II
寮舎はずいぶんと粗末だった。外観は場末の駅舎と見紛うほどだ。
中に入ると細い暗い廊下が延々と続き、左右を年季の入ったドアが居並ぶ。とりもなおさず年季の入った六畳のせまい部屋には、平均して四人の新入生が押し込められている。六年間このみすぼらしい壁の薄い部屋の埃と汗と血と涙と友情と男臭とに揉まれ、最後は別れを惜しむほど馴れ親しむことになる。しかし義務ではない。
特例がある。二年次へと進級する前にもうけられる実力考査を、ある規定の数値以上に達すればよい。
ただしたやすくはない。審査の基準値がまことに高く、被験者のほとんどがそれに満たないのだ。もしかすると、及第するのは数年にひとりという具合だ。
しかし合格してしまえば破格の待遇を受けられる。もっとも良質の座学と訓練、そして無償の食事と個室とが与えられ、いずれは国家元首直属の竜騎士に従属する。ひるがえって、一般的に卒業生は竜便局員や天空警備員など様々なありふれた仕事に就く。
ゆえに必然的に羨望の念や嫉妬を食うことになるから孤独になるのが常だが、チタはその限りではなかった。第九十六期の合格者は二名だった。奇しくもチタに伍したのがキリという青年である。竜術に長けている彼は重度の美人恐怖症で、たとえば先頃の操竜訓練——若い飛竜にまたがる彼にチタが地上を指差して「ほらごらん、あんなところに美女だ」と言ってやるとたちまち嘔吐するぐらい美女が苦手だ。
彼は理由を話さなかった。ふざけてしつこく訊くたびに拗ねては寮を飛び出し浴びるほど酒を飲み、歓楽街で美女を見かけては吐いた。チタはそんな友人のおおかた訪うであろう場所に先回りをして、ひそかにキリのじたばた模様を肴に酒精を舐めていた。
......秋夜の暗い空に『光鳥』の群れが渡った。全く鳥の形をした光は無量の星々を背景に、矢印の体系を保って飛行する。それをうっとり眺める雑踏のなかを、チタは酩酊状態のキリを引きずりながら進んだ。
歓楽街を抜けて、十分ほど歩くと雑居塔に着いた。三階にバーがあった。おそろしく狭くうねる階段を登る途中、ふと壁に貼ってあるポスターに目を留めた。そこには激しく燃える十字架にかけられた人間が描かれており、身体は炭化してまっ黒だった。絵の下に大きな文字で、『杭を打て! 焔の悪魔に聖なる裁きを』と書いてあった。
バーの客は疎らだった。いつもと変わらない、落ち着いた雰囲気だ。心を穏やかにさせてくれる音楽が低音で流れている......
カウンター席につくや、頼んでもいないのに果実酒が用意された。
「まだ頼んでいない」
「お隣さんからよ」
マスターのジャズが目顔で示す。右方を見やると、なるほど痩身の老婆がグラスをさしかけて微笑んでいる。赤い下げ髪に燕尾服である。やけに姿勢が良い。チタは軽い会釈をして礼を言った。キリは卓子に死んだみたいにうつ伏せている。
「さっきまで飲んでいた連れが急に帰ってしまったものでね。あたしはまだまだ飲み足りなかったから、次にそこに座った人に一杯ご馳走しようと決めていたんだ。するとどうだ、二分と経たないうちに、お前さんたちが来たってわけさね。ちょっとばかし付き合ってもらうよ」
老婆は問わず語りにそう言うと、んひひと品のない笑い方をした。
チタは特別急ぐ用事もなかったので、はなはだ胡乱ないでたちの老婆と、しばし酒を酌み交わすことに決めた。
一時間を過ぎたころだろうか、老婆はチタにこう訊ねた。
「竜騎士候補生とは殊勝だね。何か野心があるのかい」
「妹を探している。僕より歳が三つ離れているが、すでに竜騎士として辣腕をふるっているらしい。僕は彼女に会いたい」
「ははあ。なにやら深い事情がありそうだね」
チタは手元のロックグラスをちょっとの間見つめた。霜の降りたような白い液体に浮かぶ氷が、カランと音を立てた。後ろを客が過ぎる気配がした。
「焔の悪魔を知っているか」
チタが訊いた。
「もちろんさ。今や知らない人はいないだろう」
老婆は片方の眉をそびやかして答えた。
当今、ダイスの金満家が次々と焼殺されるという事件が起きていた。その犯人は火炎を自在に操ることができる、忌むべき異能の存在として恐れられている。
「で、その偏食的殺人鬼がなんだい」
「妹が焔の悪魔かもしれないんだ」
チタがそう答えると、老婆の眼が驚きに大きく開いた。それからチタに顔を寄せて、
「根拠は! さっきお前さんは、彼女が竜騎士だと言ったばかりじゃないか」
と囁いた。
「僕と妹は孤児だった。物心つく以前、両親をある豪家の男に殺され、事実は金によって隠蔽されてしまった。僕たちはその金を資本に育てられた。そしてそれらのことを知ったとき、妹は施設を飛び出したまま二度と帰らなかった......」
チタは老婆の目を見据えた。そして言った。
「彼女は富家の者を恨んでいる。妹が——ネコが幼い時分から使えた不思議な力で、夜毎殺戮を繰り返している! これを見てくれ」
チタは老婆にコインペンダントを差し出した。老婆はおっかなびっくり受け取り、ためつすがめつ点検した。淡い黄色い照明に、ペンダントの鈍色がかすかに輝く。何かの絵と文字が刻まれている。ひどく擦れているがゆえに判然としないが、かろうじてネコの名前を見出した。
「これは?」
「僕が昔作ってあげた物だ。事件跡に落ちていたのを拾った」
老婆は静かに深い息を吐きながらペンダントを返した。そして懐からペンとメモ用紙とを取り出し、紙面に素早く筆を走らせ、それをチタの方に寄せた。
「うちの住所と電話番号。これもなにかの縁だ、力にならせとくれよ」
「ありがとう。きっと連絡する」
チタが言うのをしおに、老婆は席をはなれた。去り際、こっそり名を告げた。ドルと名乗った。彼女は探偵であった。事務所の位置は、都市の中心からややはずれたところにあった。寮舎からさして遠くない距離だ。徒歩で三十分もあれば着くだろう。が、できれば頼りたくはないな、とチタは思った。この問題は秘密裏に清算すべきである。なぜならば、竜騎士の沽券となにより彼女の幸せに関わるからだ。金満家を皆殺しにしたとて益はない。過去は決して変わらないのだから——
ふと、チタはグラスに口をつけたところで気づいた。隣でつぶれていたはずのキリがいなかった。微酔は瞬間的に吹き飛んだ。氷水を頭からぶちまけられたようだった。思惟はまたたく間に最悪の事態を組み立てはじめた。
「キリはどこか!」
チタがジャズに怒鳴る。喫驚してグラスを落としそうになるジャズは、「知らないわ! 私も今言われて気づいたのよ」とはすっぱに答えた。
チタは席を蹴立てて、財布からあららかに紙幣を取り出し卓子上に叩きつけた。ジャズが一目して勘定より多い金額の差分を返戻せんとしたけれど、すでに閉まる寸前のドアの隙間に、チタの紺のジャケットの袖が見えたのでやめた。
⁂
チタがキリの監視を始めたのは、彼が富豪の息子と知ってからだった。彼は自分の情報を秘匿するきらいがあった。純粋に友人として対等の付き合いがしたいから、というのが由である。よしそれを知ってしまえば、お互いの関係に少なからず悪い影響があるのではないかと案じていたのだ。が、ある日偶然にしてキリの素性が暴かれてもなお、彼らの仲らいは不変であった。
キリ宛の郵便物が何かの間違えでチタの元に届けられ、差出人がペンタクル社(世界的大企業)の社長の名前だったのだ。チタはあえて知らないふりをした。手紙の内容もたしかめなかった。ふだんと同じようにキリをからかったり、くだらないことで笑いあったり、一緒に遊びに出かけたり、折に触れて競い合ったりした。
......夏の夕刻、緑の豊かな丘で大の字に寝転び、暮れなずむ空を見上げてキリは言った。
「チタ。もう隠さなくてもいいよ」
「はあ、君宛に来る恋文に適当なことを書いて返信したことかい」
「そんなことをしていたのか」
キリは苦笑して言った。
「嫉妬か。しかしチタは女性に困っていないはずだが」
「悪い虫がつかないようにするためさ。不承不承、僕は虫除けの役を買って出ているんだ。だから君のせいで最近ご無沙汰なんだ、どうしてくれる」
チタが言うと、キリは大笑した。
「おかしいな、頼んだ覚えはないはずだけど」
「僕も頼まれた覚えはない」
なんだよそれ、と言ってキリはまた笑った。不意に涼しい風が吹いた。周囲に凝る蒸し暑い空気が一気に吹き飛んだ。ざわざわとわななく草が、彼らの汗ばんだ頬をしつこく撫でる。街に灯が点る。飛竜の咆哮。子供たちの喚声が響く。スープの美味そうな匂いが漂う。星が姿をあらわす。
風が止んだ。キリは目を瞑っているチタに顔を向けた。
「早晩、俺は死ぬかもしれない」
「知ってる」
チタが当然のように言う。
キリは精悍な表情をそのままに、
「たとえしかるべき時が来たとしても、俺を助けないでほしい」
と懇願した。
チタの瞼がゆっくりと開く。二三瞬きし、深く息を吸う。白いワイシャツを纏う胸が隆起する。彼は息を止めた状態でふたたび目を閉じると、ちょっとずつ、絞り出すように息をはきだした。肺の中の空気を出し尽くす間際、寝起きさながらのか細い声でこう訊ねた。
「どうして」
キリも天頂を見遣った。
「累を及ぼしたくないから。あと、死に顔を見られたくないから」
「猫みたいな奴だな」
チタは呆れた風に言った。
「でも気持ちはわかるよ」
「自分の醜い亡骸を公然に晒されるなんてまかりならない。なぜあんなことをするのだろう、ことごとしく棺桶に放り込まれ担がれて、果ては冷たい土の中に埋められる。勝手に死に場所を決められるんだ。それならいっそ燃やしてほしい。骨すら残らないよう、徹底的に」
キリは起き上がり、ジョッパーズパンツにまとわりついている草を払った。
「そろそろ帰ろう。いい加減お腹が空いたよ」
屈託のない笑みだった。まるで首根にあたがわれた死神の鎌を意にも介してないように、いや、それどころか死を受け入れているようでさえある。チタは彼に同意したことを後悔した。バッサリ否定してやればよかったのだ。「助ける。だから生きろ」——そう言ってやるべきだった。彼が彼の一握りの生を手放す勇気を与えたのは僕だ。
チタは千々に乱れる思いを胸に立ち上がり、遠くに沈みゆく太陽を睨んだ。