3・試験日
七月十八日。
イタリア・ヴェネツィア。
「んじゃ島に向かうけどよ! とりまこれにサインね!」
要約すると『私はコローナ島において何があっても責任を問いません』という一枚の誓約書にサインしたとき、深陽は試験を受けにきたことを少しだけ後悔した。
───
十二時間前。
「じゃあ、行ってくる」
「頑張れ兄さん! やばくなったら脳に糖分ぶちこんで!」
「道に迷ったら遠慮しないで訊いた方がいいわよ」
「わかった」
そんな調子で、陽が昇る前にキャリーケースとリュックを持って家を出た深陽。
成田空港からイタリア・ミラノへの直行便に乗り込み、到着してすぐにヴェネツィア行きの電車で透明な海の街に向かった。そこからは船で行くらしい。
──島があるのはブーツの踵の方だというのに、履き口の方の港で良いのか。
などと疑問を持ったが、迷う心配が薄れるためミラノから近いに越したことはないだろう、と大人しく待ち合わせの駅から歩き出す。
「……それにしても」
運河を隔てて建つドーム状の建物や、少し遠くに見える何かの塔がいくつか。そして、人、人、人、キャリーケース、人、キャリーケース、キャリーケース、人、キャリーケース。
ヴェネツィアの街は、人の数がかなり多い。
『水の都』『アドリア海の真珠』などと呼ばれ、その美しい海を持つことから多くの人が観光先としてここを選ぶ。様々な作品のモデルとなったことも理由の一つで、日本で通じるものとしては、某ポケット怪物の劇場版作品・水の都の護神の舞台となった都市がそうだ。
今の時期が夏休みに被ることもあるからだろう。右を見て人、左にも人、前方に人。それもほとんどがヨーロッパ系の者で、アジア系の深陽はやや浮いて見えた。
人が多いため少し歩き辛さを感じるが、ファンタジー染みた街並みと陽気に笑う人達に、深陽は今度は観光として来たいな、とぼんやりと考えた。
「それで、ええと……」
美しく幻想を孕んだ街並みに観光の方へ傾きそうになった気分を捨て、深陽は背負った鞄から学校のパンフレットを取り出す。
「『客船ターミナルまで来たれ』。……ふむ」
ヴェネツィアの街は、道路と車ではなく運河と船の街だ。移動手段は徒歩もあるが、基本船だという。それを裏付けるように、駅の近くでは水上バスに乗るためのチケットを売っていた。
客船ターミナルというところまでの船も出ているかもしれないが、
思ったよりも迷わずに少し早く街に着けたこともあり、深陽は街並みを見て心を落ち着かせるために徒歩でターミナルまで向かうことにした。
「……」
履き慣れたスニーカーでまた足を前へ運びながら、深陽はパンフレットに書かれた編入試験の内容を思い出していた。
内容と言っても、内容らしい内容はわからない。この編入試験、さすが『魔法学校』を名乗るだけあってか、どうやら普通と違うらしい。
試験の内容は当日発表。
その合否もまた当日に発表される。
さらに、時間を二十四時間以上使うため、宿泊の準備をとのことだった。
一応、一般高校の編入試験を想定して出来る限り勉強はしてきたが、それが役に立つかはわからない。
──しかし当日に受かったか落ちたかわかるのは、あの嫌なドキドキが無くていいかもしれない。
中学三年時の高校受験のことを思い出して、深陽は皮肉っぽく口角を吊り上げた。
苦労して合格したその高校を退学になったことまで連鎖的に思い出したからだ。
海沿いの道を歩きながらそんな考え事をしていれば、客船ターミナルには直ぐに到着した。またゴロゴロとキャリーケースを引く観光客が集まっている。
「ええと、赤色の船、赤色の船……」
パンフレットに描かれた挿し絵と見比べながらずらりと並ぶ船たちの内にあるだろうコローナ島行きの船を探すが、視界を遮る人と似たような船の数が多すぎて中々見付からない。
「うーん」
もう少し奥へ行ってみよう、と溜め息をついたとき、足元で、なにやらふごふごとした気配を感じた。
「ん?」
見るとそこに、いつの間にいたのだろう。灰色の毛を持った一匹の中型犬が深陽の足元で鼻を鳴らしていた。
──野良犬だろうか。
首輪がついていないことからそう思ったが、それにしては綺麗な毛並みの犬に深陽は首を捻る。
「フンッ! ヒュンッ」
「変な鳴き声だな……美味しいものは持ってないよ」
踏むと危ないだろうと手で払おうとするが、犬は中々離れようとしない。少し構ってやれば離れるだろうかと仕方なく身を屈めたとき、その犬が突然深陽の胸ポケットに刺さっていたボールペンをくわえて走っていってしまった。
「あっ!?」
すったかたー! なんて効果音が付きそうなほどの健脚に、深陽は驚きの声を上げる。
「そ、それ! 食べ物じゃないぞ!」
別にそこまで高いものでもないため、持っていかれたところで筆箱から新しいペンを出せば良いのだが、それはそうとして犬があれを飲み込みでもすれば大変だ。深陽は転びそうに縺れる足をどうにか立たせ、犬が去っていった方へ駆けていく。近くでその様子を愉快そうに笑った外国人が少し憎かった。
跳ぶように地面を蹴っていく犬が逃げ込んだのは、一つの屋根付きの船の中だった。
「待てっ!」
しめた、船の中に入ったのなら行き止まりだ──頬に安堵の笑みを浮かべた彼は、それに続くようにその船に乗り込んだ。が、船上に足を乗せた途端船のバランスが崩れたのかぐらっと傾き、思わず体が前方に転びかける。船に水が打ち付けられる音と共に慌ててついた手に、塩水が付着した。
「いつ……っ」
「大丈夫か?」
手のひらを擦りむいた深陽に、誰かが手を差し伸べる。
「っすみま……あれ?」
顔を上げると、船上に犬の姿は無く、狭い天井に身を屈ませて立つ一人の男性だけがそこにいた。その男が、深陽の手を掴んでやや力任せに立たせる。
「あの、ここに犬が……」
「はい、ボールペン」
「え? あ、どうも……」
犬のことを訊こうとすると、先程犬に持ち去られたボールペンを返される。
この男性が飼い主だったのだろうか。
いやしかし、犬の姿はやはり船上のどこにもない。
気になりはしたが、ペンが戻ってきたのならまぁいいか──約束の時間が迫っていることもあり、深陽はそう自分を納得させると、男性に「すみません、ありがとうございます」とお辞儀をして船から出ようとした。
「おいおい、コローナに行くんだろ? 出てどうすんだ」
「え?」
「この船だよ。外装見なかった?」
男性に言われ、深陽は船の入り口から顔だけだして船の色を確認する。鮮やかな赤色だった。
「あ、じゃあ、この船が……」
「そ、コローナ行き!」
男性はそう言うと船の前方にある操縦席らしき場所でなにやら探し出した。
どうやら、あの犬のおかげで無事船に辿り着けたらしい。
どこに行ったのかわからないが、深陽は心の中で犬に礼を言っておいた。
「えっと、よろしくお願いします」
「おー! よろしくなー!」
男性は操縦席の方でやはりなにか探しているらしく、引き出した積み重なった本から紙を引っこ抜いては投げ出すを繰り返している。船の後方の入り口付近に放置された深陽はなんとなく落ち着くことが出来ず、側に設置された客席にキャリーケースを置き、男性のいる方へ近寄った。
船の前方は屋根が途切れ、青々とした空が操縦席を照らしていた。そこから振り返って船全体を見ると、左右に向き合う形で設置された細長い席は裕に十人は座れ、思っていたよりも広く感じる。
「なにかお探しですか?」
何気なく男性にそう声をかけると、男性は「うーん、ちょっとサインしてもらうんだけどさ」と生返事を返した。
またしばらく探してから。
「おっあった!」
と、男性が声を上げる。
「んじゃ島に向かうけどよ! とりまこれにサインな!」
「……これは?」
「あ、そうか日本人か。読むぞ」
その後長々とイタリア語で書いてあることを読み上げられたが、要約すると『私はコローナ島において例え重大な障害を負ったり死んだりしてもどこにも責任は問いません』といったものだった。
深陽の肩に一気に不安がのし掛かる。
苦笑いを浮かべた少年の姿に、男性は「まー法の外にあるけどよ! 万一死んだら俺が怒られるから! 一応書いてもらってんだぁ」と笑う男性。深陽の父よりも歳上だろう外見だが、笑う姿は若者のそれだった。
日曜八時から4ちゃんねるで始まるバラエティ番組でしかお目にかかれないような書類に、深陽は一歩引く。
今から向かうのはライオンが蔓延る檻の中と同じなのだと自覚し、彼は頭の血がすっと冷えるような感覚がした。
しかし、これにサインしないことには始まらない。
「すー……ふぅ」
深陽は一つ深呼吸して意を決すると、先程のボールペンでフルネームを書いた。
出港した船は港を離れ、運河を辿って大海に出た。段々と小さくなっていく陸の姿に、無事ここまで来れて良かったと深陽は少し肩の力を抜いた。
日本できちんと空港から駅までのことは調べていたし、道にもところどころ観光客用に日本語で書いてある場所もあったため迷う要素は少なかったが、それでも彼が異国の地に来たのはこれが最初だった。言葉が伝わらないのは不安だったし、無事に着けたのはいくつかの幸運が重なってのことだろう。
しかし島では、一番高い塔があるのがコローナ・ボレアリス学院らしいので、着いた後はその塔を目指せばもう迷うことはない。
彼にとって最大の難関は、このヴェネツィアまでの道だったのだ。
「おーい、坊主。お前名前は?」
操縦席近くの客席に座っていると、操縦中の男性がそう声を上げた。
「錨深陽です」
「『ミハル』が名前か?」
「はい」
「俺はサックだ。お前腹減ってるか?」
「ええと、少し」
「これやるよ」
男性がそう言って上体と腕を伸ばして錨に渡したのは、一つのシュークリームだった。上にカラメルがのっている。「いいんですか?」と深陽が訊くと、サックと名乗った彼は「外から来た奴にはそれ渡せば元気出すからさー!」と笑った。
言葉から考えるに、観光客に人気のスイーツかなにかなのだろう。
深陽は礼を言うと、大人しくシュークリームを口に入れた。
一体どこに保存していたのやら、ほのかに冷たく、夏の日にピッタリなものだった。パリパリとしたカラメルとなめらかな甘過ぎないクリームが舌に幸福感を伝える。しばらく食べるのに夢中になっていると、試験の不安感や今までの疲れは和らいでいた。
「元気出たか?」
シュークリームを食べ終わった後、サックがそう訊く。
「あんま気負わなくていいと思うぜ。試験だってそんな難しくないだろうよ、向こうから誘ってるんだから」
「……サックさんは向こうの人、なんですか?」
「あー、半々かね。俺はこっちの出身だけど、十二年前から向こうとこっちを繋ぐ仕事しててな。最初はターラント……あ、踵のあたりの都市ね。そこから受験生とか送ってたんだけどさぁ、空港から離れすぎてて迷う子が沢山いて。だから俺も向こうの学校に入って魔法覚えて、ヴェネツィアから送れるようにしたんだ」
「魔法……」
極々自然に混ぜられたやはり聞きなれない単語を復唱する。
「やっぱり、島の学校ってその……科学とか、何かの二つ名とかじゃなくて、魔女とかの『魔法』の学校なんですか?」
「あ? 今更何を……」
半笑いで返そうとしたサックが、ふと言葉を止めるとなにか考えるように空に視線を投げた。
「……なるほど、お前まだなんだな?」
「まだ、とは」
「なっはっは! いやぁ若いのはいいねぇ! 初々しい! じゃあちょっくら、俺が見本を見せてやろう」
サックが船を加速させる。船体が水を割って進む音が大きくなり、陸地がさらにさらに小さくなっていく。そうして暫く進むと、サックは船を止めた。
「ミハル、ここから島まで、どのくらいかかると思う?」
「えっと……何日も日を跨ぐと思います」
現在の時刻は時差の関係で午前の十一時前後。
確かに早い時間だが、ヴェネツィアから島までは日本の北海道を除く本土くらいの距離がある。
どんなに早い船でも、数日はかかるだろう。
そもそも、こんな小船で行くような距離ではない。
しかし──。
「でも試験日は今日だろ?」
「はい」
そう、試験日は今日、十八日。
そこは深陽も気にかかっていたのだ。──どうやって、今日の内に試験を行うのだろう、と。
「だからな、間に合わせるんだよ」
「……?」
「魔法でな」
胸を張ったサックは、懐から杖を取り出すと、「見てな」と言ってそれをピュンと上に振った。
「──『この杖は泡沫の子』」
サックが、今度は杖を下に振る。すると、目の前の海面が不自然に揺らいだ。
「『星を閉じ込めた海原よ、その帽子の向こうを見せてくれ。太陽と笑い合う水面よ、その熱を別けてくれ』」
杖は、今度は斜め上に振られる。海水が何度も揺れ、やがて杖に吊られるように波を作る。
「『月を沈めた深海よ、』」
ツイと真上に掲げられた杖に引き寄せられるように、一際大きな波が──二人の船を飲み込もうとした。
ぱたたと頬に落ちてきた水滴に、それまで口を開けて様子を見ていた深陽は慌ててサックの元に駆け寄った。
「さっ──サックさん!」
「『運んだ鱗の姿を現せ!!』」
その言葉を合図にしたように、
大波は船に襲いかかった。