35・結城汐里の独白
結城汐里は、自分の『汐里』という名前が大嫌いだった。
女の子らしそうで、おしとやかそうで、優しそうで、堅実そう。そんなイメージの名前は正しく親が自分に求めてくる人柄そのものだった。
本当の自分はスカートもそこそこ短くするし髪は本当はさっぱりと切ってしまいたいし部活も運動部系が良かったし委員会も美化委員なんて目立たない・褒められない・つまらないの三拍子が揃ったやつなんてやりたくなかった。
でも世の中というのは汐里の欲に反し、おしとやかに『汐里』として振る舞うと上手くいくことが多かった。親が求めているものと世間が求めているものは一致していたのだ。それも酷くムカつくし、納得してなんだかんだおしとやかにしてしまう自分のことも、汐里は大嫌いだった。
親や先生の言うことに従って、
『自分』を我慢すれば上手くいく。
寝たきりの祖母の自宅に一番近いという理由で高校に入学する頃には、汐里はそんな風に世界を見るようになった。
狭くて限られていて難しい世の中で決断することは勇気がいる。でもその決断を他人に預けてしまえれば、自分で責任を負わなくて済むから。それはそれで楽なんだろうなと、汐里は選択権を放棄したのだ。
けれど高校二年の冬に、その考えは少しずつズレていった。
きっかけは色々あったように思うけれど、一番明確なのは、期末テストでかなり低い点数を取ったことだった。
親の思うように振る舞って、先生が言うように勉強した。一般的に見ればそれはただのスランプだったのだが、汐里は大きく戸惑った。
来年はもう受験が控えている。大学によっては二年の成績を見るところとあるだろう。なにかで補わなくては──そう思って目を付けたのが、『錨深陽』という、どこにでもいるクラスに馴染めない後輩だった。
『周囲と打ち解けることの苦手な後輩に手を貸した』──勉強面が駄目なら人柄の評価でと、そういう成績が欲しい下心から、深陽のことを気にかけた。
悪いことだとは思わなかった。別に、無理矢理そういうことを証言しろと強制するわけではない。ただ、誰かにあまり優しくされたことのなさそうな後輩を懐柔させて、言葉の端々に担任の先生や周囲にでも『結城先輩は良い人』と言ってくれればと考えたのだ。
だから、初めは人の良い先輩を演じた。
朝見かければ「おはよう」と声をかけ、
放課後目が合えば「ばいばい」と手を振る。
距離を近付けるために名前で呼んだり、
先輩らしく上からものを言ってみたりした。
けれどその内──優しく手を引かれるように、本来の自分を引き出されていくようになった。
この後輩は『汐里』を知らない。
だから別に、親や先生が求めたような自分で無くて良いんだと肩の力を抜くようになって。
そうしたら次に浮かんだのは罪悪感だった。
何も知らない後輩は初めから単純に純粋に自分を慕ってくれた。ぎこちなかった視線が次第に柔らかく自分に向けられるのを見るとたまらない気持ちになる。死を理解できない動物を解体する前のような後ろめたさが、ゆっくりゆっくりと心臓を潰していく。
ある日、深陽が言った。
「最近、学校が楽しいです」
先輩のおかげですね、と、
変化のわかり辛い表情で淡々と放たれたその言葉が、彼の喜びを表す最大の表現だということを、汐里はもう分かってしまっていた。
そう? と笑いながら──ああこの子、いつか優しさで人を殺すんだろうなと悟る。
そのとき、汐里は、明日真実を話そうと決めた。
本当は思い遣りから話しかけたのではないのだと、自分の利益を思って偽りの優しさを手渡したのだと、伝えようとした。
許してくれるかはわからない。
けれどそうすれば、罪悪感と虚偽に濡れてしまった深陽との関係を新しく始められる気がした。
生きているとあらゆる場面で選択がある。汐里はこれまで、その全てを親に委ねてきた。
だけどこの瞬間の選択だけは、彼女自身でしたものだった。
──放課後、先生に旧校舎に放置されている美術用具について相談があると美化委員会委員長として呼び出されている。
それが終わったら明日話がある、と深陽にメッセージを送ろうと──
確かにそう思っていたのだ。
───
夕陽が暴力的に室内を照らす旧校舎。
眼前で「暴れなければ酷くしないからね」などと子供に言い聞かせるような声色を出しながら強く腕を掴んでくる教師を見ながら、汐里は、「ゴミクズ」と心の中で罵った。
叫べど、暴れど、成人男性と女子高校生の間では体力にそれなりに差がある。壁際まで追い詰められ、体が倒れた際にイーゼルが肘に当たって痛かった。
油絵の具のつんとした臭いとか、
開けっぱなしの窓から舞い込む部活のかけ声とか、
視界を割る橙の影とか、
叫んで乾いた舌の根の不快感とか、
頬を掠めた柔い春風の感触とか、
吐き気に早鐘のように鼓動している心臓が送り出す血液の拍動とか、
旧校舎の幽霊の噂とか。
どうでもいいことばかりが去来し、汐里の身体を縛り上げて、冷静な思考を奪った。
それでもなんとか、恐怖で動かない指先を床に這わして武器になるものを探す。切り揃えた爪の先、こつりと何かが当たった。筆だ。毛先が赤色の絵の具を着けたままに放置したせいで固まっている。
目尻からボロ、と熱い滴が落ちて、
筆を握り締めた──そのとき。
「大人しくしてたら、成績上げてやるからさ」
そう、耳打ちされて。
汐里はフッと自分の体から力が抜けるのを感じた。
──あ。
──い ま、……私。
──……従おうとした。
きっと誰も来ないだろうこととか、教師の圧迫するような力の強さじゃなくて、
何より絶望だったのは、汐里の無意識が、成績のために非人道的な行いを容認しようとしたその事実だった。
握った筆。イーゼル。キャンパス。埃。下品な、発情期の犬面をした教師。──琥珀色の目。
「…………ぁ」
小さく声が漏れた。
教師の向こう、立ち尽くす後輩の姿がある。夕陽の光を背負っているせいで表情はわからない。
助けを求めたり、見ないでくれと訴えたりしたかったのかもしれない。けれどまず浮かんだのは、心配させてはいけない、というものだった。
汐里は確かにそう思ったのだ。深陽と会って一ヶ月。この高校の上級生として生きて一年以上。そのとき生じた感情は、彼女が初めて、自分よりも弱い者を守ろうとした年長者としての誇りだった。
だから──笑った。そのつもりだった。
深陽が心を痛める理由を否定しようとした。
これできっと去ると思った。
学校の教師とこそこそ旧校舎なんかで馬鹿なことをして、目が合えばいやらしく笑う先輩なんか、幻滅して、軽蔑して、去ってくれると思ってた。そしてもう関わることは無い。そのことが怖くなかったわけでは無かったが、これ以上深陽に自分の姿を見られるよりはマシだった。
なのに。
あろうことか深陽は、立て掛けてあったイーゼルで、教師を殴り付けた。
「ギャッ!!」
涎を撒き散らして仰け反った教師。振り返った瞬間に、深陽はすかさず二撃目を叩き込んだ。
「…………は」
目の前で教師が倒れて、大量の埃が舞い上がる。それを目で追うと、肩で息をする深陽の姿があった。震える手でイーゼルを握り締め、震える唇で「先輩」と言葉を紡ごうとしていた。
その姿に、汐里は、自分自身がこの少年と比べて恐ろしく醜悪なものに感じた。
与えられた選択肢を他者に委ねて、
それが上手くいかなくなったら実力を高めようともせず、
世の中を悲観的に見るくせに変えようとは思わず、
弱者を利用しようとし、
都合が良くなれば依存して、
後ろめたくなったら本性をさらけ出そうとして、
自分の利益のためには尊厳を惨殺する暴力も容認しようとした。
そんな自分に深陽が触れようとするから、汐里は必死に拒絶した。
徐々に恐怖という空気を吹き込まれていっていた風船はもう限界だった。それが破裂する直前──差し伸ばされていた深陽の左手が、赤くまたたいた気がした。
───
病院で目が覚めたとき、母親が横に座っていた。
心配していたとかそういうことではない。娘が大変な目に遭っていたのに仕事をしていたら印象が悪い、という理由だ。
「忙しいんだからくだらないことで呼ばないで」
こっちこそお呼びじゃない。口からそう飛び出しそうになるのを堪えて、眠っていた間に起こったことを訊いた。
「顔の火傷は綺麗に治せるそうよ。体のは知らないけど。学校には私が話しておいたから」
「火傷?」
「……『旧校舎で大規模な火事があり、三階に三人取り残されていた。事態にすぐ気付いたサッカー部顧問が上級生と共に駆け付け救出、大事には至らなかった』。これでいい?」
新聞に書いてある文を朗読するように淡々と説明する母。
彼女は汐里を名家のと繋がりを作るための素材程度にしか考えてない。顔が無事ならそれでいいのだ。
父は一見人の良さそうな男だが、女の最大の幸福を社会的地位の高い家の者と結婚することだと思っている人物。
汐里は、どちらも他人の幸福を自分の価値観で決めるゴミクズだと心の中で罵っていた。
「……深陽君は?」
「は? なに?」
「一年生の男の子。居たでしょ? それに教師も」
苛々したように問い返されて、こちらも口調を強めて訊くと、母は「ああ」と相槌を打つと、小さく鼻で嘲笑した。
「……そういえばもう十七だっけ。あんたも女だったってことね」
「……なに?」
「人気の無い旧校舎で男二人と女一人。何をしていたなんてたかが知れてるわ──随分高校生活を楽しんでるじゃないの、汐里」
泥のような女の臭いを醸して笑う赤い口紅。
あまりの言い分に、何か言おうとした言葉が消えていった。
「大方やってたことがばれそうになって火をつけたんでしょ。低能な餓鬼がやりそうなことだわ」
嗤いを携えた母に「脳味噌スカスカなのはそっちよ」──そう呟くと、「何か言った」とさして興味も無さそうに返ってきた。
「……もう出てって」
顔も見たくなくて唇を噛みながら言えば「そう」とあっさり病室を出ていった。
後日、事件は強姦未遂と暴行の件は消され、ただの火事ということになっていた。
母が学校に懐から金銭を通したことは、父から遠回しに聞いた。生暖かな声で「あまりママに迷惑をかけてはいけないよ」と笑った顔は吐き気を催すに十分で、汐里は退院した後もしばらく自室から出られない日が続いた。
教師とのことを隠すことは、確かに、自分にとっても都合が良かった。
そんな話が出回れば汐里は学校にいられなくなるだろう。
ゴミクズのような親には、賢明な判断と、それを押し通す財力があったのだ。
精神的な体調不良から回復すると汐里は制服に袖を通した。その日まで深陽に端末でメッセージは送っていない。後ろめたい気持ちもあったが、今回の件は、自分の口で彼の目を見て謝罪をしなければならないと考えたからだ。
そうして久しぶりに登校した学校に──深陽は居なかった。
代わりにあの政治科教師はなんでもない顔をして授業をしている。
すぐに、わかった。
彼は消されたのだ。
旧校舎を結果的に全焼させた大火事。その理由を見付けるとき、強姦未遂のことを隠そうとすれば自と標的はたまたま居合わせた周囲に馴染めない男子生徒に向けられる。数十年教師をしている男と深陽、どちらが簡単に責任を擦り付けることが出来るかなんて、火を見るより明らかだった。
あの日、あの病室で、母に対し感情的にならず「出てけ」なんて言わないで、「居合わせた後輩は関係ないから」と口添えすれば。吐き気を飲み込んで乱暴されかけたことを告白すれば。きっと深陽を救えた。
けれど汐里はそれをしなかった。
そのとき彼女は思い知った。
この世を構成する人間はゴミクズばかりで──自分もその内の一人だったんだ、と。
春が過ぎて、次には夏が来る。
爽やかな風は纏わりつく空気に。
桜は散って鮮やかなももいろを消す。
汐里の隣に、優しく笑う後輩はいない。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
これで二章は終了となります。
なんだか暗くなっておりますが、三章はヒロインであるニーナ中心のお話になり明るくなる予定なので、ご安心ください。
いつもブクマ、評価、コメント本当にありがとうございます。読んでくださった方の感想で大変頑張れます。また三章からも、よろしくお願いします。




