Ⅰ
青い落ちてきそうな空に飛竜を見た。大仰に翼を羽ばたかせ、首に吊るしている大きな赤いバッグが揺らいでいる。
ふと何かが陽光にきらめいた。それはひらひらと、中空を踊るように落ちてくる。羽だろうか。しかし飛竜の固いうろこに覆われた身体に羽根は全然ない。
春風にもまれつ舞いつ、やがて地上に近付くにつれて、その正体が明らかになった。はたして封筒である。白いシンプルな普遍的な、およそ友人などの親しい間柄に気軽に送るために用いられるものだ。
真昼のカフェの屋上で椅子に体重をあずけ、ほうけて空を見上げているチタの顔に、バチンと封筒が着地した。チタは思いがけない出来事におどろいたが、しかしそれをおくびにも出さず、冷静に封筒を点検した。送り主は『エス』とある。知らない名だ。誰だろう。宛名をたしかめる。するとチタの表情はにわかに驚愕の色に変わり、バランスを崩してひっくり返った。如才ないウェイターが駆け寄って彼の身を案じた。
仰向けになったチタは両目をパチクリさせながら、封筒を陽に透かし眺めた。宛名は『ネコ』だった。チタの妹だった。そしてそれが他の誰も知らない、彼女の素性の一切が謎の、目下国を賑わせている『焔の悪魔』の正体であった。
⁂
酒場の熱鬧をかき分けて、チタはカウンターテーブルの真中に寄るや、卓子上に数枚の紙を叩きつけた。オーナーのジャズがグラスを磨いていた手を止め、「あら、いらっしゃい。久しぶりね、何にする?」となごやかに言うのも取り合わず、チタは「これを見てくれ」と紙面のひとつを指で示した。
新聞だった。そこには、人が倒れたような形をした影を敷石道に落としているモノクロの写真と、その横に大きく『闇夜の惨劇』と見出しがあり、本件と焔の悪魔についての連関を述べた記事があった。他も似たようなかんじだった。
ジャズは落としていた目をちょっと上げて、チタの顔を見た。
「あなた、新聞なんて読んでたかしら」
「まあね。それよりはい——これとこれとこれとこれ、最後にこれ」
チタは日付順に並べてみせる。ジャズは目を瞠った。
「西下してる」
「そうなんだ。焔の悪魔が最初に起こした事件が三年前、首都ダイスにてある素封家の男を焼殺。次いでアマル、ゴウン、セスタ、ムートの順でいずれも手口は同じ、素封家の男がやられている。隣国のムートがひと月前だ。次は——」
「次は、この俺が狙われるってか」
チタは声の方に顔を向けた。彼の右隣には、黒いスーツに身を包んだキリがいつの間にか座っていた。キリは果実酒を頼んだ。ジャズが薔薇みたいなグラスに注いで出した。血のように赤い。キリはうっとりして矯めた後、一口だけ飲んで溜息をこぼした。
「やっぱ俺、死んじゃうのかねえ」
「こんなところにいる場合じゃないだろうに」
「だってよお、寂しいじゃあないか。最後の一杯だ。どうせトンズラこいたって、奴のことだ、きっと地の果てまで追いかけてきて殺すだろうさ! 飲まなきゃやってらんないぜ。なんだって金持ちを狙うのか。そのくせ金には執着してはいないようだし、目的が知れないよ。あー、金なら腐るほどあるのに、この身はひとつしかないんだもんなあ」
キリは卓子にうつ伏せになって、ひとしきり呻いた。蜂蜜色の前髪と腕の間から潤んだ瞳を覗かせて、チタの纏う黒いローブから伸びる右腕を見、そして左腕のあるはずの部分が虚しく揺らぐのを認めた。
「なあ、チタ。お前、左腕はどうした」
「ないけど、あるよ」
事も無げに答える。キリは眉根を寄せる。
「どういうことだ?」
「僕には確かに左腕の存在を感じる。見える。触れる。けれど、他の人には全然僕の左腕が認知されないんだ。数日前かな、旅の途中にトラブルに遭ってさ。だから、ほら」
チタのローブの中があらわになる。引き締まった細い肉体。雪白の肌に隆起する肋のゆっくりした運動が、彼の呼吸と連動している。フクロウが片翼を広げるごとく、ローブが見えない何かによって、それこそチタの云う自余に認知されざる左腕が持ち上げているのだろうか、ふわふわと浮かんでいる。キリは呆然として、言葉の接ぎ穂を失った。
「もういいかな」
チタはローブを下ろした。
「ごめんね、あんまり人に見せたくないんだ。これで二人には納得してもらえたろう」
キリは言外にほのめかされる、『これ以上の詮索は無用だ』という彼の意思を汲んだ。また、チタのその浅はかな行為が、たしかな信頼によるものであると思われた。
「無事でなによりね。あんまり無茶しちゃダメよ」
ジャズがやんわりたしなめる。チカは困った風に微笑した。
折しもそのとき、入り口から荒れ狂う炎が飛び込んできた。
⁂
チタとキリは酒場を脱した。裏口を抜け、露店街の雑踏を縫い、隘路を行き、橋をわたり、丘を登った。高い丘の頂点にキリの豪邸があった。富家特有の広い庭園を通り、道々庭師のことごとくに退職および退避を口早に命じた。彼らはなべて驚いた。理由を訊いてもキリが答えないから混乱しているのか、その場で剪定ばさみを持ったまま、オロオロしている。
巨大な玄関扉を勢いよく開ける。すぐにメイド長のレダと老執事のザガとが、疾歩するキリの両脇を固める。その後ろをチタが続く。
「いかがなされました」
歩きながら、ザガが神妙な面持ちで訊く。
「今すぐメイド達を避難させろ、全員だ。それと至急、港に船の手配を頼む」
「はっ、しかし!」
「行け、早く」
キリは厳として言い放った。ザガは何か言いたげだったが、やがて来た道を引き返していった。
キリの部屋に着く。レダが荷造りを手際よく手伝う。彼の必要な荷物はトランクひとつに納まった。隙間からいくつもの紙幣が飛び出していた。
表へ出ると、黒い高級車の側でザガは待っていた。キリたちはそれに素早く乗り込み、車は港へ駆った。途中、庭のおちこちに放置された剪定ばさみや麦わら帽子、タオル、軍手が石畳にまばらに敷かれた葉の上に寂しく映った。まるでそれらは、薄暮の砂場に忘れ去られた玩具のように哀れだった。
......波止場の片隅には一隻の小型高速船が停泊していた。キリはチタに、今生の別れになるかもしれない。もしこの先出会うことがあれば、それは奇跡だ。俺はその希望を糧にして生きようと思う。お前には感謝している。出会えて本当に良かった、と涙ながらに述べ、固い握手を交わした。
出航する。船首が透明の水の流動を裂いて進む。勇ましいエンジンのうなり。スクリューの点てる凄い飛沫が、白帯を編んでは絶えてゆく。チタはじっと眺めていた。そして願った。彼の悪友が平静に生きることを。共に老いさらばえようとも、いつの日か際会することを。まだ冷たい潮風に乗せた想いを海の神が聞き届け、その祝福があらんことを。
そのうち船が見えなくなった。水平線の空と海の境にまぎれて、その姿はおぼつかない。チタは安堵した。良かった。キリは妹の追走を振り切ったのだ。あそこは水の上だ、さしもの焔の悪魔だろうと、手出しはできまい。おそらく彼女はキリの逃亡先を知らない。彼は国を転々とすると言っていた。簡単に足が着かないようにするためだ。大丈夫だ、キリなら心配ない......
チタは立ち去ろうとした。が、ふと、妙なものを見た気がして足を止めた。しかし気のせいではなかった。黒煙が上がっている。目を凝らさなければ判らないぐらい微かだった煙が、次第にはっきりと、おびただしい黒に紅の交わる様が際やかになる。
炎の紅だ。
燃料に引火したのだろうか、爆発のすさまじい轟音が響いたあと、一段と大きな火柱が昇った。はるかに遠く離れた距離でさえ、船の沈むのが知れた。煙と炎は水面に滞った。
チタはその場にくずおれた。岸壁に寄せては返す波の音が、チタの頭の中で激しく反響する。疑問が反復する。どうやって船舶を襲ったのか、あらかじめ忍び込んでいたのか、そうだとすればいつ忍び込んだのか、キリとレダとザガは死んでしまったのか、次の標的は誰か、この世すべての富者を殺め尽くすまで彼女は殺戮を続けるのか、自分はどうすればいいのだろうか。
チタは蹌踉として立ち上がった。脱力しきったチタの頭上を、数羽の鳥のはばたきが過ぎった。彼の頭にふわりと何かが落ちた。手にとってみると、それはところどころが焼け焦げた一枚の紙幣だった。止めどなく降ってくる。白く輝く海原を背に、舞い散る札びらが夢のようである。潮風が運んだのではない。何者かが、彼の頭の上に大枚を放ったのだ。
突如笑声があった。それは女性の声音で聞かれた。
空だ。
チタは天を振り仰いだ。
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