対決(2)
あれは、いつの事だっただろうか。俺たち兄弟が……まだ、仲良く肩を並べて笑い合っていた頃――。
俺たちは森に囲まれた古い教会のような施設に居た。そこは所謂孤児院と言うやつで、俺たちは物心付く頃には既にそこに入れられていた。
兄貴……奏はよく森の木々を眺めながらぼんやりとしていた。そういう時間が多分好きだったんだと思う。俺はそんな兄貴とは正反対で、あちこち遊びまわるのが好きだった。
でも孤児院からはあんまり出られなくて、だから施設のあちこちに沢山悪戯をした。それでよく怒られて、それを兄貴が庇ってくれた。たった一人しかいない家族である兄貴は、いつでも俺に優しかった。でも――。
気づけば俺たちは全く別々の道を歩いていた。子供の頃はずっと一緒に同じ道を歩いていけるのだと信じていたし、信じる以前にそれが当たり前だと思っていて考える事さえしなかった。なのに今ではどうしようもなく、俺たちは擦れ違っている……。
俺は舞が好きだった。兄貴は……どうだっただろう? もしかしたれ俺の思い違いかもしれないけれど、兄貴は舞を好きではなかった気がする。だがそもそもあの兄貴に好き嫌いの感覚が存在するのかどうかは微妙だが。
舞は兄貴が好きだった。俺は……どうだっただろう? 勿論、それを祝福した。舞が兄貴の腕を取って照れくさそうに、けれどとても嬉しそうに笑っていた。俺はそれを見て……ああ、これからもずっと兄貴には敵わないんだろうななんて、そんな事を考えていた。
けれどそれよりずっと前から。舞と出会う前から。俺は理由も無く兄貴を嫌っていたし、その事について考える事もなかった。なのにこうして夢に見ているのだからなんともおかしな話だろう。
夢の中、俺はあの教会の前に立っていた。木々に囲まれた、世界から忘れ去られてしまったかのような場所……。ぼんやりと立ち尽くす。兄貴は……この景色を覚えているんだろうか。
ふと、誰かの声が聞こえた気がして振り返る。でもそこには誰も居なかった。ゆっくりと教会へと歩き出す。少しだけ開いた扉の向こう、誰かがその隙間から俺を見ていた。
小さな小さな影……。目が合うとその子は慌てて走り去って行く。俺はそれを追い掛けようとして扉に手をかける。
「だめだよ」
今度はハッキリと聞こえた。振り返る。誰の声かは判っていた。背後には子供の兄貴が立っていて、俺はそれを当たり前のように見下ろす。
「だめだよ」
二度、兄貴は俺に言い聞かせるようにして繰り返した。俺は目を瞑り、ゆっくりと聞き返す。
「どうして?」
その瞬間には俺の姿も子供の頃に戻っていた。兄貴は複雑な表情を浮かべる。眉を潜め、ゆっくりと唇を動かし、そして――。
「――――起きた?」
「……舞」
「そ、舞さんよ。これ、何本に見える?」
舞は俺の目の前に指を二本立てて突き出す。一瞬視界がブレたような気がしたが、流石にそれくらいは見てわかる。
「二本」
「そ、二本よ。Vサイン、ね」
深々と溜息を漏らす。なんだか長い間夢を見ていたような気がする。覚醒はまだ遠い頭でゆっくりと身体を起こす。なんだか頭が痛い。
周囲を見渡すと、そこが自分の部屋の中である事に気付く。部屋は電気がついておらず真っ暗で、開かれた窓から夜の街の明かりが微かに差し込んでいた。
「俺は……」
つい先ほどまで何をしていたのかが全く思い出せない。眠ってしまう前、何をしていたかはおろか、さっき見た夢の内容もなんだか思い出せなくなっていた。
「ぶっ倒れたのよ。気絶したあんたをここまで背負ってくるの、大変だったんだからね? 感謝しなさい」
「それはどうもありが――と……? おいっ!? 鶫はっ!?」
そこで一気に全てを思い出した。そうだ、確かモノレールの中に閉じ込められて、そこで乗客に襲われたんだ。それだけならば兎も角、体調が急激に悪化して俺は気を失って……。
ここに今こうして無事に居るという事がある意味全てを物語っている気がするが、一応舞の口からハッキリと聞かねば気持ちが落ち着かない。食いかかるように舞の肩を掴むと、彼女は俺を強引にベッドの上に押し倒して小さく鼻を鳴らした。
「そんなに心配せずともあの子は無事よ。その調子なら大体思い出したみたいね」
「舞が助けてくれたのか……」
「ええ」
「えー……と、どうやって?」
「勿論VSを使って、よ」
そりゃあそうなんだが、お前なんか色々無理がねえか? 移動しているモノレールにどうやって助けに来たんだとか、そこからどうやって脱出したのかとか、よく直ぐに異変に気付いたなとか、色々……。
だが実際こうして無事にここに居るんだからそれが全てなんだろう。俺は舞に助けられた……なんだかかっこ悪くて嫌になった。視線と肩を同時に落すと彼女はベッドの上に腰掛けて腕を組む。
「とりあえず二度とこういう事が無いように一つだけ教えておくわ。“VSを使いすぎない”事……それを忘れないで」
「使いすぎない事?」
「理屈はわかってないから抜きにするけど、兎に角VSは長時間連続で使い続けたり短期間に連続発動させると所有者の肉体に異常を来たすの。最初は軽い頭痛や眩暈から始まり、風邪に似た症状へと変化する。その後も使用を停止しないと、意識不明……その先はどうなるのか判らないわ」
VSという力はその原理も何もかもが判らない物だ。ただしその力にはやはりというか当然代償が必要となるらしい。単純に普通に発動するだけならば問題ないが、それを連続で発動している事により付加がかかるという。
俺はジュブナイルを発動させた状態のまま神崎に一晩つき合わせたり、探知モードで起動しっぱなしで丸一日行動したりしたのが原因でぶっ倒れたらしいという事……まあそういわれればそうなんだと納得出来るが……。
「しかし、そんなの良く知ってたな」
「う……。な、なんだっていいでしょ、別にそこは」
少し恥ずかしそうに視線を反らす舞。まさかこいつも――いや、何も言うまい。
「それで、鶫は? あいつも一緒に助けたんだよな?」
「ええ、勿論。ただ――」
そこで舞は何かを躊躇うように口を噤む。こいつにしては珍しく歯切りの悪い態度だ。なんでもずばずば言ってくるタイプのはずなんだが……。
少し嫌な予感がした。もしかしたら助けたけれど怪我をしてしまったとか、そういう事なんだろうか? それで病院にいっているとか……。
嫌な予感は予想外の方向へと的中しようとしていた。舞は目を瞑り、眉を潜めたまま言葉を続ける。
「――彼女とはもう、会わない方が良いわ」
「は……? なんでだよ?」
いまいち理解出来ずに首を傾げる。だいぶ目も覚めてきたので立ち上がる事にした。そうしてベッドの枕元にあったスイッチを入れて部屋を明るく照らす。そうして俺は気付いた。俺の部屋は、なんだか理解不能な状況になっていた。
「な……んじゃこりゃ」
寝かされていたのは来客用の折りたたみベッド……鳴海なんかが使いっぱなしだった物……の上だった。そこからは隣の部屋にあるダイニングが丸見えだ。こちらの明かりが隣の部屋に差し込んでいるのでハッキリと見えず、兎に角ダイニングへと移動する。
電気をつけて驚いた。部屋は滅茶苦茶になっていた。床の上には……何故か料理が散乱している。砕け散った皿に、何故か血痕……指でも切ったような感じだ。テーブルの上にはご飯が三膳、箸もきちんと三つ並んでいる。なのにおかずがぶっ飛んでいる……。
「……一体何がどうなったんだ?」
舞は俺の後にゆっくりと続いてくると、腰に手を当てて何やら気まずそうな表情を浮かべている。当然ながら全部知っているんだろうが……何故話したがらない?
風呂の準備が出来ていた。俺の着替えもちゃんと用意されていた。多分鶫がやったんだろう。部屋は綺麗に片付けられている。ダイニングの傍らには、多分彼女が用意してきたのであろう外泊用の着替えなどが詰め込まれたバッグが転がっていた。
何もかもが普通に順当に進んでいたのに、何かがあって全てがぶっ壊れたような、そんな意味不明な状況……。無言で舞に視線を向ける。すると彼女は信じ難い言葉を口にした。
「――――あんたを襲ったVSの所有者……彼女よ」
「……は?」
「多分、だけど。推測の域は出てないわ。でも多分ハズレてはいない」
「ちょっと待て、どういう事なんだ? あいつはまだVSを所持していないんだぞ? 確かに当選はしたんだろうが――」
「ええ。だから推測の域は出ていないの。あんたのその情報が確かなら、彼女はVSを持っていないはずだから。でも、彼女は“あんたを襲ったVSと何らかの関わりを持っている”のは間違いないでしょう?」
俺を襲ったVSがアンビバレッジだったのならば、それは当然だ。アンビバレッジの所有者は、死んだ榛原陽子だったはず。その親友だった鶫と関係が無いわけがないんだ。
いや、でも――逆に、だ。どうして俺は、“死んだ人間のVSが未だにうろついている”なんて事を考えたんだろうか。当たり前の事なんだ。“生きている人間の操っているVS”だと考えて当然なんだ。なのに俺は――鶫を信じてしまった。
あいつは全然悪いヤツなんかじゃないんだ。いじめられっ子で、眼鏡で、でも伊達で……。友達の死を悲しんでいて、復讐したいと考えている。でもそんな事は出来なくて、だからどうにかしたいって俺に手を貸すといってくれた。
実際にあいつのケータイだって確認したんだ。でも、あいつはVSアプリケーションを持っていなかった。そうだ、その確認が前提としてあるからこそあいつを信じられた。
嘘をついているようには見えなかった。自分で確かに確認もした。だからこそ信じていた。いや、今でも信じている。あいつはアンビバレッジの所有者じゃない。
「いくら舞でもその言い方はないんじゃねえのか? 鶫はアンビバレッジの所有者の親友だったってだけだ。でもその所有者は死んでるから、アンビバレッジは単独で暴走している状態で……」
「在り得ないのよ、そんな事は」
俺の言葉を遮り、舞は髪をかきあげる。
「VSを動かしているのは確かにVSアプリケーション……。でも、VSは所有者が死亡した瞬間に消滅するの。VSアプリケーションの中身であるVS本体は、所有者によって姿形と能力を変化させる……。二つと無い一品物なの。これは推測だけど、VSは所有者の存在と何らかの部分で繋がっている。だからこそその影響であんたみたいにぶっ倒れたりするのよ」
「……つまり、じゃあ、あれか? VSは……所有者に依存した存在なのか?」
「ええ、そういう事。だから単独で動き回るなんて事は在り得ないの」
言われて見れば確かにそうだ。納得できる……でもだったらアンビバレッジは誰のVSなんだ? 鶫は違う――と思う。あいつのユニフォンにはVSアプリなんて入って居なかった。ん? “あいつのユニフォンには”――?
最悪の可能性が脳裏を過ぎる。いや、まさか。そんな事ってあるのか? アリなのか、それは……? 待て、この推測は行き過ぎている。少し考えを、纏めないと……。
「あたしが現場に助けに行った時、あんたたちどうなってたと思う? あたしはあんたが倒れた直後に到着したわけじゃないわ。物凄い速さで走り回るモノレールにそんな直ぐ追いつけるはずもないし」
そりゃあ当然だ。だが、それは確かにおかしい。俺は……やつらにどうにかされていて当然なんだ。なのに俺は無事だった。俺の存在が矛盾を告知している。舞が助けに来るまでの間、俺はどうなってたんだ?
連中はもう目の前まで来ていた。あとは煮るなり焼くなり好きにされるだけだったはず。なのに俺は無事だった。つまり――。
「あんたたちは何もされていなかったの。あんたたちを襲おうとしていた乗客たちはバカみたいに突っ立ってたわ。ぼーっと阿呆面でね。なんでだと思う? あの子があんたを庇うように抱いていたからよ。連中それだけで何もしなかったの。どう考えてもおかしいでしょう?」
「それはだから、あいつは榛原の親友だから……」
「死んだ人間にそんな事が考えられる? どうして既に暴走状態にあるはずのアンビバレッジが綺麗にあの子だけ攻撃しないのよ。変でしょう」
「……っ! それは……っ」
「それにあの子、ぶっ倒れてたあんたを抱きながら――笑ってたのよ? 目の前には大量のゾンビ兵みたいな連中が阿呆面で整列中。その目の前であんたを抱くあの子……どう見ても奇妙よ」
もう何も言い返す事が出来なかった。それは、変としか思えない。妙すぎる……。でも、どうしてだ……? なんで、そうなる……?
様々な要素が矛盾している気がする。でも俺はその全てに答えを出す一つの手段を思いついてしまった。仮にもしそうなら……あいつはきっと、アンビバレッジを操る事が出来る。
舞へと視線を向ける。舞は気まずそうな表情を浮かべていた。何が起きたのかはもう大体推測が出来た。舞は……きっと鶫を問い詰めたんだ。
鶫は舞に何かキツく言われて飛び出していってしまった。舞は俺を一人に出来ないからここに残った。俺に……この事を伝えるために。
「追い掛けるつもり……?」
「……ああ、当然だろ」
そう答える俺の肩を片手で掴み、舞は首を横に振った。そうするだろう事は、もうわかっていた。当たり前だ……。幼馴染なんだから。
「止めておきなさい。あんたじゃあの子には勝てないわ」
「戦わないで済むかもしれない」
「あの子の目的はつかめないのよ。あの子の存在そのものが矛盾を抱えてる。それはあんたもわかるでしょ?」
「それでもあいつはただの女の子だ。別に特別な事なんて何もない。こんな力を手に入れなければ……何も無かった」
「行かせない!」
「いい加減にしてくれよっ!!」
舞の手を振り払う。振り返り、舞の手首を掴んで詰め寄る。彼女は目を丸くして俺を見ていた。
「いつまでも姉貴面してんじゃねえよ……! 誰が頼んでそんな事しろって言った!? お前が余計な事をしなければ、鶫は俺がなんとか出来たかもしれないのに!!」
「そ、それは……っ! そう、だけど……。でも、あたしは……響が心配で……」
「それを止めろって言ってるんだよ! 俺は、別に舞に助けてもらいたくなんかないんだよっ!! 昔からいっつもそうだ……! お前はいつだって、そうやって……っ!!」
舞はいつも俺の事を出来の悪い弟、くらいにしか見ていないんだ。笑顔を向けてくれるのも、必要以上にスキンシップを取ろうとするのも、それらは哀れみに過ぎない。俺は舞に同情されているだけだ。親がいないから、兄貴と仲が悪いから、一人ぼっちで可哀相だからって――。
そんな目で俺を見て欲しくなんかなかった。昔から舞は俺よりも上にいて、勝手に俺の事を決めやがる。勝手にピンチに現れて、勝手に俺を助けやがる。でもその舞も、兄貴には助けられていたんだ。だから舞は兄貴を好きになった。俺にもその気持ちが判る。舞は俺の、ヒーローだったんだ。
「響……どうしたの……? あたし……余計な事、しちゃったのかな」
「…………助けてくれた事には感謝してる。でもこの件は俺に任せてくれ。舞には……迷惑はかけないから」
握り締めていた舞の手首を放す。手首にはくっきりと痕が残ってしまっていた。赤くなった所をもう片方の指先で撫で、舞は気まずそうに視線を反らす。
こんなこと言ったって仕方ないのはわかってるけど……でも、今は鶫の所に行かなきゃならない。まだ引き返せるなら、あいつを助けなきゃならない。だから俺は舞を振り切り、部屋を飛び出した。
「鶫……っ! どこにいるんだ……!!」
夜の街の中を駆けて行く。舞の事は――意識して忘れるようにした。今は――それどころじゃないって言い聞かせて。
対決(2)
響の部屋を飛び出した鶫は自らの家へと足を向けていた。特にそうしようと思ったわけではなく……それ故に気分は最悪と称するになんら問題の無い物だった。
まるで自分の帰る場所がそこしかないのだと己の魂が認めてしまっているような気がする。深々と溜息を漏らし、ゆっくりと歩き出す。皆瀬のネームプレートがかけられたそこは、古ぼけたアパートの一室だった。
鍵はかかっていない。扉を開く。瞬間、嫌な匂いが室内に立ち込めている事に気付く。土足のままフローリングの床を歩き、闇の中膝を抱えて壁際に座り込む。
鶫の正面には二つの死体が転がっていた。それは彼女の両親だったモノ……。既に死後数日が経過しており、真夏の蒸し暑さもあって死体の状況は酷く悪化していた。部屋の中には大量にぶちまけられた血液が乾き固まり、最早拭い去る事の出来ない罪を誇示しているかのようだった。
ぼんやりと、死体を見詰める。両親が死んだのは恐らく自分の所為だろうと考えた。学校に行って、そこで考えたのだ。ああ、家に帰りたくないと。帰ったら両親が二人とも死んでしまっていればどれだけいいかと。帰ってきたら案の定死んでいたのだ。だからそれはきっと自分の所為。彼女らが――こんなぐしゃぐしゃの、ばらばらの、めちゃめちゃになって死んでいるのは、自分の所為――。
榛原陽子が死んだのも。神崎エリスの取り巻きが死んだのも。全ては自分の所為。自分を中心に全てが起こっている気がする。そう、櫻井響が襲われた事だって。
自分を目前にして停止した乗組員たちを見てそう考えるしかなくなってしまった。まるで自分が一緒にいるから周りの人間を不幸にしているような、そんな感覚……。それは誰が悪いわけでもない。頭を抱え、しかし口元には笑みを浮かべる。
皆不幸になってしまえばいい――そう、自分が望むから。皆平等に不幸になればいい。まっ平らになって、全員がぺたんこになって、痛みも悲しみも全て分かち合えればいい……そう思う。もう、自分だけが痛い思いをするのは嫌だ。自分だけが悲しい思いをするのは嫌だ。自分だけが何度も何度も繰り返し死にたいと願うのは嫌だ。だからそれら全てを全員で分かち合えたらいい。世界の全てが壊れてしまえば、自分が壊れていてもそれはきっと“普通”だと思えるから――。
「でも……」
暗闇の中、月を宿した瞳で転がった両親だったものを見詰める。自分以外の人間が不幸になったとしても、全く気持ちは晴れなかった。痛みは止まず、苦しみは耐えず、死への渇望は潤う事はない。
だからこそ望んだのだ。自分をこの地獄から連れ出してくれる存在を。試したかったのだ。自分を護ってくれる人がいるのかどうか。だがその結末はわかっている。きっとまた、そうしてしまうだろう。榛原陽子を――そうしたように。
窓の向こうへと視線を向ける。空けた夜景の景色の手前、硝子に映りこんだ蜘蛛のシルエットが見える。鶫はゆっくりと立ち上がり――“二つ”のユニフォンを手に取った。
二つのユニフォンには同じストラップが吊るされている。一つは榛原陽子が自分へと送った物。もう一つは榛原陽子が“これでおそろいだね”と微笑んだ物。その両方が今、鶫の掌の中にある――。
「ねえ陽子……私、今日は飛べるかな?」
鏡の中の異形は答えない。それでも良かった。親友に向けるかのような純粋で優しい笑顔――それを浮かべ、鶫は窓を開け放った。