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三十話 一番、

 待ち望んだバレンタインデー当日になる。

 明日は有給休暇を取得した。華恵(はなえ)も問題なく休めたと聞いている。

 仕事をこなし、早めに帰宅。部屋の中を見渡して最終チェックだ。


 時間が迫るにつれ、緊張で死にそうになる。やけに喉が渇き、水を飲んでトイレが近くなってしまったり。

 せっかく掃除したのにな。

 クリスマスイブの時以上に気を遣って綺麗にしたんだ。部屋はもちろん、トイレや風呂も。


「あ、風呂!」


 風呂で思い出した。俺、風呂に入っていない。

 冬とはいえ、一日仕事をしたのに風呂に入っていないのはまずい。不潔な男は一番嫌われる。

 時間はあるか? 長風呂をする気はないから、軽くシャワーを浴びるだけでも。


 とか考えていたら、インターホンが鳴った。

 華恵がきてしまった! 段取り悪過ぎだろ!

 待たせることもできないし、仕方なく部屋に招き入れる。


「お邪魔します。うー、寒かった。コタツコタツ」


 まるで自分の家のような気楽さで、華恵はくつろぎ出した。

 コートも脱がないままでコタツに入り、ぐでーっと


「い、意外と早かったな」

「そう? むしろ遅いと思うけど。一旦帰って着替えてきたし」


 言われてみれば、華恵の服はスーツじゃない。私服だ。

 時間だって、いつの間にか夜の十時になっている。俺が帰宅したのは七時頃だったし、三時間もたっていたのか。


「最初に渡しておくね。はい、チョコレート」

「ありがと」


 ロマンチックさの欠片もないシチュエーションでチョコレートをくれた。


「手作りはやめといたよ。おいしくないチョコより、お店のおいしいチョコの方がいいでしょ? それ、たっかいよ。ここぞとばかりに高価な代物を買わせようとする、大人の汚い策略が透けて見えるね」

「お前は、チョコレートやお菓子会社に恨みでもあるのかよ」


 俺は単純だから、チョコレートをもらえれば嬉しくて、もらえなければ悲しい。

 ただそれだけだ。策略だのなんだのとは考えない。


「恨みはないけどさ。あたしもチョコは好きだし、それだって自分で食べたいくらいだよ」

「半分食べるか?」

「いくらあたしでも、恋人にあげたチョコを食べたりしないって。代わりに、ホワイトデーのお返しよろしく。おいしいチョコがいいな」

「俺が聞いた話だと、女性が喜ぶプレゼントは形に残る物ってことだったが」

「あたしはチョコがいい。クッキーでもケーキでもいいけど、おいしいやつ」


 相変わらずだ。チョコレートを渡してくれた時もそうだが、情緒も何もない。

 今さらだな。これが俺たちだってことだ。

 なんか、緊張するのがバカらしくなってきた。

 華恵がこれを狙ったのだとすれば凄いが、素の態度だろう。


 俺もコタツに入ってくつろぐ。暖房はつけているが、コタツは別のよさがある。

 話をするでもなく、テレビを見るでもなく、二人してコタツに入りゴロゴロと。


「華恵、今日は泊まる?」

「そのつもり。チョコを渡すだけなら、もう用事は済んだし帰ってもいいけど」

「帰らないでください」

「分かってるって。あたしも泊まりたい」


 俺のアパートで飲んだことはあっても、泊まるのは初めてだ。

 華恵も泊まりたいって言ってくれている。彼氏の部屋に泊まると。

 そういう意味だってことでいいんだよな?


「俺、風呂に入るが」

「どうぞ。次はあたしね」


 コタツでリラックスする華恵は、態度とは裏腹に重要な発言をした。

 彼氏の部屋で風呂に入る。これはもう、決まりだろ。

 さっとシャワーだけを浴びて、すぐに出る。次は華恵も風呂に入って行った。

 華恵の様子に変わったところはない。特別なことは何もしませんって感じだ。

 俺にとっては物凄く重要で特別だが、華恵は違うのか……


 くだらない悩みかもしれないが悔しい。

 こういう気持ちがあるからこそ、処女が好まれるのかな。

 華恵が処女じゃないのは知っているのに、マジでくだらない悩みだ。


 ベッドに腰掛け、思考にふけっていると、華恵は風呂から上がった。

 パジャマを着ている。ネイビーの生地に白い星が散りばめられたパジャマだ。夜空を連想させて可愛らしい。

 俺の格好は、地味なグレーのスウェットだが、別のやつにすればよかった。


「お待たせー」

「お、おう……」


 風呂から上がった華恵が俺の隣に座った。二人分の体重がかかり、ベッドがきしむ。

 この辺りからは、俺の頭は真っ白だ。考える余裕すらなく体が動く。

 華恵と手を重ねる。そのまま顔を近づけ、キス。


「好きだよ、華恵」


 この言葉も、半ば勝手に出た。

 喜んでもらおうとしたとか、格好つけようとしたんじゃなく、勝手に。

 珍しく、自分を誇りに思った。童貞を捨てるためだけの相手として見ているのではなく、本気で華恵が好きなんだなって。

 幸せだとも思う。好きな人と初めてを迎えられる俺は、とても幸せ者だ。





 今、何時だろう。時間も忘れるほど夢中になっていた。

 最高の時間だった。うまく言葉にならないが、あえて言うなら。


 満たされた。


 終わってみれば、こんなものかってなる?

 全然違った。酒よりもタバコよりも中毒性があるな。

 比較対象として出てくるのがこの二つってのは、俺も大概バカだ。


「つまんない話をしてもいい?」


 俺に抱きつくように寝ている華恵が、不意に言った。


「どんな話?」

「三ヶ月。あたしが彼氏と付き合った最長記録ね」


 この言葉には腹が立った。

 せっかく恋人と初めての体験をしたって時に、昔の男の話?

 デリカシーがないし、いい気分だったのに台無しだ。


「ごめん。嫌だとは思うけど、今だからこそ聞いてもらいたくて」

「……話して」

「うん。前も言ったけど、長続きしなかったの。やることやったら、もういいやって感じでさ」

「おい待て。俺が華恵と別れるとか思ってるんじゃないだろうな?」


 童貞ではなくなったから、もういいと。

 童貞を捨てたい捨てたいとしきりに訴えていたわけだし、そんな男だと思われても仕方ないが。


「違うって。京侍(きょうじ)がそんな人だとは思ってない。なんて言えばいいんだろ、あたしってそれなりに恋愛経験があるつもりだったのね。初体験の時は緊張したけど、今はそうじゃなかった。童貞の京侍に教えてあげようとか余裕かましてた」


 俺にとっては特別でも、華恵は違う。

 そう考えたのは、あながち間違っていなかったんだな。


「何人も彼氏がいた。性格も色々で、会うたびにエッチしたがる人とか、奥手で優しい人とか。遊び慣れてる人もいたね。女の扱いがうまかった」

「俺の心に多大なダメージが入ったぞ」


 遊び慣れていて女の扱いがうまいって、要するにベッドの上って意味だ。

 そりゃあ、童貞の俺がうまくできたかっていうとあれだが、比べられると辛い。


「初めてでうまくできる方が変でしょ。風俗に行ったのかなって疑うよ」

「嘘でもいいから、うまかったって言って欲しい」

「うまくはないね。下手くそだった」


 下手くそ……そっかぁ……

 はっきり告げられると、さすがにショックだ。

 どんどん落ち込んでしまうじゃないか。どうしてくれる。


「多分、こうやって他の男と比べられるのが嫌だから、男は処女を望むんじゃないの? 一人しか男を知らなければ比べようがないもんね」

「否定はできないな。実際、下手くそだって言われてめっちゃショックだ」

「ごめん。デリカシーがないとは思ってるよ。でもさ……」


 言葉が止まる。

 華恵は一生懸命に言葉を探しているようだし、俺も待とう。


「……やっぱやめた。言わない」

「ここでやめるのかよ!」

「うっさい。あたしの黒歴史になるし、絶対言わない。クリスマスイブの時みたいな過ちは繰り返さないって決めたの」


 つまり、キザなセリフなんだな。

 となると、是が非でも聞きたくなる。


「聞きたい」

「嫌」

「お願い」

「嫌! しつこいと、もうエッチさせてあげないよ!」

「ごめんなさい!」


 切り札を切られてしまえば、俺にはどうすることもできない。

 口惜しいが、聞き出すのは諦める。


「ま、まあ、とりあえず童貞卒業おめでとう。三十歳になって、ようやく男になれたんだし、感謝してね」

「はいはい、ありがとさん」


 そうなんだよな。三十歳童貞だった俺はもうおらず、初体験を済ませたんだ。

 不思議な気持ちだ。

 できれば甘酸っぱい空気になってもらいたかったが、俺と華恵だからならないのは仕方ない。軽口を叩き合った。

 そのうち眠くなったし、俺は寝る。明日は休暇だからゆっくりと。















「一番、好きだよ。一番、満たされたよ」

次回、最終話です。

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