Ⅷ
通りを行き掛けに老婆が一台の車を止めた。黒塗りの高級車だった。ひとりでにすべてのドアが開き、運転手の男が眠ったまま路上に放り出され、彼女たちが後部座席に乗り込むと同時に発進した。一連の事象は彼女が指を鳴らすのがともなった。キリは興奮ぎみに「それって魔術?」と何度も訊いた。しかし老婆は答えず、キリの目の前で指を鳴らすと彼はたちまち意識を失った。
車は街の中を風のごとく駆って行く。車窓を隔てて外は歩道におののく人々の悲鳴や怒声、クラクション、石畳みの道路に深いわだちの音がさやかに聞かれた。チタはようやく頭痛の回復に至るも、現在の状況がよくわからずにいた。となりに居然として座る、やけに姿勢の良い老婆のようすさえ夢みたいだ。
「どうなってるの?」
弱々しい声でたずねた。が、老婆は素気なく「助かりたけりゃ、おとなしく黙ってるんだね」と言ってからは口を開くことはなかった。
長いトンネルを抜けた。あたりの景色が緑に変わった。まともに整備のされていない砂礫のみちを進むものだから、ときたま大きめの石を踏むたびに車体はしたたか揺れた。
老婆の胸のペンダントもゆれる。コイン型だ。それがむしょうに気になった。懐かしい気持ちになった。あの不明の記憶がそうさせるのだろうか、しかしチタはしばらく頭を空っぽにして外を眺めた。
......太陽に赤みが増す。ぼう洋と広がる草原は夕陽に燃えている。遠景の山々が黒くなる。
いったいどこへ行くのか、と思うやいなやエンジンの活動がだんだんと弱まり、路をすこしはずれたところで停まった。老婆は下車をうながした。そこから十分ほど歩いた。はたして一軒のあばら家に着いた。
「入りな」
キリを片腕に抱えた老婆は、粗末な木扉を押し開けた。椅子や机や台所など最低限の物しかないうら寂しい部屋を直進する。軋む床が歩数をかぞえる。足元をデブネズミが走っていった。
老婆は迷いなく奥の煉瓦で囲った簡易暖炉を足で蹴散らし、灰にまみれたバーを掴んで引き上げ、そこに隠された地下室へと続く梯子を下りた。三人くらいがどうにか生活できそうな空間に——場違いもはなはだしい——瀟洒な酒場めいた道具と女性の姿があった。雅な音楽が流れている。
なまめくカウンターテーブルの向こうの彼女はグラスを磨いたまま「どうぞこちらへ」と席をすすめた。
「ドル、その子たちは?」
「悪魔の子とその贄さ。一杯くれ、喉が渇いた」
老婆もといドルは丸椅子の高さを調整し、キリをカウンターにうつ伏せにさせながらそう言った。そうして梯子の下から動こうとしないチタを冷たい声で催促した。
「どうしたんだい、そんなところに突っ立って。こっちに来て座るんだ」
「いやだ、ここにいる」
チタは半ば震えた声で言った。小さな掛け時計が目に入った。時刻は午後五時五十分を示していた。
ドルはテーブルを背に果実酒を美味そうに飲むと、彼にあの港で何を感じたのかを訊ねた。
「何を見たんだい? 詳しく教えておくれよ」
「憶えていないから、答えられない」
「まったく? そんなはずはないだろう。断片的でもかまわないから、話してごらん」
「知らない......」
チタはうつむき加減にそう呟いたが、しかしある記憶の一場面を思い出していた。
......石切り場のようなところ、地面に散在する瓦礫のひとつに座り、コインに文字を彫っていた。それを加工してネックレスに仕立てた。手の形や目線からしてまだ幼い彼は「できたよ、ネコ」と言って、隣に居る妹にネックレスを差し上げた。なぜか顔や身体のほとんどがぼやけて曖昧なのだけれど、彼女はとても喜んでいるみたいだった。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「肌身離さず身につけておくんだよ。ネコに何かあったとき、お兄ちゃんが駆けつけられるようにね」
「わかるの? どうして」
ネコは問うた。
チタはちょっと考えて、
「そういう魔術をかけたんだ。すごいだろう」
と誇らかに言った。
嘘である。しかし彼女は、
「うん、すごい! 実はお兄ちゃんも使えたんだね。私のはちょっと怖いから、お兄ちゃんみたいな誰かの助けになるような力がよかったな」
と素直に感嘆したのち、しょんぼりしたふうに言った。
チタはネコの手をやさしく握った。
「使い方次第さ。大丈夫、ネコはとっても優しい子だから、たとえそれがどんなに危険な力でも、きっと人の役立つようにできる」
「わかった。じゃあお兄ちゃんが困ったときは、私がかならず助けてあげるね」
「そうならないよう頑張るよ」
そしてチタは青空を振り仰いだ。刷毛で掃いたような雲。天日が目にしみる。
——はやくお父さんとお母さんを助けないとな。
そう思っていると、頭にタオルを巻いた青年が休憩の終わりを告げにきた。チタは膝を叩いて立ち上がった。ネコは「気をつけてね」と彼の背中を励ました......。
記憶はそこで途切れた。
チタははっとして顔を上げた。ドルが間近に立っていた。ネックレスを突きつけ、「これに見覚えはないかい」と詰問調子に訊いた。チタはとっさに首を横に振ったが、不自然におよぐ眼に瞞着を見出したドルは不敵に口を歪ませ、「やはり知ってるね」と言った。ナイフを取り出した。漆喰の壁にチタを押しやり、刃先を彼ののど元にあてがった。
「たったいま確証を得た! ——ジャズ、手筈通りやりな」
三発の銃声がとどろく。チタはまぶたをぎゅっと瞑った。鼓膜の破れるかと思えるくらいの爆音におびえた。自分が撃たれたのではないか、しかし痛みはない。では何を撃ったのか。
こわごわ目を開けると、耳許で「次はあんたの番だよ」とささやかれた。
とたんチタの全身は種々の植物が繁茂し、わずかの間に一部の隙間なくおおわれたあと、急速に枯れていった。彼は消失した。
ドルは手にからみつく茶色に萎びた蔦を見つめて、「魔術じゃないね」と独語した。
天井からぱちぱちと木の焼けるような音、それにいち早く気づいたジャズがドルに報せる。梯子の方に目をやる。およそ怪物じみたものの迫って来るような気配。ドルは首を鳴らし、んひひと笑った。
「遅かったじゃないか、焔の悪魔」