Ⅵ
ひたすら前だけを向いて走った。恥も外聞もなかった。奇異の目を向ける行人のあいまを行き、市街地のある喫茶店の前でとうとう息が切れた。中腰になり、膝に手を置いてしばし休んだ。やがて自らの拍動とぜん鳴とに領された耳は、周囲の喧騒をはっきりと聞き分けられるようになった。
「無理に走らせてごめん。怪我はない?」
チタは振りむき問うた。うつむいていたキリが頭をもたげた。しかし彼女ではなかった。ブロンドの髪、やなぎごしの体躯、デニムのワンピース......そのどれもが先ごろの彼女と一致していたが、顔の部分だけが墨で塗りつぶされたように黒い。光をほとんど反射しない、きわめて純度の高い夜だ。
チタは思わず後退った。生唾を飲んだ。そして平らかでない精神の鎮静を待たずして訊ねた。
「キリじゃないな、だれだ」
「エスです」
それは答えた。キリの声に得体の知れないものが混じったごとく不快な声音だ。
チタは怒りに拳を握り込んだ。
「キリに何をしたの」
「今度は男装ですか」
「質問に答えて」
チタは腰の剣の柄を、水中にゆらめく灯る蝋燭に触れんとするごとく握った。
「この剣を抜きたくはない。真実だけを話して」
「私たちはあなたの味方です」
チタは眉根にしわを寄せて黙った。
エスは喫茶店の方を指で示して、
「一服どうですか」
と言った。
⁂
往来のよく眺められる窓際の二人がけの席に案内され、丸い机を央にしてチタの正面に座るエスは、注文した珈琲をひと口飲む所作をすると、悠揚せまらない調子で奇妙なことを言った。
「あなたの命はあと四つです」
「はあ」
チタは顔をしかめた。唐突になにを言い出すのだ、と思った。
「もともと命はひとつだろう。そんなことよりキリだ、君はなぜキリの姿をしている」
「この姿は見る者の最も自然なイメージによって構成されます。あなたが私を『キリ』として認識しているのはそのためです。ときによると私を聖職者、あるいは農婦と捉える人もいるでしょう」
「顔が真っ黒に塗りつぶされているけど」
「分かりかねます」
「キリの消息は?」
チタの質問に、またぞろエスは「分かりかねます」と答えた。
そして主題は初めにかえり、エスは世のあり方について説明を始めた。
「個々の魂は元は大きなひとつの塊でした。それらがめいめい等しく六分され、六つの独立した世界にそれぞれの生活をしています。ふつう個人はどの世界においても容姿や性別は同然ですが、てんでに違ったふるさとや環境に暮らしているため、知識、性格、思想などは異なる場合があります」
「いまこの世界とほかとではまったく違うのかい」
「基本的に構造のほとんどは類似しています。国や施設や動物の名称、生物相、道徳、文明、権力者、組織、貨幣などがそうです。差異があったとしても、些々たるものです」
「つまり『僕の命があと四つ』とは、別の僕が二人死んだということだ」
「はい」
「とても信じられないな」
チタは大息するふうに言った。
一拍置いたあと、子供に問いかけるような按配で尋ねた。
「どうして僕は死んだ」
「殺されました」
エスは冷然と答えた。
「いずれも焼殺です」
「そう」
チタは窓の向こうを見やった。通行人にまぎれる老執事とメイドの格好をした二人組が目についた。
老執事がつと足を止めた。半歩遅れてメイドも止まった。両者の眼差しがこちらに向いた。
「よほど僕は怨まれていたんだね」
自嘲的にチタがつぶやく。
老執事たちがむかってくる。
「私たちは救いたかった。しかしあなたは愚かにも自身の生命をおびやかし得る存在を求めてしまう」
エスは言った。
チタはいまいちどその大木のうろのような顔面に焦点を合わせた。
「あなたにもたらされた意図的な死は、他の世界のあなたに何らかの影響をあたえます。その証が今です。思い出してください、本当の生きる目的を。そして知るべきです、世界の均衡をゆるがそうと画策する者たちの正体を」
「君はいったい、何を知って——」
チタが言いかけたそのとき、窓ガラスの砕け散るけたたましい音がした。緩慢に流れる時間。宙を舞うきらめく幾多のガラス片の最中、あのメイドの飛翔する姿があった。
彼女の長いスカートから突き出た太い針のような凶器が、エスの側頭を的確に貫いていた。
「逃げてください」
エスの首が折れた。時が戻る。空間いっぱいにガラスの地に降りそそぐ音と人々の悲鳴とが、混然一体となってどよもしている。場は混沌を極めた。
チタは席を蹴立てた。しかし人影にはばまれた。老執事だった。彼は拳銃と思しき物を手にしていた。
銃口が硬直するチタの眉間にあてがわれる。
引鉄の引かれる間際、老執事の背後に炎がほとばしった。
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