6・『逆立つ毛』
数十分後。
コローナ島、とある路地裏。
病院からの全力疾走の末ここに辿り着いた深陽は、情けなくもその場にしゃがみ込んで整えたばかりだった呼吸が再び正常なものに戻るのを待っていた。
「ぜぇ、ぜぇー……ひゅぅ、ぅえっ…………」
口から吐き出される音からまだしばらく時間はかかるだろう。
これ程までに消耗したのは、例の巨人のせいだった。
深陽がどんなにどんなに病院から離れても、巨人の足はたったの一歩で深陽がいる地点に移動することができる。「おっとっと」なんて言ってよろけられたが最後、プチリと踏み潰されることだってあり得る。だから、せめて三歩。あの巨人の足にして三歩分、離れる必要があると彼は考え、走り続けたのだ。
結果街からは遠く離れ人気の無いこの場合まで来ることになったが、痛む頭の中、それは正しかったと深陽は推測する。
そもそも誰も存在しないならばトラブルが起こることも無い。
──地雷原だって自分から動かなければ死なないというのに……!
──ここは二十四時間三百六十五日営業中の戦場じゃないか……!!
「勘弁してくれ」と溢しながら路地から顔を出し病院方面を見ると、いつの間にか巨人の姿は消えていた。
現れるときも突然であったし、そういう生態だったのだろう。
「……はぁ」
時計を確認する。
午後二時と少し。まだまだ時間はある。
──どうするかな。
このままこの辺りで夜を明かすことも出来るが、外で寝るとまたなにか盗まれることがあるかもしれない。
ホテルなんて贅沢はもう言わない。取り合えず、屋内が良い。
そんなことを深陽が考えていたときだった。
「お兄さん、ご旅行で?」
背後から声をかけられ振り返ると、薄暗い路地の先に、フードを被った子供が立っていた。
顔はよく見えないが声から性別は女だろうとわかる。背丈を見るに、まだ小学校高学年か中学生くらいの歳だろう。今まで会ってきたのが人から遠く離れた外見をしていたため、少女の人間らしい姿に深陽は拍子抜けしながらも、一つ咳を払って質問に答える。
「……旅行ではなく、受験で」
「──……。……へぇ、受験。ボレアリスの?」
「ああ」
「良いなぁ。あたしは学校になんて行けなかったからとても羨ましいよ」
どこか刺々しい少女の言葉に、深陽は話の方向が見えず「なにか用だろうか」と率直に訊いた。
「ううん……あたし、外から来た人相手にお仕事してるの」
少女はゆっくりとした足取りで深陽に近付いてくる。警戒心を抱かせないような、いやに自然な足運びだった。そうして、深陽のパーソナルスペースのギリギリ外のラインで足を止める。
「こっちは珍しいものばかりでしょ? あたしが売っているのはそんな中でももっともーっと凄いのなんだ」
彼女は、よくよく見ればフードではなく獣の毛皮のようなものを被っていて、額から左半分にかけて生えた三本の角がそれを突き破って露出していた。
この距離まで来ても毛皮のせいで目元の表情は見えなかったが、その口はこの歳でするようなものではない歪な笑顔を携えている。
この時点で深陽はこの少女がただの同郷ではないことは察していたが、どこか必死な彼女の様子に、無言で続きを促した。
少女はその深陽の様子をどう受け取ったのか、胸元を漁り、青とオレンジの混ざったマーブル色の飴のようなものを取り出した。
「……飴玉にしては、あまり美味しくなさそうだな」
冗談にも本音ともつかぬ言葉を、深陽は無表情で溢す。
同時に彼は、なるほど──とも思った。
にっこり笑う少女は、さらにもう一つ取り出す。
「115ユーロでいいよ。特別価格」
手をギュッと握るようにして渡された『飴玉』が二つ。そのときになって、深陽はいつの間にかパーソナルスペースに入られていることに気付いた。
──115ユーロって、大体一万五千円くらいか。
ふむ、と深陽は顎に指を当てる。
コローナ島。
数年の間に少数とは言え死人を出したこの島に好んで近付く人間はいないが、だからこそ、死にさえしなければ麻薬や犯罪組織の隠れ蓑にはうってつけの危険地帯になった。
つまりはこの少女も、そう言ったこの島ならではの安全性と利便性からここで『飴玉』を売っているのだろう。
「……これはいらない」
深陽はひとしきり考え終わると、少女の小さな手に飴玉を落とす。少女はその返答に不機嫌そうな顔を晒し、背を向けようと足を一歩引いた。
それを深陽が「ああ、ちょっと待って」と引き留める。
「……なに、ケーサツは──」
「別に通報するつもりはない。ただ……そうだな。130ユーロ払うから、今晩俺が泊まれるような、君の中で一等安全だと思う宿を提供してほしい」
「……え?」
警戒心を露にポケットに入れていた手を出す少女。いつでも逃走出来るように体勢を整えたのだろうと察した深陽は、鞄から身分証とユーロ札をいくつか取り出した。
「こっちも必死なんだ。どうかな。君が俺に売ろうとしたものはちょっと値段の高い飴玉ってことにするし、俺の好みでは無さそうだったから買いもしない。そして、宿代として130ユーロ」
深陽には──この少女が自分の提案を受け入れる予感があった。
麻薬というのは、基本的に突然こうやって売人から売られるものではなく、友人や先輩など元からある程度関わりのある人物から誘いがあるものだ。そしてその人達も同じように知人から手に入れていて、最後には、売人に繋がっていく。つまりは、ネズミ商法だ。
一番最初に『売る』時というのは相手が正気である時。正気の相手に薬を売るなど、当然多くの場合は警察に通報される。だから売人は、人を使って、『最近悩んでいるような友達がいたら安く売ってあげて』なんて言うのだ。利益は欲しいが、自ら売っては危険だから。
しかしこの少女は、深陽が外から来た人間だと理解していて近付いた。
若かったから。
大人しそうだったから。
騙せそうだったから。
そういった理由があったにしても、深陽が彼女の腕を掴んで交番にでも連れていかれる危険性はあったはずだ。
では何故、彼女は深陽相手に飴玉を手渡したのか。
簡単なことだ。
売り上げが少かったのだろう。
この少女は金に困っている。
彼が大本なのか、それともネズミの内の一匹なのか、また別に払うべき相手がいるのか。どれにせよ売り上げが少なく焦り、旅行客も相手にしなければと考えていたことは確かだ。
だから彼女は、恐らくこの提案を受け入れる。
「…………」
深陽は──会ったばかりであるが──この少女がこうした違法で危険な行為をして金銭を得ていることになにも感じないわけではない。
しかしだからと言って己に何か出来るかと自問しても、この少女が保っている生活を壊してまで価値のある道を提示出来る人脈や金は自分には無いとしか答えは出ない。
ならば今、この場で深陽が出来ることは、
一晩の寝床とその対価を交渉する相手として、彼女を選ぶことだった。
「どうかな」と深陽はもう一度問う。
少女はしばし迷うように顔を深陽やその手元、そして自分のポケットを見て、唇を緩く噛み締めていた。ほんの数秒そうしてから深陽の手から身分証とユーロ札を乱雑に奪うと、身分証の写真と深陽の顔を見比べ、札束を数えた。
「……半分しかないよ」
「もう半分は朝に渡す」
「明日ってこと?」
「うん。それまで俺のその身分証とパスポートを持ってていいよ。俺が金を渡さなかったら、口座を作るなり詐欺に利用するなりすれば良い」
毛皮の奥で、少女の眼光が深陽を射ぬく。それに対し深陽は、見えぬ瞳から視線を逸らすこと無く、じぃと見詰め返した。
ほんの一瞬の間があって、少女は一つ溜め息を溢すと、深陽に背を向けた。
「……着いてきて」
短くそう言って路地裏の影へ足を運ぶ彼女に、深陽はそっと小さく小さく安堵の息を吐きながら続いた。
薄暗い路地を暫く進むと、深陽がギリギリ通れるほどの細い道に入り、そこに並ぶ建物の一つに、店の裏口であろう扉が存在した。酒瓶とその破片が転がっているのを、少女は器用に避けて扉に手をかけ、開けた。
──……家具屋?
中は、潰れた家具屋のようだった。
古いソファやベッド、埃を被った食器たち。決して狭くない店内を贅沢に使って飾られたそれらが、そこまで荒らされることなく、時間のみが経過しているかのように形が残っていた。
──この中から選んで寝ろということだろうか。
そう思っていた深陽だったが、少女はベッドなどには目もくれずスタスタと深陽を置いていく勢いで奥へ進むと、カーテンコーナーで立ち止まった。身の丈以上あるその内一番手前のオレンジ色のカーテンに手で触れて、彼女は口を開く。
「『この毛皮は汝の兄弟。この毛皮は我の姉妹。閉じられたレースよ、どうか私に恩恵を』」
少女が朗々とした声でそう唱えると、
並び飾られた色とりどりのカーテンが震え、次の瞬間モーセの波のように二つに割れ道を作った。
「──!」
そこに現れたのは、下へと続く階段。
サックの船のときとよく似た状況に、深陽は再び息を飲むことになる。
──『魔法』だ。
──やっぱり、この島の人は当たり前のように魔法を使うんだな。
そんなことを考える深陽をよそに少女はそのカーテンの間の階段を降りていく。深陽もそれに続いて降りていくと、背後でカーテンが閉まる音が聞こえた。
階段を降りきって現れたのは、コンクリート打ちの寂しい部屋だった。
そこには、木製の机と穴だらけのソファと簡易的なキッチンだけが置いてあり、部屋の明かりは机上に設置された古ぼけた橙のランプだけ。
ソファの上に薄い毛布。キッチンには溜まったままだろう洗い物。そこそこの広さがある部屋なのにその三つくらいしか置いてないものだから、部屋がどうにも寂しい印象なのだ。
──甘い臭いがする。
深陽の第一印象はそれだった。
花の香りとか、そういうものではない。
キンとした痛々しい甘い臭い。えずくような目に染みるようなそれが、部屋に充満している。
「あたしの家」
少女が毛皮を被ったまま言う。机の上に置いてあった何冊かの本の内一冊を手に取り、深陽に「枕」と渡した。
それを受けとりながら、深陽はこの臭いは薬物のものか、と納得する。
「……良かったのか? 君、職業柄あまり住み家を知られたらまずいんじゃないのか」
「は、あんたみたいにな肝っ玉持った奴がそんなこすい真似すんの?」
「いいや。ただ、不思議に思っただけだ」
「捕まるときは捕まるさ。でも今じゃない」
少女は笑って「ようこそ、風呂無しメシ無しベッド無しのホテルへ」と詠った。
──『安全なところ』と言って自分の拠点を案内してくれるとは。
「……ありがとう」
深陽が礼を言うと、少女は笑みを固め、拍子抜けだと言うように肩をすくめた。
少女はその後、どこかへ出掛けた。
深陽もなにかしら腹に入れたいところではあったが、リュックの中に一応小腹が空いた時用の軽食は入っていたし、成長期の体にきついものはあるが外へ出る危険性を考え止めておいた。
時間は午後三時。
することが無くなった深陽は、少女に手渡された異国語の本を閉じては開いてみたり、持ってきていた英単語帳を読み込むことで時間を潰した。
その途中、少し少女のことを考えた。
深陽には、今日会ったばかりの彼女の本質を見抜くことなど出来ない。それは長い時間をかけ彼女の行動を観察した結果に見えるものだ。
けれど、深陽をこの部屋に案内したことと、金の半分は明日の朝渡すと言う交渉に応じた彼女の決断に、深陽は心から感謝している。
もし少女が帰ってきたときに彼女の気が変わっていて、臓器売買を専門にしてそうな男たちを引き連れてやってきたとしても、深陽は彼女に怒りを感じないのだろう。
少女はあの拙い交渉に応じ、一度でも招き入れてくれた。
深陽にとって他人の親切と言うのは、それが存在しているだけで奇跡や幸運のようなものなのだ。
夕方になっても中々少女は帰ってこなかった。
恐らくまた飴玉を売っているのだろうと考えた深陽は、単語帳を閉じソファから立ち上がる。その場で伸びをして固まった腰を解していると、階段の上から気配がした。
トン、トン、トンと、軽い足音を立てて下りてきたのは、毛皮を被った少女。手に、本と毛布を持っている。
「……おかえり?」
「……何やってんの?」
バンザイをして体を横に折っている深陽に少女は奇妙なものを見る目を向ける。
「腰が痺れて……」
「あ、そう」
「ところで、名前を聞いてもいいか?」
「名前?」
「俺は深陽だ」
「……『逆立つ毛』って呼ばれてる」
「そうか。改めてありがとう、逆立つ毛」
あだ名か、通称だろう名を名乗った彼女に深陽は姿勢を正して頭を下げた。『逆立つ毛』はそんな彼の頭に背伸びをして一冊の本をぼんと置いた。
三㎝ほどの厚みのあるそれを「ん?」と手に取った深陽に、『逆立つ毛』は「島のガイドブック」と答えた。
「そんなのがあるのか……」
「ちゃんとしたのじゃない、あたしの仲間が旅行客に売り付けようとして作ったやつ。けど中身はクレーム来ない程度にはなってるから」
ぶっきらぼうに答える彼女に、深陽はぱらぱらとページを捲って見てみる。異形の者たちの特徴や、近付いて平気な者、いけない者、行っていい場所、安全な場所が挿し絵つきで描かれている。
──凄い。
──これを無料でくれると言うのか……?
もしも深陽がこれをどこかで見付けていたならいくら金を払ってでも欲しいようなものだ。特に安全な地帯はランキング形式になっていて、なるほどこれは重宝出来ると感心した。
「……ありがとう『逆立つ毛』。君は親切だな」
深陽が素直にそう述べると、『逆立つ毛』はへの字に曲げていた口を少し緩め、目を逸らす。
「……謝るよ、変なもん売ろうとして」
「え? ああ、いや。大丈夫だ」
「……そ」
彼女は少し沈黙して、もぐもぐと何度か口をむず痒そうに動かすとまた口を開いた。
「……あんた外から来たんだろ」
「ああ、日本から」
「日本か。じゃあ、結構苦労したでしょ」
「そうだな、飛行機は長かった。言葉も通じないし、船の場所もわかり辛くて──」
「そうじゃなくて、魔法使いとしてだよ」
呆れたように深陽の言葉を遮った彼女に、深陽は少し間を置いてから「いや」と否定した。
「その……俺は確かにこの学校の編入試験を受けているけど、『魔法』に関しては全然、わかってなくて。使った覚えなんかないんだ」
「──あんたは魔法使いだよ。あたしも外から連れてこられた魔法使いだから、それはわかる」
確信しているような声色だった。
毛皮の奥の瞳が、眉を寄せる深陽を貫く。
「……『魔界』生まれの魔法使いは良いよ。それはあるべきものなんでしょ。けどあたしたちみたいに、魔法なんか存在しない場所で生まれちゃった魔法使いは、絶対に周囲から異物として危害を加えられる。あんたは、そういう魔法使いと同じ気配がする」
「気配……?」
「そ。だから人界で生きてきた魔法使いは、この島では庇護すべき対象だ。あんたに魔法使いの自覚があろうがなかろうが、それは変わらない」
彼女はそう言うと毛布を深陽に渡した。
「覚えがあるんじゃないの?」
「……なにがだ?」
「……回りの人間が、自分より絶対に三歩外にいる感じ」
三歩外。
──自分に脅威だと判断して、避ける人間たちの行動。
彼女の言葉に、深陽は抱えた毛布の下で自分の左腕を強く握った。
返す言葉の浮かばない深陽のほんの少し色を失った顔を見てか、『逆立つ毛』は「ごめん」と言って背を向けた。
その晩、深陽は薄い毛布に包まれて体を横たえながら、昔のことを思い出していた。
かつての学校の教師や、同級生や、近所の婦人に、親類のことを。小学校と中学校で出来た友人のことを。
「…………」
ソファを覗き込むと、少女の幼い顔が毛皮の隙間から見えた。
そのせいかついでに小さな頃の妹のことまで思い出して、深陽は、ほんの少し戸惑ってから少女の頭を触れるように撫でた。
再び体を横たえる。
何人もの顔が浮かぶ中で、深陽はその身を丸めて眠った。