Ⅸ
それはまさしく夢であった。なぜならいろんな種類の時計があちこちに半ば埋もれている、どこまでも続くような砂漠を全然感覚もなしに歩いていたからである。
かと思えば砂漠は海に変じる。時計の次々と浮かんでくるなかをチタは進んだ。
むこうから誰かが来る。キリだ。しかし顔面を黒く塗りつぶされている。話しかけてきたけれど、声がおかしい。幼い男声と女声とがない交ぜになっている。彼はエスと名乗った。
「云い忘れていたことがありました」
生面らしからぬ言い方だった。
「ペンタクル社の目的です」
「ペンタクル社?」
とチタはたずねる。
「私の造られた組織です。私は彼らの『高次の存在へと上昇する』目的のため、六つの世界を統合する計画の手段として生み出されました。都合六体が遍在しており、視覚と思惟を共有しています。うち三体は殺されましたが」
「どうして僕にそんなことを」
「あなたの生まれ持つ悪魔の力がかなめだからです。特殊な条件の下にしか発現しませんが」
次いでエスはその条件をあきらかにした。
一、その者のもっとも親しい人間の動静を不分明にさせる。
二、精神を極限状態にさせたのち、その者を同族の悪魔の力をもって葬る。
三、これらをそれぞれの世界において行い、その者を絶滅させる。
チタは絶句した。
にわかに信じられなかった。あらゆるチタの絶命後、世界は融合し、すべての生物の寿命と知能と身体能力が飛躍的に上昇するという。それもキリを犠牲にして、だ。
馬鹿げた話だった。しかしエスは紛うことない真実であると言う。
「じゃあエスが僕を殺すの?」
チタは訊いた。
エスはかぶりを振った。
「いえ、私はもう組織の麾下にありません。あなたの味方です。彼らが私に代わって寄こした悪魔があなたを殺めているのです」
ふとチタの脳裡に老婆の面輪が過った。
ドルだ。彼女が刺客なのだ。が、二つめの条件の『同族の悪魔の力』とはいったい?
チタがそう思うた刹那、急に不安定になる海面をはしる波に足をすくわれ、時計の鐘の音のやかましい水中に呑まれた。
肺を塩水が満たしていく。錨のように重い身体は白む底へそこへと落ちてゆく。
不思議と息苦しさはなかったけれど、そこはかとない恐怖がゆう然とわき起こり、心胆を寒からしめた。凍るようだった。でも感覚はない。
彼は自らの脳しょうが決してあらがえない冬眠におちいる夢想に浸りながら、暁光のごとく白々とした光のまにまに身をゆだねた。
⁂
目を覚ましたチタの傍には先生がいた。ベッドの側のナイトテーブルのランプのあかりをたよりに、スツールに座って本を読んでいた。カーテンのひまひまに夜空の星々がうかがえる。
チタは首筋に手をやった。傷はない。刃物の冷んやりとした触覚がありありと想起される。耳に凝るしわがれ声が総毛立たせた。夢を見た気がするが、どうしても思い出せなかった。
ぼう然とした意識のまま考える。あのドルとかいう老婆のことを、仲間と思しいバーテンダーの女性を、心当たりのない懐かしい記憶を、悪魔の彼女の真意を、ポケットの割れた小瓶の凹凸を、貨物鯨の哀しそうな鳴声を、港の二人組を、その縦に細い瞳を、死んだような家を、はじめておぼえる明確な殺意のおそろしさを、三つの銃声を、そこばくの葉脈に窄まる視界を、キリを。
......左方のいつもキリが寝床としているベッドに顔を向けた。薄闇に清潔さを保ったシーツのしわを、あまねく数えられそうだった。
——キリが帰っていない。
チタはがばと跳ね起きた。とたん、ひどい眩暈に襲われ、たおれそうになるのを先生のたくましい右腕が支えた。
「先生、キリは、キリはどこにいるの?」
とチタは哀願するように訊いた。
「わからない。『時限転草』が連れ戻したのはチタだけだった、キリにもほどこしておいたはずだが、どうしてか発芽しなかったようだ」
と先生は焦思をかくすように言った。
時限転草とはあらかじめ定められた刻限に達すると萌芽する特殊な植物で、砂つぶほどのたねは針のような形をしている。皮膚に刺さるそれが芽生えると血液を糧にぐんぐん成長し、その者は種子の生まれ落ちた場所に転移される仕組みである。先生の研究成果のひとつだ。念のため、彼らの出がけに仕込んでおいたのだ。
「あの子は私がかならず連れ戻すよ、心配ない。だからチタは休んでいなさい」
しかしチタは彼の手をはらいのけ、涙にうるおう紅に染まる眼をむき出しにして反ばくした。
「いやだ! 僕も行く。また助けられなかったなんて後悔はしたくないよ」
先生は目を見張った。
小さな拳をわななかせるチタは、自分の理解不能の記憶が言わしめている自覚もなしに、とうとうと喋りだした。絶対に知りえないはずの事柄までもを、あたかも経験してきたかのごとく話した。徐々に今のかれ自身の記憶などが混だくし、デタラメになった。止めどなく流れる涙。横隔膜のけいれんがきわやかになってきた。
そのうち言葉をつむぐことが困難になり、きたる精神の錯乱を予断した先生がチタの眉間にある物をはりつけたことによって、意識は平静なまどろみに落ちていった。
先生は少年を慎重に寝かせてやると、さらりとしたおでこの白肌をそっと撫でた。やつれた顔。薄枯れた寝息。まだ九つの彼には辛すぎる出来事であった。
......先生はトランクを持って部屋の戸口に立った。次いでちょっと見返り、「すまない、チタ、キリ」の一言を残して出立した。
その六時間後、屋敷のすべてが焼失した。
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