリスだっていつか判ってくれる。あいつは……いい奴だよ」
実際、俺だってエリスの事を誤解していた。言葉を交わして、時を紡いで……ぜんぜん知らなかった事、一つずつ知って。そうしていく内に、気づけば許しあえるのかもしれない。
そんな楽観的な考えを彼女に語る事は出来なかった。でも、それもまた一つの関係性なのだと思う。鶫の頭を撫で、背中を軽く叩く。
「エリスから奪った分だけ、お前が与えてやればいい。エリスに奪われた分だけ……お前もエリスに救われていいんだ」
鶫は肩を震わせ、目を瞑って泣いていた。少しだけ彼女の気持ちが落ち着くのを待って、俺たちはまた歩き始めた。
とりあえずは休み休み。おっかなびっくり。それでも別にいいだろう。とりあえず進む事は出来る。そうしていけばいつかは――何かが変わると信じているから。