第二夜 遊女ノ娘 之夢3
あの夢は悪夢の正夢だったのだろうか。
現実はまるで永夜子を嘲笑うかのように非情である。
「ミネと申します」
可もなく不可もない、凡庸な顔立ちだが、長いうねりを上げた黒髪と夜空のような強い輝きを放つ瞳。
御簾の向こうで頭を下げたのは、夢の中に出てきた娘と瓜二つの娘だった。
何故どうして? あれは夢のはず。頭の中は混乱している。思わず頬を抓るが痛い。やはりこれは現実のようだ。
理解が追いつくと、永夜子は歯ぎしりした。
夢の中とは言え、透明に触れていた女によく似た女が現実に現れたのだ。しかも、夢の中の“永夜子”はミツという名前だったような気がする。名前まで似ているではないか
私の大事な透明様に。この阿婆擦れが。
正確には違うのだが、永夜子の中ではこのミネと名乗る少女が夢の人物と同一のものになっていた。
もしかしたら、あの夢は予知夢だったのではないだろうか。名前が似ているのももしかしたら記憶違いかもしれない。この女はいつかあたしを引き摺り落として、神女の座を奪うかも知れない。
「あんたの名前なんて興味ないわ。そうね、あんた、あたしの傍仕えにしてあげる」
「えっ?」
突然の任命にミネが驚いて顔を上げた。大きな丸い瞳。自分よりも大きなそれにすら嫉妬を覚える。
「なによ、えって。あたしの傍仕えは嫌なの?」
「そ、そのようなことは……あまりにも突然のことで……。承りました。田舎者故、勝手がわからぬところがございますがよろしくお願い致します」
「じゃあ、用があるまで廊下で待ってて」
「……廊下で、でございますか?」
この季節、廊下は寒い。本来傍仕えは戸の向こうとはいえ建物の中にいるものだ。聞き間違いだろうかと反復したミツ。しかし、永夜子は馬鹿にしたように鼻で笑う。
「そうよ。さっさと行きなさいよ、愚図」
「は、はい……失礼致します」
もう一度頭を下げて、ミネは退出していった。
目に入れるのも不愉快なミネを傍仕えにしたのは他でもない。存分に虐げるためだ。辞めたくなったら勝手に辞めればいいし、不手際を起こしたらあの年嵩の巫女のように追い出せばいい。傍仕えにして近くにおいておけば見張っても入れる。
妙案だ、なんて頭が良いのかしら。流石神女のあたしね。と、にんまりと微笑む永夜子の顔は残虐に歪む。
しかし、永夜子の思いとは裏腹に、ミネはいつも笑顔で永夜子の前に現れた。どのような罵詈雑言を浴びせられても自分が至らないと真摯に頭を下げ、次には完璧と言って良いほどに物事を熟す。そんなことが続けば、永夜子もいびる理由が思い付かなくなり、ただただ腹立ち紛れに罵詈雑言を浴びせるしか出来なくなっていた。
永夜子にはわからなかった。永夜子の無茶な命令を耐えながらひたむきに頑張るミネの姿に、他の巫女たちが絆され密かに助けていたことを。冷たい廊下で待たせるミネに綿の入った襦袢を渡したり、与えられた仕事を肩代わりしてあげたり。人望の無い永夜子には、巫女達の連携は伝わらない。だから永夜子には、ミネが与えられた仕事を難なくこなす有望な人物に見え、嫉妬が何時しか憎悪に変わっていた。
出来る事ならあの髪を切り刻み、目を潰してやりたい。しかし、幾らなんでも何もしていない相手にそんな重い罰を与えることなど永夜子にはできなかった。仕掛けてやろうにも、無理難題を吹っかけてもミネはそれらをこなしてしまう。かなり腹に据えかねることではあるのだが、何をやってもミネは堪えなかった。
「機嫌が悪いね。どうかしたのかい?」
そう問いかけてきたのは、久々に訪問した透明だ。
透明の瞳に映る永夜子は以前にも増して丸みを帯びている。それもそのはず。永夜子の数の少ない罵詈雑言も慣れてきたのか、気にした様子も無く飄々と現れるミネに腹が立つことこの上なく、以前は巫女を虐げることで晴らしていた苛立ちを発散する場所が無い。そうなると永夜子は物に当たったり、食に走った。結果、永夜子の体重は大幅に増加していた。
自分でもかなりの勢いで肥えたことは知っている。だから透明の膝には乗らず、ぶすくれた顔で横に座っていた。
せっかくの透明の来訪なのに、あの女のせいで全く楽しめない。ああ、腹が立つ。腹が立つ!
「はい、大丈夫です」
出された茶菓子を吸うように頬張り、よくも噛まずに飲み込む。そんな乱暴な永夜子の姿でも、透明の神女を見る目は変わらない。怒っている姿すら面白いものでも見るようにクスクスと笑っている。
「そうは見えないんだけど……余に話したくないことかい?」
「いえ、本当に大丈夫ですので!」
「そう? でも、せっかく永夜子に会えたというのに、他のことに気を散らされると寂しいかな」
「う……すみません。気を付けます」
「そうしてくれると嬉しいな」
透明が苦笑して永夜子の肉の張った肩を抱き寄せる。あまり体に触れて欲しくは無かったが、やはり愛しい男性に触れられるのは嬉しいもので振り払うことが出来ない。なるべく体重を掛けないように力を入れるが、側頭部を優しく包まれて透明の肩に頭を預けさせられる。大きな手がポンポンと頭を撫ぜた。
「永夜子、もうすぐ十六の誕生日だね。何が欲しいものはあるかい?」
「え! いいんですか?! そうですね、新しい着物も欲しいですし、お香も欲しい……あ、透明様とお出かけもしたいです! あ、そういえば新しい遊戯盤も欲しいしかも……ああ、でもせっかく誕生日なんだから髪飾りの方がいいかしら……どうしよう~!」
現金なものである。突然指を折りながら元気になった永夜子を、益々面白そうに見る。
「君は色んなものを欲しがるね」
「ええ、だって透明様は美しいんですもの。隣に並んでも恥ずかしくないように着飾りたいんです!!」
「別に永夜子は永夜子なんだから、気にしなくてもいい」
『どんな永夜子であろうと、永夜子は永夜子』
不意に、夢で透明が発した言葉と目の前の透明が発した言葉が重なった。ひくりと息が詰まる。
何故、こうも夢に重なることが起きるのか。二度あることは三度あるという。
このままでは本当に透明があの女に奪われてしまうのでは。
恐ろしい考えが浮かび、思わず透明の衣を掴んだ。それを見て、再び閃きが過ぎる。
「どうしたんだい、永夜子」
「透明様。透明様はどうして白ばかりお召しになるんですか?」
「……いきなり、どうしたんだい?」
「夢に赤を纏った透明様が出てきたんです! 白も素敵ですけども、他の色もお召しになる透明様を見てみたいと思いましたの!」
「成る程ね。赤、か……」
含みを持たせたように透明は形のよい顎に手をやる。
永夜子の閃きはほんの些細なことではあったが、夢の中の透明が白い着物であったのなら、現実は他の色の召し物にしてもらえばいいじゃない! 赤を選んだのは夢で印象的だったから。
「永夜子が言うなら着てみたいとは思うが、余は白が好みでな。それに、他の色を纏うと周りが騒がしくなる。面倒ごとは避けたいのでな。すまん」
「残念ですわ……あ、じゃあ、髪はお切りになりませんの?」
「髪を?」
流石にこの発言には驚いたようだ。白眼を丸くしている。
神女とその眷属は髪を切るのは恥ずべきだとされているのは、夜の女神が長髪であったことの他に、天子が髪を切らないことにも起因していると書物に書いてあったのを思い出す。光明の神が長かったという話は伝えられてはいないのだが、二柱の眷属は髪は切らないものと暗黙の了解ができていた。
故に、永夜子の質問は青天の霹靂であったようだ。
永夜子としては、着物が替えられないなら他に替えられるものは髪以外ない。幼い頃から髪を剃られ続けていた永夜子だからこそできる質問だった。
僅かの思案の後、透明は肩眉を上げて永夜子を見る。
「髪を切るものだとは考えた事が無かったな」
「無いんですか?!」
「ああ、無いな。別に煩わしくもなし」
透明は自身の髪を一房掴んで弄ぶ。白い長髪は絹糸のように細く、艶やかな色を放つ。その髪で布を作った着物はきっと素晴らしい出来になるだろう。その衣を纏うのが自分であったらいいのに。まぁ、きっと材料が足りないから無理だろうが。
「言ったあたしが聞くのもなんですけど、髪を切らないのにはなにか理由があるのかと思っていました」
「いや、特にないな。誰も何も言わぬし、君に言われるまで気付きもしなかった。今度切ってみようか」
「本当ですか! 是非! あ、切ったらお守りにするんでその髪ください!」
「構わないよ」
「本当?! ありがとうございます! 透明様、大好きです!!」
一も二も無く快く了承してくれた透明の首に腕を回して飛び付く。その拍子に衣の袖が食器に当たり、茶が床に零れる。
「おっと……。人を呼ぼう」
透明が傍にあった呼び鈴の紐を引く。甲高い鈴の音が響くと、暫くして足音が聞こえてくる。
透明がいる間だけ、傍仕えは別の者に変えている。だからこの呼び鈴に応じるのはミネより以前の巫女。
その筈だった。
「お待たせいたしました。お呼びでしょうか」
来たのは、ミネだった。
何故、この女が。血の気が引く。このままでは。
「茶を零してしまった。布巾を持ってまいれ」
「かしこまりました」
透明がミネに命じる。ミネはそれに応じた。
透明は御簾ごしに巫女を見た。ミネもちらりと見えない天子を盗み見た。
それだけで、永夜子の冷えた体は一気に熱を取り戻し、怒りが頂点に達した。
天子の素顔を見た罪人。ミネの罪状はそれだった。
幾らミネが見ていないと言っても、周りが庇おうとしても、神女は見たと言って聞かなかった。
誰も切りたがらないミネの髪を切った。指先程なんてものじゃない。かつて自分がされたように、かみそりで剃ってやった。暴れるので傷はついたが永夜子の知ったことではない。衣を剥ぎ取り、薄い襦袢一枚にすると、池の氷を割り、桶で掬った水を頭からぶちかける。がたがたと震えるミネに用意させた熱湯を浴びせ、苦しむミネに再度冷水を浴びせる。それを息が上がるまで繰り返すと、哀れな少女を裏口から放逐した。
永夜子は知らなかったが、都の片隅で暴漢に襲われ聞くに堪えない姿となった少女が見つかったと、巫女たちの間で噂された。
これで憂いは無くなった。あの夢の出来事は起きないことは確実。
「ああ、スッキリした!」
口が裂けんばかりに大きな笑みを作り、神女は天井に向かって大声で笑った。
そんな出来事も、半月も経てば永夜子は忘れてしまっていた。
傍仕えを前の巫女に戻し、今まで通り好き勝手に過ごしている。
もうすぐ春が来る。ここ最近で最近では日中は火鉢が無くても過ごせるが、やはり夜はまだ冷える。
その日も、傍仕えの巫女に火鉢の管理を任せて布団に入る。
蝋燭の火を消せば、辺りは闇に包まれる。月の無い夜であった。
どれくらい眠ったか分からない。突然、荒々しく胸倉を掴まれて永夜子は目を覚ました。
「だれ」
誰何の途中で横顔を思い切り殴られる。
衝撃で二の句が継げぬまま反対側も殴られる。その拍子に手から胸倉が離れ、永夜子の体は畳に叩きつけられた。何が起きたのかわからないまま、寝間着の裾を乱れさせながら呼び鈴の紐を掴む。
「だ、誰か! 誰か来なさい! 狼藉者よ!!」
あらんばかりの声で叫ぶ。しかし、後ろ髪を掴まれて呼び鈴から無理矢理引き剥がされた。ぶちぶちと髪が抜ける音がする。しかし、呼び鈴は鳴らしたし声も張り上げた。すぐに誰かしらがやってきて、この乱暴者を捕らえてくれるだろう。腹を思い切り蹴り上げられ、夜食に食べたものが床にぶちまけられた。
痛い。くそが。神女のあたしになんてことをしやがる。捕まえたらこの痛み以上の目に遭わせてやる。早く来い愚図どもが。
吐瀉物を吐き散らしながら思う。
しかし、幾ら待っても足音一つしなかった。顔面を壁に叩き付けられ、大きな音を立てても誰一人駆けつけてくる者は無かった。
「あにやってんのよグズども! がみべのあだじが呼んだら来いっていっつも言ってるでしょうが!!」
怒鳴るが、それでもやはり反応はない。それどころか狼藉者の怒りを誘ったようで、後頭部を踏まれるように押さえつけられて自ら吐いた吐瀉物に顔を埋める。吐瀉物の臭いに再び吐き気を催した。
足裏で床に頭を押さえつけられたまま、後ろ髪が引っ張られる。狼藉者は懐から取り出したものを、真っ直ぐ伸された黒髪に当てが割られる。
ざり。ざりり。
その音に聞き覚えがあった。だが、音がする度に軽くなる頭と、さらさらと音を立てて落ちてくる何かに、永夜子は目を見張った。
「ちょ、やべ、やべで! ぎらないで!! あだじのがび!! ぎらないでぇ!!!!」
それは、真っ直ぐな永夜子の髪。透明が好きだと言っていた自慢の黒髪だ。それが切られている。狼藉者の手で無残にも散らばるそれを止めたくて暴れるが、全く意に介されておらず、永夜子の髪は全て切り落とされた。
それが終わると再び殴られ、蹴られ、暴行を繰り返される。骨が折れる音が何度か響いたが、すぐに別の激痛に襲われた。最早どこがいたいのか永夜子にはわからない。くまなく殴られ、全身が麻痺していた。
やがて永夜子の全身から抵抗する力が失われると、侵入者は暴行を止めた。獣のような荒い男の息と鉄臭い匂いが部屋に充満している。
男は息が整うと、死んだように横たわる永夜子の短くなった髪を掴み、外へと引きずり出す。
顔はぼこぼこに腫れ上がり原形を留めていない。寝間着はぐちゃぐちゃに乱れて、これでもかというほどに痣を纏った肌が露出しているが隠す気力も無いし、そもそも両腕は折られていた。
ずるずる、ずるずると引きずられていく。建物から出て、石畳を滑り、音を立てて砂利を行く。男が向かう先は正門だった。本来そこに居るはずの門番はいない。
永夜子が一縷の望みを持って顔を上げた。外に出れば誰かいると思った。誰かが気付いてくれると思ったのだ。
だがやはり、男に引き摺られる永夜子を助けに来る者はいない。
代わりに見つけたのは、建物から向けられる幾つもの視線だった。
そう、来ないわけではないし、来られない訳でもなかったのだ。誰も、来る気が無かったのだ。狼藉者の存在は、この館に居る者は誰しも最初から気付いていたのである。気付いていながら敢えて誰も止めなかったし、永夜子にも伝えられなかった。
永夜子は、見殺しにされていた。
だが、永夜子はそう思わない。
何故なら自分は神女だから。助けるのは当たり前。
助けないなんて有り得ない。本当に役に立たない愚図共め。
助けに来ないのはあいつらが愚図だから。
全部愚図なあいつらが悪い。あたしは悪くない。何にも悪くないのに、こんな酷い目に遭っている。
それなのに、助けに来ないなんて有り得ない。
「ぐず……どぼ……。あだ、じを……だれ、だど……おぼ、でるの……がびべ……がびべよ……あんだ、だじ、なんが……どよあぎら、ざば、にいい、づげで……ごぼじで……やる……!!!!」
男は足を止めた。振り返ると、永夜子の顔を思い切り砂利のに叩き付け、その上から踏みつける。痛みで声なき声を上げるが、それすらも耳障りだと言わんばかりに後頭部をぐりぐりと力を込めて踏み付けられた。
視界の端に視線を感じる。耳鳴りが響く聴覚に嘲笑う声が聞こえる。
見てる。笑ってやがる。あいつら。神女のあたしを。助けもせずに。
痛い。痛い。くそう、笑ってやがる。助けにこい。あたしを誰だと思ってるの。
神女のあたしが呼んでるんだから早く来い。痛い。くそどもが。見てんじゃない。早く助けに来い。
見てんじゃない。来い。痛い。見てるな。来い。見るな。こんな汚い姿透明様に見せられないじゃない。
透明様。助けて。痛い。見てるな。来い。見るな。透明様。助けて。見るな愚図ども。
痛い。痛い。こんなボロボロの醜い姿、透明様に嫌われちゃう。早く来い、愚図ども。
見るな、見てるな。見るんじゃない。見るな。見るな。見るな。
見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな!!!!