32・結城汐里2
五ヶ月前四月。
昼休み時、幾倉高校一年二組。
「ミハル君って、貴方?」
入学して三週間。
その時期にもなって友人一人居なかった深陽は、突然自分のことを下の名前で呼ぶ見覚えの無い女子生徒の存在に、ぽっかりと口を開けた。
彼女のネクタイの色は三年生を現している。扉からひょっこり顔を出すようにして扉から一番近い席に座る深陽に声をかけたその女子生徒は、その様子に少し苦笑した。
「ごめんね、名字の読み方自信なくて……『イカリ』でいいのかな」
「えっと、……はい」
しどろもどろに相槌を打って耳にはめていたウォークマンのイヤホンを取ると、女子生徒はホッとしたように深陽の机の前に移動した。
「三年の結城汐里です。同じ美化委員の。覚えてる?」
そういえば、先週の委員会でそんな名前を聞いたことがあった。
確か美化委員長として黒板の前に立って今年度の目標だとかを話していたような気がする。「はい」と返すと、「良かったぁ」と柔らかな表情を更に緩めて「あのね、これ一年生に渡すの忘れてて」と手の内にあったB5用紙を手渡された。
内容を見てみると、どうやら中庭の掃除の順番を記したものらしかった。
「錨君はね、今週から一ヶ月。ごめんね急で」
「いえ、大丈夫です。……箒は下駄箱にあるやつ使ったらいいですか?」
「うん。四月って桜の花弁多くて大変だけど、その分人数は多いから大丈夫だからね」
「……そうですか」
汐里の言葉に、深陽は自分の眉が少し寄るのを感じた。人数が多いと、それだけ群れから溢れた存在は目立ってしまう。皆が和気あいあいと花弁を集める中ポツンと淡々と掃いていく自分を想像すると、やはり憂鬱になってしまった。
そんなことを思っていると、頭上から注ぐ視線が口を閉ざしたことに気付く。
あの、と声をかける前に、
「……一人?」
と首をかしげられた。
彼女のミディアムヘアの黒髪が、さらりと細い肩に流れる。
それに曖昧に笑って返すと、同じように困った笑いを向けられ、彼女は教室を出ていった。他の組の美化委員にも用紙を渡しに行ったのだろう。
──それが出会いだった。
あの問いに肯定するように笑い返したから、同情したのだろうか。
それともただ、元から面倒見の良い正確なのか。
ともかく、汐里は深陽をよく気にかけてくれるようになった。
その日の放課後は深陽の隣で談笑しながら桜の花弁を一ヶ所に集め、
それからも、委員会と関係無いところでも、校舎内で会うとよく挨拶をしてくれた
「おはよう、眠そうだね」
「おはようございます」
「ばいばい、また明日」
「はい、さようなら」
「錨君って毎度発音悩むからやっぱり深陽君て呼んで良い?」
「えっと、どうぞ」
「深陽君猫背だねぇ。身長のびなくなっちゃうよ」
「……気を付けます」
「ガムはチョコで溶かして取るんだよ」
「へえ」
「深陽君って無口だね」
「先輩は話上手ですね」
「小テストどうだった?」
「親にはちょっと見せれないですね……」
「あ、猫」
「よく見てください、ただの石です」
「漫画の新刊出てる!」
「先週同じこと言って同じ漫画買ってましたよ」
「見て深陽君──エロ本落ちてた」
「嬉々として見せないでください……」
そんな調子で、二人は一日の少ない時間、でも途切れることなくほとんど毎日交流した。
汐里という人は、堅苦しい見た目とは裏腹に思っていたよりも気さくな先輩だと深陽は感じていた。
冗談も通じるし、人並みに先輩面をしたがったりニッと歯を見せて笑うこともある。表情が豊かで、背が伸びていて、これまでの実績に裏打ちされた自信を持って生きている、そんな先輩だった。
表情が固まり安く、背を丸め、消極的に目立たないようにと生きてきた代償に自信もへったくれも無い深陽にとって、彼女を憧れるなという方が無理があった。
『結城汐里』は、
深陽の中で、唯一の敬愛する先輩となって根付いた。
ゆっくりと静かに流れる日々の中で、深陽は確かな幸福のようなものを受け取るようになり。
寂しい高校生活をそうではないと思うようになった──そんな矢先。
事件は起こった。
───
五月中旬。
「……しまった」
昼休み、昼食を旧校舎で食べた際にその場に携帯端末を忘れていっていたことに気付いた深陽は、端末の見当たらない鞄に手を突っ込んだままそう呟いた。
頻繁に連絡を取る相手がいない深陽は家に今から帰る旨を連絡しようとした放課後の今の今までそのことに気付かなかったのだ。
──仕方無い、取りに行こう。
ネットワーク社会の真っ只中にある現代において、課題をやる際に端末が無いのは少し困る。旧校舎までそんなに距離があるわけでも施錠されるわけでもない状況、深陽は極自然な流れの思考の元ロングホームルーム後の教室を後にした。
校舎の外を出ると、爽やかな春風が頬を撫でる。ふと小さな違和感を感じて前髪に手を伸ばすと桜の花弁が付いていて、深陽はそれを指先で摘まんで払った。
その視界の先に、木造の旧校舎が見える。
幾倉高校は過去、芸術文化を学ぶことを主体とした小さな小さな寺小屋だったという。
旧校舎というのはそれに増築に増築を重ねたものであり、故に形はやや歪で、壁の隙間や余計な階段の多さから『普通科・芸術科設置都立幾倉高校』と銘を打った際に新しい学び場──本校舎が建てられた。
よって今の旧校舎の役割と言えば、先輩が残していった美術作品の保管場所である。ほぼ物置同然になっているが案外陽当たりは良く、慣れれば充満する油絵の具の臭いも風情があってプラスの印象がある──と、深陽は感じていた。
数十年の歳月を閉じ込めた校舎内に足を踏み入れ、もうほとんどの人が昇らないうっすら埃の積もった灰茶の階段を上がる。目指すのは二階の廊下の先にある教室だ。
夕暮れが舞う埃の存在を知らせる中、深陽は教室の扉を静かに開けると、窓際の席に視線を投げた。そこにポツリと置いてある黒い携帯端末を見付けて、胸を撫で下ろす。
──良かった、あった。
ずり落ちてきた鞄を肩に背負い直して、端末を手に取りブレザーのポケットに少し乱雑に突っ込んだ。今日はバイトがあるから急いで帰らなきゃならない。すぐに踵を返した深陽だったがしかし、その耳が、床が軋むような音を拾った。
「ん、?」
自分が踏んだ床の音かと思ったがどうにも違う。
なんとなく気になって立ち止まっていても、その音は未だ響く。──三階からだ、と見上げると、誰かが走るような、結構な大きさの音が天井から降ってきていた。
──誰かいるのかな。
誰も使わない校舎。それを知ってか、旧校舎には時たま柄の悪い男子生徒や好奇心旺盛な新入生が忍び込むことがあった。
いつもの深陽であれば、自分以外の他者の存在を知るとその場で静かに去るのを待つか、さっさと退散することが多かった。一人で旧校舎にいて、後でこそこそとそのことを言い触らされることが嫌だったからだ。
けれど、何故だろう。
そのとき深陽は、三階に上がってどんな人がいるのか確かめたくなった。
もしかしたら自分のように独りが堪えきれなくてここに逃げ込んだ誰かかも知れない。
もしかしたら見た目と違って案外気さくな不良が遊んでいるのかも知れない。
そんな気紛れで曖昧な希望を願ったのは、汐里と出会い他者と関わったことによって生まれた、深陽のほんの少しの積極性のせいだった。
だから階段を下りずに、上がった。
二階の教室の真上に位置する教室は過去の絵を主に保管している場所だった。通気性が良く未だ綺麗な旧美術室。最初に旧校舎に入ったときに一人で探検したから、深陽はそのことを知っている。
扉の前に立つと、誰かと誰かが内緒話をするような小さな声と物同士が触れあうような音がした。
開けるか開けるまいか迷っている深陽の耳にキュッと擦れる音が響く。いつもの日常で良く聞く上履きが床と接するときに出るそれだ。
それになんとなく安心して、
──安心、してしまって。
深陽は小さく、扉を開けた。
「──?」
立てかけられたキャンパスやイーゼルの向こうに、踞った後ろ姿が見えた。
大柄な男だ。男子生徒、と最初に思ったが違う。シャツの色が校則で決められた白ではなく青だ。それに、首には邪魔だと言うように後ろに回された名刺ホルダー下げられていた。
──先生?
教員がこんなところで何を、と首を傾げた深陽の目に、
信じがたいものが飛び込んできた。
教員らしき男の──踞るような体勢の、両脇から、細く弱々しい足が伸びていた。
よれた黒いソックス。脱ぎかけの上履き。あの聞き慣れた音を思い起こす。
あっ、と間抜けな声を出しかけて体がふらついたとき、ずれた視界が細い足の主を捉えた。
「──……!」
「……ぁ」
その女子生徒は、黒いセミロングの髪を振り乱して、いかにもお堅い委員長ですという顔を、歪めていた。涙で充血した瞳と腫れた頬、口の端には血が滲んでいる。指定のブレザーはゴミのように床に捨てられていて、リボンの消えた白いシャツが肌を透けさせていて。
あの気さくな先輩だった。
──結城汐里だった。
油絵の具のつんとした臭いとか、
開けっぱなしの窓から舞い込む部活のかけ声とか、
視界を割る橙の影とか、
乾いた舌の根の不快感とか、
頬を掠めた柔い春風の感触とか、
期待に早鐘のように鼓動していた心臓が送り出す血液の拍動とか、
旧校舎の幽霊の噂とか。
どうでもいいことばかりが去来し、深陽の身体を縛り上げて、動けなくさせた。
ヒュウと喉が鳴ってから、今更になって、男の下卑た笑いと汐里の声にならない悲鳴が聴覚を刺激する。
汐里の目が、深陽から逸れない。
──先輩。
──せ、ん、輩。
深陽は無知だ。
十五年間、誰かと付き合ったことはない。
母と妹に囲まれて過ごしていて、そういった手の話題になったこともほとんど無い。
けれども彼は、解っていた。男に無理矢理押さえ付けられている汐里の屈辱も、男の目的も、人気の無い旧校舎で行われようとしている目の前の光景がいかに深陽の敬愛する先輩の自尊心を殺すかということを、理解していた。
だから。
深陽は側に立てかけてあったイーゼルを手に取って、駆け出したのだ。
「──ッああ!!!」
過去の先人が芸術を追い求め自己を表現するために使っていただろう木製のイーゼルの角は、寸分違わず、男の脳天に力一杯降り下ろされた。
突如後ろから急襲された男は「ギャッ!!」と車に引かれた害獣のような声を出して仰け反った。
手のひらがドッと汗に濡れる。
──人を殴った。
平和な国でそれなりに平和に生きてきた、ほとんど苦労の知らない手のひらが木材との摩擦で痛みを訴える。は、と息を吐き出すと、同時に男が頭を押さえて振り返った──血走った目は殺意に見開いている。何かを言おうとしたのか男が唇を戦慄かせて、深陽は恐怖でまたイーゼルを降り下ろした。
ガギュッ、と、
素人が下手に物で人を殴ったことによる生々しい衝撃音。
「う、……ふ、ぅ……」
吸って吐いてすら上手く出来なくなった呼吸音の中、イーゼルの骨組みがずれているのがわかった。そしてその部分に、僅かに血が着いている。
目下、男はドサリとその身を横たえた。
殆ど無抵抗の人間を暴力によって無力化した。
その事実が、しんと静まった部屋に満ちている。
それでも深陽は、自分が正しいことをしたと思っていた。最初に暴力を振るったのは男の方だ。自分の大事な人物に手を上げた。あのまま見過ごすことは出来なかったし、だからと言って言葉による制止も、多分出来なかった。
けれど心の隅でそれに疑いを持つ自分がいる。
だから、肯定してほしくて──ありがとう、とか。その一言で、自分は正しかったのだと証明してほしくて、深陽は汐里に向かって足を踏み出した。
「先輩……」
──しかし。
上げた顔の先にあったのは、安心して力の抜けた体でもありがとうと動く唇でもなく──
「──来ないで!」
明確に『拒絶』を表して身を縮込ませる、汐里の姿だった。
「……え」
言葉の意味を理解出来ず、深陽はもう一歩踏み出した。それに汐里が「ひ」とひきつった声を漏らして、ようやく足を止めた。埃が、鼻孔から喉に張り付く。そのせいなのか上手く言葉が紡げなくて、深陽は、ただ汐里をどうにか恐怖から引き上げようと左手を伸ばした。右手にはまだ、イーゼルを持ったままだったから。
先輩? と、
今度は努めて柔らかく優しく、呼びかけた。この手を取ってくれることを祈った。
しかし次の瞬間──バチッと手に静電気に弾かれたような感触が伝わった。
「………………、」
左手がぶらりと横に傾く。遅れてじわじわと込み上げる熱が手のひらと──眼球の奥から染み出てくる。
「ね、が……から」
汐里が何か呟く。
不自然に宙に浮いたままの左手を下ろせないまま、耳を傾けた。
「お、……お願い、だか、ら……さわらないで…………私に、っ触らないで……」
はっきりと深陽に向かって言われた拒絶に、胸にカッターナイフを突き立てられたような痛みが走った。
──どうして。
下げられない左手。
下ろせない目蓋。
どちらも熱を訴える。
燃えるような、熱さを──。




