対決(3)
「つーぐみっ!!」
「……陽子ちゃん」
今でもはっきりと思い出せる。公園のブランコに揺られ、一人で途方に暮れていた時の事。まだ幼かった日々。陽子は鶫の背後から飛びつき、ぎゅっとその小さな身体を抱きしめていた。
「一人でどうしたの? また、何か嫌な事でもあったの?」
心配げに顔を覗きこんでくる陽子。その問い掛けに答える事は出来なかった。正解すぎて何も言い返せなかったのだ。けれどそれを認めてしまうのもはばかられた。
嫌な事……そんなものは無い日のほうが少ないくらいだ。一日平穏に過ごす事が出来たのならばどんなに幸せだろうか。視線を落とし、小さく頷く鶫。錆付いたブランコの鎖を握り締めるその手には白い包帯が巻かれていた。
「誰かにいじめられたの!?」
「……う、ううん。大丈夫だよ」
「……ほんとに? ほんとに大丈夫? 鶫はいつもそうやって無理ばっかりするんだから……。友達にくらい、本当の事を話してよ」
鶫の手を握り締め、陽子はそう告げる。その言葉にどんなに救われた事か。その笑顔があったからこそ今まで生きてくる事が出来たのだ。そう、今でもとても感謝している。
少女の不幸の始まりはまだ彼女が八歳の時の事だった。彼女の両親は幼い頃離婚し、鶫は母に引き取られた。母は生活の為に夜の仕事に勤め、鶫は部屋で一人ぼっちになる事が多くなった。
母は見る見るうちにやつれていった。そんな母を少しでも助けてあげたくてなんだってした。家事は勿論、疲れている母の肩を揉んだりもした。これをすると母はとても喜び、“えらいね”と褒めてくれた。母が自分の頭を撫でてくれるとき、その瞬間が何よりも幸せだった。
しかしそんな日々は長くは続かなかった。生活は勿論苦しかったが、それが悪化して行くのを鶫でさえ感じていた。小学校に上がり、金もかかるようになった。鶫は自分が母にとっての負担でしかない事に子供ながらに気付いていた。
ある日鶫は万引きをした。どうしても欲しいおもちゃがあったのだ。他の子供たちはみんな持っている、流行のおもちゃだった。どうしても欲しくて、でも結局母に強請る事は一度も出来なかった。
母を困らせたくない……だから万引きをした。結果彼女はあっさりと店員に捕まった。母を呼ばれ、彼女は直ぐに駆けつけた。自分の娘を激しくしかりつけ、それから店に深々と頭を下げた。
帰り道、なきじゃくる鶫に母は買い取ったおもちゃを差し出して泣いていた。“ごめんね”としか言わなかった母を見て鶫は余計に泣いた。その日は本当に、一日中涙を流し続けた。
母は優しかった。生活は苦しかった。でも、それでも幸せはあったのだ。母に買ってもらったおもちゃは子供の頃はやっていた魔法少女のアニメのステッキだった。決して安くはないそれは鶫にとって絶対に手放せない宝物になった。
その生活が変化したのは突然の事だった。しかしそれは浸透する毒のようにゆっくりと環境を変えて行く。ある日突然母の羽振りが良くなったのだ。その前兆は確かにあった。でもそれは母が頑張っているからなのだと思っていた。
母は部屋に男を連れ込むようになった。最初は母が何をしているのかがわからなかった。母は部屋でお仕事をしているのだと鶫は理解した。その間、鶫は部屋の押入れの中で膝を抱えて眠っていた。
段々と母が派手な服装をするようになった。しかし部屋は相変わらずぼろいアパートのままだった。母は家に帰らない日が多くなったのだ。鶫は定期的に金だけ置きに来るようになった母を待ち続けた。
そうして小学校高学年になった頃。母は新しい父だと言って一人の男を連れてきた。その人を初めて見たとき、とても煙草くさかった事をはっきりと覚えている。彼が部屋にあがってきた事が全てが狂い出す切欠だった。鶫はそれから毎日のように死にたいと思わねばならなくなった――。
「大丈夫だよ……ほんとに」
鶫はそう答えるしかなかった。言えるわけがないのだ。友達だからこそ。こんな、酷い話は――。
「ほんと? なら、いいけど……。ねえ、うちにこない!? 一緒に遊ぼうよ! 一人でいるよりずっと楽しいよ!」
「ありがと。でも――遠慮しとくね。そろそろ、帰らなきゃ……」
嘘だった。しかし陽子はそれを信じた。鶫は曖昧な笑顔を浮かべながら、以前彼女の家に遊びに行った時、その両親が嫌悪の視線を自分に向けていた事を思い出していた。
自分がどれだけ世界に疎まれた存在なのかは自覚していた。噂話でも聞いたのだろう。だから彼女の両親は自分を嫌っている。“悪い友達”だと。
「そうなんだ……残念。それじゃあ明日は? 明日一緒に遊ぼうよ」
「うん、考えておくね。ありがとうね」
陽子は満面の笑顔を振りまいて手を振って去って行く。鶫は一人、夕日の世界に取り残された。
あんなふうに笑うことは出来なくなった。気付けば自分は呆けた表情しか出来なくなっていた。自分の顔に手をあてる。あんなふうに、太陽みたいに笑いたいのに――。
昨日の夜は酷かった。“父親”は鶫の存在を嫌っていた。金は持っていたし地位も高い男だったが、その性格には難しかなかった。母はきっと彼を愛していないのだと感じた。母はきっと彼ではなく、彼が持っているお金を愛していた。
鶫はよく、気に入らないからという理由で蹴飛ばされた。小柄な少女に大の男が蹴りを食らわせる。それは回避も出来ず、防御もままならない。ボールみたいに吹っ飛んでは壁に激突する。それで壁が壊れれば、余計に父親は怒った。
母は――傍でそれを見ていたのに何も言わなくなった。一瞬ちらりと鶫を見やり、それから宝石へと目を向ける。助けてくれる気配はなかった。鶫は何度もボールみたいに蹴り飛ばされた。
それだけならばよかった。しかし暴力は日に日にエスカレートしていった。ある日鶫が怪我をして血を流しているのを見て男は嬉しそうに笑っていた。その笑顔に背筋が凍り付くような気持ちになった。
男は鶫の血を見たがるようになった。最初は少しだけ。しかしどんどん深く、鋭く――鶫を斬りつけるようになった。小さなナイフで少女の身体を何度も刻む。その行為に形容し難い愉悦を感じる男だった。
泣き叫んで母に助けを求めた。母は何も言わなかった。悲鳴をあげるその口に布を突っ込まれ、叫びを上げる事も出来なくなった。傷が目立たない背中を何度も斬りつけられ――鶫はただ痛みに耐え続けた。
叩かれ蹴られ、踏まれ投げられ斬られ……そんな毎日が続いた。父親が朝仕事に向かうと、母は事務的な態度で鶫の傷口に包帯を巻いてくれた。それは傷を目立たなくさせるためのものだったのかもしれない。それでも鶫はその時だけ母からの愛のようなものを感じていた。
大丈夫? とは母は言わなかった。でも巻かれた包帯が嬉しくて、それを何度も見詰めてはぎゅっと握り締めた。それだけでも生きていける――その時はそう考えていた。
しかし全てはどんどん悪い方向へと転がって行く。だからきっと全ては悪くなっていく。最悪な方向へ向かって行く。
愛や友情なんて、そんなものは直ぐに裏切る物だから――。
対決(3)
「よく、ここが判りましたね」
夜の闇の中、鶫はブランコに揺られていた。外灯が瞬く下、つい先ほど公園へと駆け込んできた響が肩で息をしながら自分を見ている。
錆付いたブランコから見る景色は幼い頃と変わらない。立ち上がり、まだ軋む鎖から名残惜しそうに指を放す。照明に照らされ、白い指先が揺れる。その仕草はどこか官能的で、響から見ても魅力的だった。
鶫は美しい。白く抜けるような肌に憂いを帯びた瞳。滑らかに揺れる髪……なによりその一挙一動が少女の身でありながら女性的な美しさを備えているのだ。その様子は宛ら夜空から世界を見下ろす月明かりのよう。静かな輝きを帯び、少女は少年と対峙する。
「……判ったわけじゃねえよ。お前と一緒に歩いた場所……片っ端から全部行って来た。辿り着いたのがここだっただけだ」
「覚えてて、くれたんですね……。ここで話した事……」
「当たり前だろ。つい昨日の事だろうが」
「そう、つい昨日の事……なのにすごく長い間桜井君と一緒に居た気がする。桜井君は……ちゃんと私を見てくれたから」
響は眉を潜める。そうしてゆっくりと前進する。自分の肩を抱いている鶫へと歩み寄る。その手にはユニフォンさえ握られていない。
二人の距離が縮まって行く。鶫は真っ直ぐに響を見詰めていた。響もその視線を反らす事は無い。強い眼差しで、鶫へと歩み寄り、そして――。
「――陽子を殺したの、私なんです」
鶫の一言で、響の足は停止していた。
「本当はいじめられていたの、私なんです。それを庇ったりするから、あの子がいじめられてたんです。陽子はいつでもそうやって私を庇ってくれました。なのに私が殺したんです。屋上から彼女を引き摺り下ろした」
自殺しようとしていたのは榛原陽子ではなかった。フェンスを越えて立ち尽くしていたのは鶫だったのだ。
その場に偶然やってきてしまった陽子がフェンスを超えて鶫を助けようとした。手を伸ばし、その手を掴むように告げたのだ。優しく言い聞かせるように、微笑みながら。
鶫はどうしようもない劣等感に苛まれていた。何故、自分を庇って嫌がらせを受けているのにこんなにも純粋に手を差し伸べるのか。そんな事が出来るのか。陽子はいつも自分を護っていた。何故、そんな事をするのか。
差し伸べられた手を握り締めた。鶫は泣きながら俯いていた。陽子は言う。口を開き、言い聞かせるように。
――どんなに辛い事があっても、ずっとずっと傍に居るから。大丈夫だよ。鶫の事は、ずっと私が守るから。
その言葉を聞いた時だった。鶫は握り締めた手を手繰り寄せていた。その時自分が何を考えていたのかは鶫にもわからなかった。フェンスから上半身を乗り出し、手を差し伸べていた榛原陽子はフェンスを越えてしまった。頭から逆様に――大地目掛けて落下した。
奇妙な音が鳴り響き、大地で陽子が死んでいるのが見えた。鶫はそれを確認するとフェンスを超え、何食わぬ顔で地上へと降りた。既に地上では騒ぎになっていた。しかし鶫は全くの無表情のまま、死んだ陽子の血に染まった手を握り締めていた。
頭はつぶれ、見るも無残な状態へと成り果てていた。しかし鶫は笑っていた。なんだか胸がスッキリした気がした。陽子が死んだ事で自分はより不幸になったのかもしれない。でも別にそれでもいい。陽子は死んだ。その事実が何故か嬉しく、そして酷く悲しかった。
常に劣等感を覚えていた。陽子は自分には無い物を全て持っていた。そのくせこうして手を差し伸べるのだ。まるで哀れむように。気付けばその事実がどうにも容認できなくなっていた。同情の視線を向けられた時、自分を護ると微笑んでくれた時、鶫は母の事を思い出していた。
「陽子は死にました。私が殺しました。私は死んだ陽子の両親から彼女のユニフォンを譲り受けました。そして……貴方も知っている力を手に入れた」
鶫はずっと握り締めていた硝子の破片を指先で弾く。甲高い音と共に空中へと浮かんだそれは砕け散り、巨大な蜘蛛のVSへと変化する。グロテスクな外見を持つ蜘蛛は低い声で唸りながら自らの主へと擦り寄った。
主はまるで大事なペットを愛でるように優しい瞳でアンビバレッジを見詰め、その冷たい体を撫でる。顔はアンビバレッジに向けたまま、視線だけで響を見詰めた。
「この子は私が望んでいる事を実現させてくれるんです。私が嫌いな人は皆殺してくれるんです。すごいでしょう? 私、この子が“VS”だって事もわからなかった。でもこの子を召喚する方法も、全て貴方が教えてくれた。だからこうしてちゃんと自分の意思で出せるようになったんです」
「…………やっぱり、か。アンビバレッジを内包しているのは――“榛原陽子のユニフォン”」
「気付いてたんですか?」
「それ以外に考えられないからな……」
しかし内心では納得がいかなかった。いくら所有者のユニフォンを持っているからといって、その力をそのまま行使出来る物なのだろうか。VSは所有者に依存する――。ならば、仮に所有者のユニフォンを手にしたとしても鶫がそれを発動出来るというのはおかしな話だ。
納得は行かない。疑念もある。だが実際目の前の少女は見事アンビバレッジを召喚して見せたのだ。それが事実であり現実である。それ以上も以下も無い。
「お前が殺したんだな……? 榛原陽子も……神崎の取り巻きも」
「……だったらどうしますか? 舞さんみたいに私を殺しますか?」
響は首を横に振る。そうしてそっと、右手を鶫へと差し出した。それは鶫にとっては意外な反応で、だから呆気に取られてしまう。
「お前はVSの出し方も知らなかった。アンビバレッジがVSだとしても、それをお前が意図的に操っていたわけじゃないのは判る。アンビバレッジはどちらにせよ暴走していたんだ。お前が止める気になればそれを止める事が出来る……そうだろう?」
「…………だから、手を差し伸べるんですか?」
「そうだ。お前が榛原陽子の事を思い、語るその表情に嘘は無かった。お前はそれを後悔しているはずだ……。もう止めろ、鶫。お前は“人殺しには向いてない”」
表情も無く冷静な口調でそう手を差し伸べる響。鶫は一瞬よろけて後退する。俯き、前髪で表情を隠しながら歯を食いしばる。その手も、目も――榛原陽子と同じだったから。
「――――なら、試してみますか?」
アンビバレッジが一歩前に出る。うなり声を上げながら無数の瞳で響を見据える。そして――。
「わたしが――“人殺しに向いていないかどうか”――ッ!! 貴方自身の身体でッ!!!!」
大蜘蛛が口を開き、夜空に吼える。超音波のような、世界を軋ませるような雄叫び……。響は無言でポケットからユニフォンを取り出し、蒼いベルサスを揮う。
――Are You Raedy?
ベルサスの画面に映し出される文字。右手にベルサス、左手に小さな折りたたみ式の手鏡を持ち、鏡を空中へと放り投げる。
頭上で砕けた光は真紅の雷となって世界を照らす。雷鳴が轟き、閃光と同時にジュブナイルが姿を現した。体に電撃を帯びながら機械の巨人は顔を挙げ、瞳を輝かせる。
「来いよ。証明してやる――。お前の、弱さを――」
風を受けながら響は前身する。それを合図にしたかのように蜘蛛と巨人は正面から衝突した。八本の足のうち二本を掴み、ジュブナイルは力強く前身する。
少年少女は見詰め合う。夜の闇の中、静かに対峙する。鶫は悲しげに瞳を揺らしながらも苛立ちを隠せなかった。アンビバレッジが雄叫びを上げる。
「貴方はどうしてそう……!」
「一緒に居たのはたった一晩だけだ。でも俺はお前の傍に居た……。お前はモノレールで、本気で俺を助けようとしてくれていた。本当はそんな力……欲しくなんかなかったはずだ」
「違う……! 私はただ、貴方に良いところを見せたかっただけ! 貴方に感謝されたかっただけ! 貴方より優位に立ちたかっただけ! 恩を着せたかっただけ! 貴方が私に感謝するのが見たかっただけ! だから助けたの……! でも、あの状況を生んだのも私だから……! 私は貴方を――ころしたいっ!!」
ジュブナイルが拳を握り締め、それをアンビバレッジの顔面へと叩き込む。その衝撃で鶫もまたよろけた。顔を殴られた痛みが走り、転びそうになる。
それだけで過去の記憶がフラッシュバックしていく。毎晩のように繰り返された悪夢が頭の中で連鎖していく。頭が真っ白になった鶫目掛け、ジュブナイルの拳が連打される。
「――その痛みを感じる必要は無い。だがお前がその力を捨てないなら――俺は殴るのを止めないッ!!」
「う――あああああああああっ!!」
悲しかった。響が自分を殴ったという事が。あんなに優しかった響が、あんなに自分に笑いかけてくれていた響が、今は敵として拳を振るっている。痛みの中、鶫はもう何も考えられなくなった。半狂乱のまま泣き叫び、感情の昂ぶりはアンビバレッジへと伝わって行く。
この状況はVSというアプリケーションとしても異例だった。VSの力はLVに依存する。アンビバレッジのレベルは既に5にまで達している。それに対し、響のジュブナイルのLVは未だ初期状態のLV1のままである。能力には絶対的な差がある――。
アンビバレッジは直接戦闘を得意とするVSではない。“他人を操作する”系統の能力であり、間接的に目標を攻撃するのが戦術の基本である。それに対しジュブナイルは完全な直接戦闘特化のVS――相性に差は確かにある。しかし、それだけでこんなにも一方的な展開になるのだろうか。
ジュブナイルが次々に繰り出す手足は見事にアンビバレッジに直撃して行く。その猛攻は止まる様子が全く無い。そしてアンビバレッジもまた――“反撃する様子がない”。
「どうして――!?」
アンビバレッジは反撃どころか防御さえろくにしていないように見える。確かに鶫は戦うようにと指示を出しているはずなのに。アンビバレッジから戦意を感じられない。
感じられるのは一方的な暴力に成す術も無い恐怖と絶望、そして眼前へと迫ってくる響の姿だけ。逃げ出したい衝動に駆られ、しかし恐怖で足が竦んで動かない。
「ひ――っ!?」
響は一歩一歩前に進んでくる。鶫から視線を反らす事も無い。真っ直ぐに見詰め、真っ直ぐに向かってくる――。
恐ろしくなった。何もかもが恐ろしくなった。これから自分が痛い目に合うのだと考えただけで死にたくなった。もうそんなのは嫌だと願った。だから皆死んでしまってよかったと思った。やっと開放されたのだと思った。思ったのに――。
ジュブナイルがアンビバレッジを捻じ伏せる。最早蜘蛛は身動き一つ取れないだろう。響は目前まで迫っている。鶫は頭を抱え、瞳を揺らしながら最悪の過去ばかりを心の中に再生していた。
父親からの虐待の日々。それだけならばまだ耐えられた。傷の痛みには最早慣れてしまった自分がいた。しかし鶫が中学へと上がり、身体付きが段々と女性的になるにつれて“別の痛み”が生じてしまった。
ある日突然服を脱がされた。それからの事は殆ど覚えていない。兎に角酷い目にあった。いつものように声を上げて泣く事も出来なかった。しかしそれよりも何よりも辛かったのは、母がそれを見てしまった事だった。
母は服を脱がされた娘を見てまるで軽蔑するような視線を向けていたのだ。優しかった母が、少女の心の最後の支えだった母が、もう自分を愛してくれなくなった。
包帯を自分で巻くようになった。自分で肌を見せる事を覚えた。出来るだけ痛くないように、出来るだけ苦しまなくて済むように……。そうやって慣れて行く中で、従順になって行く中で、自分の中の大切なものが音を立てて崩れて行く。
母は……最早遠い存在になってしまった。救いはなくなった。いつの間にか、上手に笑えるようになっていた。いじめられなくて済むように。“上手”にしてもらえるように――。
その悪夢の中、夜の闇を切り裂いて少年の眼差しが眼前に迫る――。
振り上げた掌。それが鶫の頬を叩いていた。乾いた音が鳴り響き――しかし思ったよりも痛くない。響はまるで悪戯をした子供を叱るような、嗜めるような――しかし優しさの込められた瞳で鶫を見ていた。
それはいつの日か、母が自分に向けたものと同じ目だった。叱り付けながら、しかし“ごめんね”と語りかける瞳……。頬を押さえ、涙を流しながら鶫は崩れ落ちる。
大地に膝を着き、アンビバレッジが消えて行く。ジュブナイルも同様に姿を消し――二つの影だけが残った。鶫の身体が音を立てて震えていた。がたがたと、震えが止まらなかった。
「ご……ご、ごめ……ごめんなさ……い……。ゆる……して……くださ……い……」
肩で息をする。怖くて仕方が無かった。何度もそうしたように、立ち尽くす響の足にすがり付いて頭を下げる。
「いじめないでください……! い、痛くしないでください……! な、んでも……なんでも、しますから……っ! だから……っ」
泣きながら笑い、顔を上げる。響は前髪の合間から哀れむような視線で鶫を見下ろしていた。その瞳は榛原陽子にも、母にも良く似ている。
許して、もらえない気がした。響は黙り込んでいる。一言も口を利かなかった。鶫は震える指先で制服のシャツへと手をかける。ボタンを上手く外せなくて、ひどくてこずった。
鶫が何をしようとしているのか、響には判ってしまった。笑いながら服を脱ごうとする鶫の前に屈み、その体を抱き寄せる。鶫は体をびくりと震わせ、怯えた様子でもがいた。
腕の中で鶫が嫌がってもがいているのがわかった。少女は少年の背中に爪を立てる。肉が削げ落ちるような痛みを感じた。しかし少年は腕を放さなかった。
「いじめないよ。俺は……お前をいじめたりしない。そんな顔で笑わなくてもいい。俺を殺したいなら――そうしてみろ」
「う……あ……っ」
「どうした。殺してみろ。俺を殺してみろ。本当にそうしたいなら――そうしてみろよ。なあ……皆瀬鶫」
少女の両腕から力が抜け落ちた。少年は抱きしめる力を緩めようとはしなかった。少女は声を殺して泣いた。ずっとそうしていたから、大声で泣き喚く事を忘れていた。
「……もっとちゃんと泣いとけよ。そしたら明日は――もう少しマシになってる」
体を離し、少年は少女の頭を撫でて微笑んだ。その仕草に涙が止まらず。少女は今度は自らの意思で少年の腕の中に飛び込んだ。
暖かく、優しく、長い間失ったまま求め続けていた物。自分の中でわだかまっていた全ての悲しみを吐き出すように、凍てついていた感情を溶かすように、少女は大声で泣いた。幼い子供のように、涙を流し続けた。
“父親”が、ずっとずっと大切にしていた宝物のおもちゃを壊した時も。母が自分に侮蔑の視線しか向けなくなった時も。親友がぐしゃぐしゃになった時も。こんな風に泣き叫けべば何かが変わったのだろうか。
――どんなに辛い事があっても、ずっとずっと傍に居るから。大丈夫だよ。鶫の事は、ずっと私が守るから。
どうしてその言葉を信じてあげられなかったのだろう。どうしてまた母のように自分を裏切るのだと思ってしまったのだろう。どうしてそれを恐れ――なら裏切る方が楽になれると考えてしまったのだろう。
そんな事をしても苦しみから抜け出せないと判っていたのに。余計に苦しくなって悲しくなってあとは狂ってしまうだけだと判っていたのに。
「……ごめんな」
響はそう囁いた。その言葉に少女は在りし日の帰り道を思い出していた。泣きじゃくりながら、魔法のステッキを片手にしていたあの頃。その反対側の手で、母の暖かい手を握り締めていたあの日の事を――――。
〜とびだせ! ベロニカ劇場〜
*大分間が空いた後の更新がこれである*
氷室「……」
響「……」
氷室「欝展開すぎだろ、序盤なのに」
響「これ大丈夫なんだろうか。連載的に……」
氷室「ここでバックする読者多そうだな」
響「ほんとだな……」
氷室「欝すぎてロクにここでボケられない雰囲気だな」
響「正にボケ殺しだな……」