通谷由緒子は融通が利かない
私、通谷由緒子は人生最大の難問に直面していた。
そのせいでここ最近眠りも浅いし、食事もあまり喉を通らず、仕事も手に付かない。
なんてテンプレートでいて古風で文学的、もしくは少女漫画かティーンズ向けのノベルのノリなんだと散々頭をかきむしった。
そんなことをしても全く問題は解決しないし建設的でもない。なんなら掻きむしりすぎた頭から過剰に髪が逃亡し、ストレスと相まってハゲるのではないかとありありと想像できたのでなんとか自制した。
それでも睡眠と栄養の不足がてきめんに、寄る年波を反映する肌に悪影響を及ぼし始めた。社会人生活5年で培った化粧技術をもってしても、肌の荒れと目の下の隈を隠せなくなってしまったことから私は決断をせざるをえなかった。
原因は特定出来ている。
3日前、社内の廊下で出会った他社の営業さんが元凶だ。
出会った、といってはおこがましいか。
なにせ私達はただすれ違っただけなのだ。
一言も会話を交わしはしなかった。目も合わなかった。
なのにたまたま正面から見ることになったあの顔が、忘れられない。
目にした瞬間の胸の高鳴りと高揚感は、私には全く経験の無かった出来事だった。
クールな印象を与える秀麗な顔、引き結ばれた口とスッと通った鼻筋、なにより涼しげな目元が印象的だった。
身長はすらりと高く姿勢も良かった。均整のとれた体つきに、品のいい濃いグレーのスーツが良く似合っていた。
ただ、鞄についた世界的に有名な某子猫ちゃんのマスコットだけが、妙に目について違和感を覚えた。ギャップ萌えというよりは、営業さんにとってはフリにしかならないようなその所持品に、私はひどく興味を引かれたのだった。
「失礼ですが、今お時間はありますか?」
「はい?」
会社から出て来た彼は幸いにも一人だった。尾行なんて怪しげで便利なスキルは獲得していないので、社外に出た所をすぐに引き留めさせてもらった。
時刻は終業時間をとうに過ぎ、人が疎らに退社していく帰宅時。暮れ始めた空に反して、街灯やオフィスビル群から漏れ出る光で地上は明るい。
「私こういう者です。その名刺に不審な点がございましたらお手数おかけしますが、会社の人事の方にお問い合わせいただくか、総務部の主任にご確認いただければ私の身元を保証してくれると思います。一応、これでも勤続5年、そこそこ会社に居座っているので認知度はあるつもりです」
折り目正しくお辞儀をし、名刺を差し出した。
自分で言うのもなんだが、お辞儀の速度も角度も完璧だった。これで悪印象を抱かれることはまずないだろう。
「不躾で大変恐縮なのですが、折り入ってご相談がありまして。もしご都合がよろしければ私の話に耳を傾けていただければと思いまして、こうしてまかり越しました。あ、これ、もし宜しければお近づきのしるしに。晴風堂の限定最中となっております。和菓子がお嫌いでなければ、ご賞味いただければ幸いです」
差し出した紙袋の手提げは受け取って貰えることなく宙に浮いたまま。
相手の視線も困惑気味に、つい受け取ってしまったであろう手元の名刺に漂ったまま。
暫しの沈黙が流れ、微動だにしない私達の状況に焦れたのか、相手が言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「ええと、通谷さん?」
「はい」
嬉々として私はいいお返事をした。
どういうことだろう。私の姓を呼ばれただけで高揚感が沸き上がり、心なしか声が勝手に弾んでしまう。
初めて耳にした彼の声は、想像よりも大分穏やかで優しげな声だった。見た目のインパクトと営業という職種から、自信満々な男らしい声を予感していた私は、あまりにも好みに合致していたこととその意外性に思わず微笑んでしまう。
彼の声は優しげな響きをしているといっても、気弱そうとかいう印象もなく、心地よく耳に届き鼓膜を甘やかにくすぐって脳に浸透していくような。清流のせせらぎを思わせるような涼やかな美声だった。
「初対面、ですよね?」
「はい、言葉を交わさせていただくのは初めてとなっております」
「誰かとお間違えではありませんか?」
「いえ、間違えようもありません」
この3日間片時も忘れたことなどないのだ。
取引先の営業である橋階泰希さん、29歳蠍座。人当たりの良さと爽やかな笑顔で我が社の女性陣からも絶大な人気を誇り、日頃お茶汲みから逃げ惑う腰掛けOLも率先してお茶の用意に走る、ライバル過多な優良物件らしい。
らしいというのは、この3日でそれとなく周りの噂話に耳を傾けて得ただけの頼りない情報故に、確証や信憑性が得られないからつけた助動詞である。
「それに関しましては説明に少々お時間をいただくことになりますので。もし少しでもお耳を傾けていただけるというのでしたら、どうか場所を移してお話させていただけないでしょうか」
「ええと、じゃあ、どこか喫茶店にでも行きますか」
「恐れ入ります」
受け取って貰えなかった紙袋になんとなくションボリした気持ちを抱きながら、今度は洋菓子で攻めるべきかしらと考えつつ先導する背中に素直に付き従った。
それぞれコーヒーを注文し終えると改めて名刺交換がなされ、事務的な挨拶を交わしている内に各々の目の前にコーヒーが届けられた。
落ち着いた雰囲気の店内は人が疎らで、適度な仕切りにより他の客の姿も目に入りづらく気にならない。しかし閉塞感はない。
喫茶店を採点する知識も技量もないが、個人的な印象としては良い店だと思う。
ひどく緊張して喉の潤いを確保したい私はちびちびとコーヒーを啜り始めたが、彼は喉の乾きを覚えないのだろう。自らの注文品に目を向けることもなく、やんわりとした営業スマイルを浮かべて私を直視してきた。
「で、通谷さん。お話とはなんでしょう?」
端的に本題を切り出された。
その直球な話題運びが私の性にあっていて大変好ましい。
「はい。実は私、貴方に友人になっていただきたいのです」
「は?」
「それというのも、3日前のことです。会社の廊下で貴方とすれ違ったおり、私はあろうことか一目惚れをしてしまいました。人生初の珍事ではありましたが、現実を受け入れるのにそう時は要しませんでした」
「え?」
「ここ3日間、私はろくに食事も喉を通らず、睡眠も浅く、仕事も手に付かず、暇さえあれば貴方のご尊顔を思い浮かべては、自然と漏れるため息にハッとさせられる毎日」
「ちょっと」
「我に返る度にこのままではいけないと思い、出来る限りの手段を使って一目惚れのメカニズムや理論、理由、想いの解消方法を調べ尽くしましたが、現状を解決に導けるような知識は得られませんでした」
「ちょっと待ってください」
「はい、なんでしょうか?」
「通谷さんは、俺の事が好きなんですか?」
「不本意ながら、そのようなのです」
無意識に浮かんだ渋面に気付き、いかんいかんと表情を整え直す。
少しでも不細工に見えないように配慮したいという、自然と浮かんだ自分の乙女心に従順になったのである。
「不本意って。俺の台詞でしょう、それは。なんで見ず知らずの人に惚れられなきゃいけないんですか」
「まったく仰る通りだと思います。気味が悪い以外の何物でもないと、想像に固くないかと。ですが私とて不本意なのです。何故、一目見ただけで好きにならなければならないというのでしょう?どう考えてもおかしいではないですか」
虚を突かれたように見開いていた目を今は眇て、私の想い人は営業スマイルを完全に放棄し、厳しい表情を浮かべている。
「いや、俺に言われても。悪いですけど、友達になったからといって恋愛に発展させる気はありませんよ、俺」
「無論です。私もそのようなことは望んでいません」
「じゃあ、なんでわざわざ友人になりたいなんて言うんですか」
「それは、理屈が通らないからです。そして、貴方のことを諦める為でもあります」
「どういうことですか?」
「今、貴方にキッパリと振られて今後一切会わないようにするというのは、貴方にとってはこれ以上ないほど平穏で問題のない環境といえます。しかしそれでは私の身に起きている異常と、こんな状況になってしまったという納得のいかなさによる不服さ、つまり精神衛生を保つという目的が全く改善されないと言いますか、不眠と注意力散漫と栄養摂取困難が改善されないと申しますか。ともかく、ただフラれただけでは私の状況は全く好転しないのです」
「とても独りよがりな見解ですね」
「まったくもってその通りです。ぐぅの音も出ません。しかし貴方のことを知れば知るほど、きっと理想とは違うと幻滅するはずなのです」
「はい?」
「つまり一目惚れにありがちな、恋に恋する風潮に則ってですね、『私の思ってた橋階さんとは違う!こんな人好きになるんじゃなかった!』というやつが適用されるはずなのです。ですから私は、ありのままの貴方のことが知りたいのです。そうすれば間違いなく諦めがつきます。そしてありのままを知り幻滅するためには、気のおけない友人関係になることが一番なのです。私としましても、恋愛ごときに時間を費やしたくはないのです。今回のことも、実生活に影響さえ出なければ胸に秘めて決して表沙汰にはする気はありませんでした。一時の感情に支配されて理性的な行動や規則正しい生活が阻害されるなど、本当に忌々しい限りなのです。持続しえない感情の為に有限な時間を費やすなど愚の骨頂。しかし友人関係になら、時間を費やすことも無駄ではありません。友のもたらしてくれるものには計り知れない恩恵があり、私は友という存在にはおおいにリスペクトの念を抱くことができます。ビバ友情!」
「あんた大分失礼だな!」
思わずといったように先方は、今までの穏やかで人当たりの良い話し方を投げ捨てて、まさしく素が飛び出したようなツッコミを披露してきた。
それを目にして私も平静を保ちきることが叶わず、相手と同じトーンで声を上げてしまった。
「なんということでしょう!」
「な、なんだよ!」
「怒った顔も格好良く見えてしまうとは、重症です。これだから恋ってやつは。こんな盲目的な見え方をしているなんて、大変お恥ずかしいです……」
意図せず項垂れてしまう。
何故こんなに目の前の人はイケメンなのだろう。胸が高鳴って仕方がない。誰か私の五月蝿い心臓を止めてくれ。いや、止められたら困る、死んでしまう。
「誉めたってほだされないからな!」
「いえ、別に今は誉める意図は無かったのですが」
「……そんなに俺が好きなのか?」
「残念ながら」
「理由は?」
「一目惚れです」
「それはさっき聞いた。他にも俺を見かけたりしたのか?」
「いえ、3日前に我が社の廊下ですれ違っただけです」
「……………それだけか?」
「それだけです」
呆れたような溜め息をあからさまにつく橋階泰希さん。
いつの間にかすっかり素で話していらっしゃる。
なんだか背中がそわそわとむず痒く感じて、頬が緩んでしまう。
爽やか営業スマイルと穏やかな口調も嫌いではないが、ちょっとぞんざいになった言葉遣いもキュンとくる。
打ち解けてきているのではないだろうか?とても良い傾向のように感じる。これなら良好な友人関係を築けそうだ。
しかし次の瞬間、私の楽観はいとも簡単に突き崩された。
「悪いが俺にはやることがあるから、あんたの都合に付き合ってやる余裕はない」
苦々しげな表情を浮かべ、彼はキッパリと拒絶する。
「あんたの希望を叶える義理もないしな。友人になるのもごめんだ」
笑顔が凍った自覚があった。
なるべく穏便に事を運びたかったが、仕方がない。
提案を相手から拒否された場合の対策は事前に考えてあった。
あまり悪目立ちするのも不本意ではあるのだが、背に腹は変えられない。
話は終わったとばかりに一息にコーヒーを飲み干して立ち上がりかける彼よりもいち早く起立し、私はニッコリと微笑んでみせた。
怪訝そうな顔になり動きを止める彼の前で、おもむろに私は床に膝をつき、
「一生のお願いです!後生です!頼みますから友達になってください!!」
土下座した。
腹から声を出した効果だろうか、周囲がざわつき先程まで居心地の良かった店内が一気に緊迫感に包まれた。
「おまっ、なにして!」
「友達になっていただけるなら何でもします!炊事洗濯家事パシり!雑用から性奴隷までこなしてみせます!」
「はぁ!?」
「しかし性奴隷に関しては経験も知識もないので、どうかご教示願います。もちろん奴隷なので、付き合ってくれなんて烏滸がましいことなど申しません。むしろ知識を得る度に橋階さんに幻滅していけると思うので、私の恋心を殺したいならオススメの方法ではあります。気は進みませんが、煮るなり焼くなり好きにして頂いて構いません」
「ちょっ、名前を呼ぶな!こんな状況で俺の個人情報を1つでも開示しようとするな!」
「しかし他に何と呼びかければ」
「呼びかける以前の問題だ!いいからやめてくれ!席について、早く!」
周りから迫る控えめなざわめきとヒソヒソ囁く声に精神がゴリゴリと削られているのだろう、橋階泰希さんは焦ったように私の二の腕を掴んで立ち上がらせてきた。
こんな状況だというのに、掴まれた二の腕を意識して顔が赤くなった。
まさか会話を交わして数分で自ら触れていただけるようになるとは。向こうはやむにやまれぬ事情で仕方なくのことだろうが、強引でありながらも痛みを感じさせない力加減に、男らしさと細やかな気遣いを感じて場違いにも惚れ直してしまう。
「はっ、いけない!惚れ直している場合ではありませんでした、私は貴方に幻滅してこの不毛な恋を終わらせたいのです。もっと酷い扱いをしてくれないと困ります」
「意味がわからない!」
顔をひきつらせてもイケメンなんてすごいことだ。
疲れたように椅子に腰を降ろした橋階泰希さんは、まだまだざわつきの収まらない店内を眺めて「もうこの店来れないな」と呟き、彼の一挙手一投足に見惚れている私に着席を促した。
「今時誰でも手軽に動画をアップ出来るんだ。そんな恥ずかしい真似して万が一ネットニュースの1つにでもなってみろ、俺たちの社会人として積み上げてきた物が音をたてて崩れ落ちるんだぞ」
軽率な真似はするなと、顔をしかめて滔々と諭してくる橋階泰希さん。
ごもっともなご意見である。
しかしその優しさに改めて惚れる。
本当に非情な人間なら、私一人を残してさっさと喫茶店を出てしまうべきなのだ。
周りからの見られ方を気にしたのかは知らないが、私の奇行に振り回されてまた席に着いてしまうなんて、なんてお人好しなのだろう。
「そうなっても仕方ない、と判断した上での行いなのです。今の私の最優先事項は、この恋を納得のいく形で終わらせることなのです。だから仮に貴方に『恋人がいる』とか『好きな人がいる』と言われたとしても、納得は出来ないのでしょう。別に付き合うことが目的ではないので、そんなことを言われても『そうですか、でも想う分には自由ですよね』としか発想出来ないのです」
気持ち悪いですよね、と苦く笑って見せると、相手は何とも言えない顔をしてテーブルに凭れて頬杖をつき、じっとこちらに視線を注いできた。
ぐっと物理的な距離が縮まり、思わず上体を反らしてしまった。
近い近い!そんな間近でご尊顔を直視してしまっては顔が熱くなってくる。
少しでも熱を冷ましたくて身体ごと横を向き、両頬を左右の手で挟んでみるが、全身の熱さが実感出来ただけだった。
悔しい、何故私の身体なのに思い通りにならないのか。
羞恥に小刻みに震えだす。
「難儀な性格だなぁ」
「ご迷惑おかけします」
好きな人に迷惑をかけている自覚がある。
申し訳なさで自然と背中も丸まってきた。
「逆に付き合った方が早くないか、幻滅したいなら。俺、彼女だろうがないがしろにする自信あるよ」
「それは嘘です」
呆れたように息をつく彼に向き直り、食い気味で否定した。
「なんでだよ」
「既に橋階さんは優しいです。こんな迷惑で突飛な申し出をする私の話に、真面目に付き合って下さいます」
「あぁ、迷惑って自覚あるんだ」
「もちろんあります。自分が無茶苦茶なお願いをしているのは解ります。その上で、貴方が私の願いを叶えて下さるなら、パシりでも性奴隷でも何でもしてご恩をお返ししたいと」
「いや、性奴隷から離れろよ。要らないよそんなん」
「じゃあ私がどんな対価を支払えば、友人になってもらえますか?」
「そもそもその発想がおかしい」
「と、言いますと?」
「友人になりたいなら、対価を払おうと思うのがまず変だろ。そんなの対等な関係じゃないから、そもそも友人とは言えない」
「ですが、それでは貴方に何一つ得がありません。私がかける迷惑と、友人関係になった際貴方が私の為に費やして下さる時間とを考えたら、釣り合うものが必要と思うのです」
「それはビジネスの世界ならだろう?ギブアンドテイクを求めるなら、俺は通谷さんを友人ではなく取引相手としか感じられない」
「では、どうしたらいいのです?」
うーんと唸りながら腕組みをし、橋階さんは難しい顔で上を仰ぎ見た。
私もつられて天井に目を向けたが、アイボリーの壁紙とシーリングファン(プロペラみたいなやつ)を確認出来ただけだった。
束の間の沈黙の後、重々しく溜め息を吐き出して、彼は顔を正面に戻した。
「気乗りはしないが仕方ない。なろうか、友人に」
その言葉を瞬時に理解することが叶わず、私は一瞬息を詰めて目を見開き、次いで停止した思考の再起動をかけた。
「……いいんですか?」
「仕方ないだろ。このままじゃいつまでたっても堂々巡りだし」
「嬉しいです!ありがとうございます」
自分史上最高に顔が緩んでいるのが解る。どうしようもなく込み上げてくる嬉しさに、完全に顔面筋のコントロールが失われているのだ。
「っ。あんた、絶対アプローチの仕方間違ってるよ」
「へ、何故です?」
「自覚がないならいい」
忌々しそうに顔をしかめる橋階さんに内心首を傾げたものの、これで不毛な恋心を手放すことが出来そうだと満足感いっぱいで、私は新たな友人に握手を求めたのだった。