8・試験の終わりと
このときの深陽の脳内を支配していたことは三つ。
心配してくれたウルヴィゴへの申し訳なさと、
この鈍った体に対する苛立ちと、
子供までの距離の換算だった。
──ああ、馬鹿だ。
勝手に飛び出してしまった自分の肉体を罵倒する頃、目測による距離の計算が終わった。およそ50m。なんだ運動会のときと同じ長さじゃないか──そんな冗談とも素直な感想とも取れないことを考えながら、急速な運動に対して悲鳴を上げる心臓を無視する。
──無力なのに、無力なのに、無力なのに。
──『逆立つ毛』の行為は無視しておいて、俺は今更なにを。
ぎゅうと噛み締めた唇から血が滲む。ようやく子供の姿がはっきり見えた。青白い肌の色をしていて、転んだのか膝から出血していた。
──『助けなければ』と思ったのか。
──この状況で?
──……ああ、そうか。だから動いてしまったのか。
「くそ」と何処へ向けたのかもわからない悪態がこれ以上出ないように、深陽は再び口を引き結んだ。
ポケットから先程『逆立つ毛』から貰った淡い赤色の石を取り出す。それを親指と人差し指を使ってピンと空に弾くと──鐘のような音が鳴り響き、小さな石が燃え上がった。
「──!」
炎はやがて、鳥のような形に変わる。
「『私は彼の毛皮。私は彼の兄弟。我が妹の友よ、なのゆえ私を呼び起こす?』」
「──あの子供を助けたい。力を貸してほしい」
赤い炎にそう端的に伝えると、それは「『承知した』」と答え、深陽の背後に飛び立った。
──助けを呼びに行ってくれたのか。
心の中で礼を言って、深陽は足を早める。
押し寄せる異形の津波に逆らって、何度も転びかけながら、何度も体同士がぶつかる衝撃を受けながら、何度も恐怖で足をすくませながら、それでもひた走る。上を向くと煙を上げて崩壊していくビルが嫌でも目に入るから、子供だけを見ていた。やがて辿り着き、走り抜けるようにして子供を乱暴ながらもしっかり抱きかかえる。引き返せば間に合わないだろう。だから、スピードは緩めずにそのままビルの崩壊に最大限巻き込まれない脇の位置まで、走る、走る、走る。
「大丈夫か?」
泣いて深陽にしがみつく子供に前を向いたままそう声をかけたが、帰ってきたのは倍の音量になった叫びだった。これだけ叫べれば元気だろうとしっかり抱え直して、走る中、自分の足元に黒い影が迫っているのが見えた。──倒壊の勢いが深陽たちに近付いている。
「ぐ、ぅっ……!!」
子供一人分の体重と運動不足の体とリアルタイムで目前に落下してくる瓦礫たち。様々な要因が深陽の足を鈍らせ、苦悶の唸りが歯の間から漏れる。そのとき、影が深陽に追い付き、視界をふっと遮った。そして、深陽は──見上げてしまった。恐怖と焦燥に、『まだ大丈夫だ』という希望と安心を求めて、決して見ないようにしていた頭上を、見上げてしまったのだ。
「──……あ……」
足が止まる。
見上げた頬に窓ガラスの破片が落ちて、擦り傷をいくつも作った。
──これは、間に合わないな。
迫りくるコンクリートの塊はもうすぐそこで、あと数瞬で手を伸ばせば届く距離に来るだろうと予想できた。
けれど、胸を過ったのは絶望ではなく。
ただ、腕の中で震える子供は守らなければと思った。
一度息を吐き出した深陽は、子供を砂利と砕けたコンクリートにまみれた地面に下ろす。「う、う」と嗚咽を溢すその子に、彼は努めて平静な声を心がけて、日常会話のように切り出した。
「君、いくつだ?」
「……?」
「俺は十五歳だ」
「……ろくさい……」
「そうか。数はいくつまで数えられる?」
「ひゃ、百まで……」
「百! すごいな! 俺が君くらいのときは、五十が限界だった!」
嘘偽りなくパッと咲いた深陽の笑顔に、子供の顔もどこか綻んだ。それを確認してから、深陽は、その小さな体躯を抱え視界を塞ぐ。
不思議そうに身動ぎする子供。青色の小さな腕も片方靴の脱げている足も全て自分の内側に閉じ込めて、深陽はその場にうつ伏せるように踞った。
「静かになったら、百を……そうだな、五回。五回数えて。そしたら大きな声でお母さんを呼ぶんだ」
ゆっくりと言い聞かせると、深陽自身も目蓋を下ろして視界を閉じた。
──死ぬだろうか。
──生きていたとしても背骨が駄目になってしまうだろうな。
運が良ければ、割れた窓や砕けた壁の間をすり抜けるだけかもしれない。
けれど普通ならば、巨大なコンクリート片がこの身を貫くか潰すかだろう。そのときにこの子供だけでも無事でいられる運命に、深陽は賭けた。
母と、父と、妹の顔が浮かぶ。
きっとこれは、走馬灯だ。
他人を庇って死んだと聞いたら酷く怒るだろうが、助けた子供を怨むことはしないだろうことを彼は理解していた。
──どうか、この子が助かりますように。
信じてもいない神に都合の良いときだけ頼る不誠実な自分を恥じながら、それでも深陽は、子供を抱き締めて祈った。
それから、数秒。
衝撃が訪れるのを、亀のように身を縮めたまま待った。
しかし。
──?
待てども待てどもそれはやってこない。
もしや知覚する前に既に死んでしまったのかと思い当たった、そのとき。
「──試験終了だ」
朗々とした声が深陽の耳に飛び込む。
「──!」
その言葉に、今がまだ試験中だったことを思いだし目を開けると、腕の内には未だにギュッと目を瞑ったままの子供。
──死んでない……?
──あのビルは?
声の主と現在の状況を確認するために、深陽は息を飲んで顔を上げた。
眼前に立っていたのは──黒髪の青年だった。
こちらにあの赤い炎を纏った背を向けて、
片手で倒壊したビルを支えていた。
「は……」
非現実的な光景に喉から空気が排出される。
髪と同じ真っ黒なMA-1を着用した青年。伸ばされた腕がビルを支えていたのは、よくよく見れば錯覚で、その掌よりも上空に向かってやや離れた地点でビルは倒壊を停止していた。
「俺の背中から離れんなよ、新入生」
そう言ってこちらを一瞥した青年の碧眼。それがまたビルの方へ向く。
「『この瞳は万色の識別眼』」
青年のよく通る声が響き、伸ばされた手の先で、指が中指と親指をくっつけた状態で地を向いた。
「『地に祝福を、天に幸運を。父よ──この運命この理不尽に、どうか否とお唱えください』」
唱え終わると同時に、パチンと青年が指を鳴らすと、
空中で停止していたビルが手品のように跡形もなく消えてしまった。
「──!」
まだ形を残していたビルなおろか、降り注いでいた瓦礫も、コンクリート片と、窓ガラスの欠片たちも、ビルを構成していた何もかもが、消え失せた。
深陽はこの島で、魔法や、不可思議な現象も、事故も、生き物も、視界に飛び込む順に見てきていた。だからもうなにが起きても、そう驚くことはないと──思っていた。
しかし。
──レベルが違う。
直感がそう告げる。
──これは異質だ。
何故そう思うのかはわからない。
けれども深陽の奥の奥で、誰かが叫ぶ。この青年は、サックとも『逆立つ毛』とも違う。同じ魔法使いなのに同じではない、何かだと。
「……はぁ~」
腕を下ろした青年が大きな溜め息を吐き出しながら深陽の方へ足を向けた。
「……お前、もう主のところに戻って良いぞ。サンキューな」
肩で揺れる鳥の炎に告げると、炎は一際大きく揺れてどこかに飛び立つ。
──日本人?
──いや、違う。
どこにでも売っていそうなMA-1の上着に、少し癖のある黒髪。これだけならば、日本人である深陽は親近感を覚えていただろう。
しかしその黒いカーテンの奥にあるアクアブルーの双眸はおよそ深陽が見たことなどないほどに澄んでいて、また非常によく整った面は青年の人間離れした雰囲気を際立たせていた。
──ヒトじゃないのか?
特に背が高過ぎるわけでも触手が生えてるわけでもなく、普通に二足歩行で、誰が見ても人間と答えるだろうに思わずそんなことを考える。
と、深陽の顔をジロジロと眺めていたその青年の顔が呆れたように歪み、深陽に近付くと襟首を乱暴につかんで持ち上げた。
「うお」
そしてそのまま、立たされる。
改めて顔を見合わせると、青年は深陽よりもいくらか視線が高く、またその顔立ちが完成されていることから歳上だろうと予想できた。
「……なんか、言うことあるんじゃねぇの?」
少し間があってから青年にそう言われ、深陽は慌てて「ありがとうございます」と頭を下げる。
が、それに対する返事はなく。
ただその場を気まずい沈黙が制した。
──あれ、なにか違ったか……。
──あっ。そうか。
「深陽です」
「自己紹介しろってことじゃねえよ」
「そ、そうですか。……お名前を伺っても?」
「訊くのかよ。っていうかお前それ毎回やってんの?」
その問いに黙って頷く。
そんな深陽に青年はわざとらしくもう一度溜め息をついた。
「アルファルドだ。……取り合えず、その子の母親探すぞ」
青年──アルファルドに指を差された先には深陽の足元で未だ顔をしかめて身を固くしている子供が「はちじゅうく……きゅうじゅう……」と数えていた。
七月十九日。
こうして、コローナ・ボレアリス学院への編入試験は終わりを迎えた。