プロローグ 『羽化』
ネモトハルと申します。どうかお見知りおきくださいませ。
傷ついた少女を抱きかかえ、何度も思考する。
――私には何ができる?
無惨にされた教会の大きなステンドグラスから差し込む黄昏の淡い陽光がすでに消えたが、倒された蝋燭の火は木片に移り燃え始めた。この規模だと全焼するのに20分はかからない。熱と硝煙が少しずつ空間を蝕んでいく。
この状況下で考えることのできる全ての行動はどれも詰み。
将棋で言うならば投了、チェスで言うならリザイン。
希望的観測をすることすら許されない八方塞がりの絶体絶命。
時間とともに『可能性』は少しずつ確実に溶けていく。回避することは時間的にも、能力的にも不可能。
絶望も嘆きもしない。次から次へと足らない頭を捻り続ける。
恐怖を殺すほど動き続ける感情は、腸が煮えくり返りそうなほどの怒り。
関係のない人を手にかけたこと、そして何より、彼女を侮辱するように嬲り大きな傷をつけたことに対する怒り。
彼女と僕は偶然、そこに居合わせただけの人間だ。互いに言葉も通じない名前もしらない人間同士だ。
そんな他人同然の人間のために怒るのは偽善であるのは重々承知だ。弱くて脆い仮初の正義だ。それでも、目の前の奴が憎い。
奴は余裕だろう。私がもし奴なら歯牙にもかけない。
あのカマキリ擬きにとっては目の前の生物は道を歩く小さな蟻のような、殺したことも気が付かない矮小な下等生物程度しかないのだろう。
ただ、間違ってもらっては困る。踏みつぶされるだけの蟻にも蟻の矜持があるってことを、強者に噛みつく意思があるってことを。
ダメもとだ。一発でいい、ただ一発かませればいい。
どのみち、どう考えても二人同時で生きて帰ることはできない。どちらかが死ぬか、どちらも死ぬかの二択しか存在しない。なら、やることをやって死ぬ。それが残された時間の有効な使い方だと思う。
彼女の右手に握られている様々な意味でミスマッチな鉄の塊を手に取った。
そうだ......考える以前に方法はこれしかなかった。この絶望的な状況を壊せるかもしれない、唯一にして最後の手段。
「......ありがとう」
安らかに眠る彼女に最後になるかもしれない言葉を呟く。最後に見る人が彼女のような綺麗で高潔な人で良かったと本当に思う。
願わくば彼女がここから無事生還してほしい。
彼女に上着をかけ、奴の前に立った。
持ち手と思われる革製のグリップを軽く握り、それを頭の近くまでもっていった。そして、太め胴体から伸びる先端を自分のこめかみに突きつけた。そして、ゆっくり親指で撃鉄を起こす。
カチリ。
唐突にしっくりとはまったような金属音に化け物の態度が一変した。同じように前腕から先がチョコレートのようにドロドロに溶けた。そしてそのドロドロに溶けたモノは水が氷へと変化するように硬質で鋭利な鎌へと変形させた。
安心した......相手にされなければどうしようかと考えていたところだ。
人差し指を引き金に引っ掛けた。
笑ってしまう。今の私は傍から見ればこめかみを打ち抜いて自死しようとしている頭のおかしくなった人間だ。
面白い、それでいい。頭がトチ狂わなければ意味をなさない。
思考をフラットに......瞳を閉じて一気に引き金を引いた。
『イキノコリタケレバ、ヤレ』
ありがとうございました。
思いつき投稿のため更新は不定期となります。