第二夜 遊女ノ娘 之夢1
ゆっくりと瞼を持ち上げると、見覚えのない天井が目に入った。何度か目を瞬かせ、意識が覚醒していくにつれてそれが見慣れた自室の天井だということに、永夜子はぼんやりとした頭で気付いた。
ううーん、と唸りながら厚い綿の入った布団から手を出し、大きく伸びをする。冷たい空気が入り込んできた途端、自身の置かれた現状を把握した。
身を翻して腹這いになると、枕元にある紐を引く。りんりんりんっ、と紐を引く度甲高い鈴の音が響いた。それから僅かに間が開いて、廊下の方から近付いてくる衣擦れの音がする。外の廊下と部屋を隔てる戸が開く音が何度かして、部屋に誰かが入ってきて御簾の向こうで頭を垂れた。
「お、お待たせいたしました、永夜子様」
「遅い」
入ってきたのは黒髪の娘だ。急いできたのがわかるような荒れた呼吸を隠すような声だが、永夜子はにべもなく切り返す。
「も、申し訳ございません」
「傍仕えの癖に、呼んだらすぐ来ないってどういうことよ。何をしていたのよ」
「申し訳ございません……巫女の一人が体調を崩し、臥せった為、その分のお役目を」
「あー、それにしても寒いわね。これじゃあ起きる気にもならないわ。どうしてこんなに寒いのかしら。おかしいわねぇ」
何をしていたと問うたくせに、永夜子は全く興味を示さず話を遮る。下仕えの者たちの動向などどうでもよかった。何よりも優先すべきは自分、それだけ。
昨晩から雪が降ってきていたのは知っていた。永夜子は寒さが好きではない。故に、室内を温める火鉢の火を絶やさないようにと、目の前の少女に告げていた筈なのだが、室内の体感温度を鑑みるに火は弱まっているようだ。
「! も、申し訳ございません! 只今確認いたします!」
少女は慌てて火桶に炭をくべていく。火は徐々に復活していくが、永夜子が暖かな布団から出る温かさになるにはまだ時間がかかりそうだ。
「あらあら、何、火が消えそうだったの? おかしいわね、あたしは火を絶やさないようにって言い付けていた筈なのに。もしかして、聞こえていなかったのかしら?」
「そ、そのようなことはけして……。他のお役目に携わっており、火の管理を怠っておりました、申し訳ございません」
「へえ、そう。ちゃんと聞こえてたんだ。じゃあよっぽど、主人であるあたしの言いつけよりも大事なお役目だったんでしょうね」
「そ、そのような訳では……」
「じゃあ何? ちゃんと聞こえてたし、何よりも優先すべき主人の命令であることも理解していたくせに、なんだかんだ言い訳して火の当番を怠っていたって訳?」
「い、いえ! あ、そ、その、ほ、本当は代理の者に火の当番を頼んでいたのです! ど、どうやらその者が怠ったようで……」
「お黙り。あたしは貴方に言いつけたつもりだったんだけど」
「……も……申し訳ございません……」
「あーあ、栄えある“神女の巫女”の中でも特に名誉である筈の傍仕えが、主人の意に反するとはね。これは主上に報告した方がいいかもしれないわ」
「そ、それだけはお許しください!! 申し訳ございません! 今後は気を付けますので、何卒ご慈悲を……!」
一方的に永夜子に責められ、小さくなっていった少女がその言葉に反応して勢いよく頭を下げる。
“神女の巫女”とは、女神の生まれ変わりである神女に仕える、黒髪・黒眼の女たちだ。夜の女神の眷属の証として、黒髪・黒目の者は男女問わず讃えられ、中でも女性は神女の身の回りの世話をする巫女として宮中に召し上げられる。本来、神女の最も近くに置かれる巫女は栄えある役目として、一目も二目も置かれる立場にあった。
幼い頃に巫女として神宮に召し上げられ、一カ月ほど前に永夜子の傍仕えに抜擢された時、娘はまさに天にも昇る気分だった。郷里の親兄弟も大層喜び、一族を上げて娘の出世を見送ってくれた。しかし、蓋を開ければ中身は非道なもので、神女である永夜子は理不尽で無慈悲なことばかり押し付け、飛んでくるのは罵詈雑言ばかり。
火の当番は本当に他の巫女に頼んだのだ。この寒さで洗濯をするのが嫌だと愚痴っていたので、代わりに名乗りを上げた。永夜子の世話をするくらいなら、冷たい水に触れていたほうが何倍もましだったから。代わりといっても、どうせ昼まで起きてこない永夜子の部屋の火鉢の火を絶やさないようにするだけ。他のことは何も頼んでいない。その巫女もそれならと了承してくれたはずだった。どうやらその巫女も、娘同様一時でも永夜子の部屋に近付くような役目はしたくなかったようだ。
裏切られたのと騙されたのとで、娘の中には怒りと悲しみが沸き上がっていた。
しかし今は、主人の怒りを収めなくてはならない。神女の傍仕えを辞めさせられるのは大変不名誉なことで、それが天子に告げられるとなると親兄弟や一族にも迷惑がかかるのは間違いない。
ご慈悲を、お許しを、と繰り返し、畳に額を擦りつけんばかりに低く下げられた後頭部を、永夜子は愉快そうに顔を歪めて笑った。
「まあいいわ。それよりもさっさと顔を洗う湯水を準備しなさい」
「は、はい……」
「早くしなさい、愚図」
失礼します、とか細い声で告げて部屋を出て行った巫女を見送って、永夜子は大いに満足したように肩まで布団にもぐった。永夜子が部屋を出たくなるような温かさになるまでまだ時間がかかる。
(ああ、すっきりした)
起きた時は忘れていたが、部屋に来た巫女の波打つ黒髪を見て、永夜子は夢の内容を思い出した。
夢の中には愛しの婚約者が出てきて、二人で月見会をした。それは良かった。しかし隣にいたのは永夜子であって、永夜子ではない。永夜子と呼ばれていたが、そこにいたには似ても似つかぬ年上の娘だった。
(神女はあたしよ!)
娘は恥知らずにも唯一無二の存在である神女を騙り、永夜子の大事な人を誑かしていた。最後は血を吐いていたようだが、恐らく神女を騙った神罰が下ったのだろう。ざまあみろ、と残忍に笑って髪を撫でる。真っ直ぐの長い髪。美しい婚約者から美しい、ずっと触っていたい、と言わしめた自慢の黒髪だ。
「ぐにゃぐにゃに歪んだ髪なんて、お呼びじゃないのよ」
夢の中の永夜子と傍仕えの巫女を思い出し、勝ち誇ったように言い放つ。
ややあって、先程の巫女が湯水を張った桶と顔を拭くのに使う布を持参する。
「お待たせいたしました、湯水をお持ちいたしました」
「遅いわね、愚図。さっさと持ってきなさい」
「申し訳ございません」
部屋の温かさはようやく及第点だ。上半身を起こすが、下半身は布団から出ない。本来は布団から出て顔を洗うのが常識だが、この物臭も永夜子に限っては許された。だって寒いし。
上がった御簾の向こうから、波打つ黒髪を持った美しい顔立ちの娘が暗い面持ちで現れた。夢の中の永夜子と同じ髪だが、それ以上に美しい顔立ちの娘だった。収まった筈のイライラが蘇る。顔を拭うようにと渡された温かい布を差し出され、手に取る。すぐに巫女の顔に叩き付けた。
「熱い! あたしに火傷させる気!?」
「も、申し訳ございません!!」
勿論全く熱くない。寧ろちょうどいい温度だった。水分を含んだ布を顔に叩き付けられた巫女の顔は湿り気を帯びて赤くなっていく。
「もういいわ! さっさと着替えを持ってしなさい!!」
巫女が桶をもって下がる。次は妙齢の巫女が五人、永夜子が挨拶をしながら永夜子が着替える豪奢な着物一式と化粧道具を持って現れた。着物を一瞥する。黄色を基調にした、鮮やかな刺繍を施された着物で、昨日買ったばかりのものだ。なんとなく、夢の中で見た強烈な色を思い出した。
「やっぱり今日は赤色の着物を着るわ」
え? と辛気臭い顔をしていた巫女たちの目が丸くなる。その呆けた顔の愛らしさに、永夜子はまたイラッとする。
「聞こえなかった? 今日は赤い着物を着るわ」
「し、しかし、今日はこちらをお召しになると昨晩……」
「愚図のあなた達の為に、もう一度言ってあげるわ。赤い、着物が、着たいんだけど」
一句ずつはっきり言いながら目を細めて睨むと、巫女たちはびくっと体を揺らして青ざめた。すぐにお持ちします、と慌てて下がろうとする。
「それから、今日は髪飾りを取り扱ってる商人を呼んでおいて」
「は……し、しかし、昨日はこちらの着物と、合わせた飾りも幾つか購入していたのでは……」
「そうよ? だから何?」
「い、いえ! なんでもございません!!」
「早くしてよね。あんたたち愚図の為に、先に朝餉から済ませてあげるわ。さっさと持ってきなさい」
はい、と泣き出しそうな悔しそうな顔をしてが下がっていく。
次に現れたのは年嵩の巫女だった。膳の上にはご飯と汁物の他に野菜の煮付けや山菜、野菜など、栄養を考えられている鮮やかな料理が数種類並べられていた。が、永夜子は自身の前に置かれたそれらを、眉間に皺を寄せて汚いものをみるように見下ろす。
「なにこれ。まずそ」
「永夜子様。これは民が貴方様に食べてほしいと献上した食材で作ったものです。何卒お食べください」
「イヤよ」
「永夜子様、今の季節をお考え下さい。本来冬に山菜など食べられません。それでも民が冬でも永夜子様の舌を楽しませるようにと大事に保存していたものなのですよ。その気持ちを無碍にするおつもりですか?」
流石に年嵩の巫女は真正面から永夜子に意見する。この巫女は永夜子が十歳の頃に神女に選ばれた時からずっと世話をしていた巫女だ。この強気な姿勢はその頃を知っているからだろう。呆れを含んだ目で睨まれて一瞬怯むが、すぐにふんと鼻であしらう。
「なにそれ。別にそんなの頼んでないわよ。というか。夏からずっと保存してたってこと? それ絶対腐ってるじゃない。神女であるあたしに腐ったものを食べさせるつもり?」
「腐っておりません。氷室で大事に保存を……」
「そんなことどうでもいいわよ。こんなの絶対食べないわよ。そうね、昨日商人から献上されたお菓子もってきなさい。今日はそれでいいわ」
「それはなりません。菓子はあくまで嗜好品。きちんと栄養のあるものを食して頂かないと、お体に障ります」
「煩いわね! こんな不味そうなもの食べる方が体に悪いわ! さっさと言う通りにしなさいよ、愚図!!」
膳を持ち上げ、年嵩の巫女に向かってぶちまける。食材を頭からかぶった巫女の衣に染みが滲み、畳に食材や食器が転がった。それらを者悲し気な瞳で見つめ、顔を上げた巫女は居住まいを正し、頭を下げた。
「――もう我慢できません。お暇させていただきます」
何の感情も籠ってない声でそう告げられた。
辞めさせられるのは不名誉だが、辞めることは自由だ。その場合はそれ相応の理由がいるが、この年嵩の巫女はもう引退してもおかしくはない年齢だったのだが、この傲慢な神女を人よりもいなすことが出来るのは彼女自身しかおらず、周りの懇願を受けて今まで残っていた。だが、年々悪化する性格は抑えられず、こうも民の思いを無碍にし、巫女を虐げる人間の傍にいる根気は残っていた無かった。
「勝手にすれば。別にあんたがいなくなっても別の巫女がくるだけなんだし」
ここに来たばかりの頃、周りの状況を読めずにビクビクしていた幼子。神女であるというのに不憫な待遇をされていた彼女を哀れに思い、誰よりも可愛がっていたのは自分であった。
母のような存在の思いなど知るよしもなく、永夜子は、はん、と嘲笑う。幼かった頃の永夜子の無邪気な笑顔を思い出し、心が締め付けられる。
「……六年前、娼婦の娘と揶揄され、辛い人生を歩まれた貴方を、帝の命とは言え甘やかすだけ甘やかしてしまったのが悔やまれます」
瞬間、永夜子の表情から色が消える。
悲しみに襲われ、口を滑らせたそれは、永夜子に言ってはいけない言葉であった。