18・イザベル先輩
朝食を終えた深陽とアルファルドは始業式の会場である中央塔の二十九階に向かった。
『中央塔』、『褐色塔』、『学園塔』と様々な名前で自由に呼ばれるこの塔は三十階建てである。講堂や舞台、実験室、食堂、ショッピングフロア、各教員の研究室やゼミ用の教室など、特殊なことに使用する部屋が多く集まり、頂上の三十階にあるのは校長室になっている。
因みに、他の授業で使う普通の教室は塔を囲むブロック積みのようになっている建物群──通称『テトリス』──にある。
テトリスは基本的に高くても三階分しかないため階段を使用するが、塔は三十階建てだ。階段ではあまりに長く、エレベーターやエスカレーターも生徒数の多さから混雑は避けられない。ならばどうするか、悩んだ魔法使いは塔内各所に本を設置することにした。
「ちょっと待ってくれ」
──アルファルドの塔についての説明にストップをかけたのは、表現するならば「んっ?」という顔をした深陽だった。
「ぁんだよ」
「いや、その。『本』って?」
「…………最近は電子化が進んでるって聞いてたけどよ……まさかそこまで……」
「あっそうじゃなくてだな。本は知ってる。文字や絵を連ねた紙たちを束ねた一つの作品だろう? それは大丈夫だ。けどなんで、移動手段の話で本が出てくるんだ?」
そう首を傾げる深陽の視線の先に、一冊の本。──塔に入ってからもうこれで三冊目だ。花瓶が置かれるような感覚で、窓際や廊下の端に設置されている様々な表紙の本たちには、生徒や教員らしき者が集まってはどこかへと消えていった。
寮から出るときもそうだった。入るときと同じように、総合談話室の本棚にある本を手に取り栞の挟まったページを開くといつの間にやら外に出ていた。そろそろ魔法ってすごいな、だけでは済まない。
深陽の質問に「ああそういう……」と返したアルファルドは、悩まし気に眉を寄せる。
「そう言われてもよォ。『向こう』じゃそういうのは結構当たり前にあるっつーか、こっちの世界の法則に当て嵌めて説明なんか出来ねんだよ」
「物質が、本を通って、移動するなんて……なんというか、遠い話に感じるな」
「別にんな難しく考えんなよ。なんつーか……あっちの世界はこっちの世界より『魔法』っていう法則が一つあるってだけだろ」
「法則?」
「『物は上から下に落ちる』、『作用と反作用』、『慣性』、それにプラスして『魔法』」
「……なるほど……?」
やや乱暴であったが、納得出来ないでも無い説明であった。
同じ黒いローブの制服に身を包んだ生徒たちと共に廊下を歩き続ける。途中で記念撮影をしたりどこかの教室に立ち寄る生徒を通り過ぎて、深陽はアルファルドの案内でとある研究室の前で立ち止まった。
優しいクリーム色のドアだ。英語で『Isabelle』と書かれた──深陽には『イザベル』と片仮名表記に見えたため、恐らく懐中時計と同じ仕組みだろう──桃色のネームプレートがかかっている。
どことなく子供部屋のような雰囲気を纏うそのドアを、アルファルドはコンコンとノックした。
「イザベルぱいせーん、本貸してくれー」
そう声をかけると、中からドタバサゴトトと慌ただしい音が聞こえた。「あん人また部屋汚したな……」とアルファルドが呟く。
「イザベル……先輩?」
「ん。四年生」
深陽の短い疑問にアルファルドが短い回答をした直後、ドアが弾かれるように開かれる。
「やぁアッ君、おはよぉ」
そう言って内側のドアノブをつかんで出てきたのは金色の髪をした女性だった。
女性──そう表現するのは間違いではなかったが、その格好は女性らしさからやや離れている。長い髪は癖毛というレベルではないことは明らかなほど寝起きのようにボサボサで、野暮ったい黒縁眼鏡の向こうのオッドアイは寝不足なのかそれとも泣いたのか腫れぼったい上、妙齢の婦人だというのに化粧っ気も全く無い。服も拘りや洒落の無さを主張するように古めかしい地味な茶色のドレスを着用していた。ローブは着てないのだろうかと深陽が部屋に視線を投げれば、本や薬品や謎の機器の下でぐしゃぐしゃにされてしまったそれが見える。唯一女性らしいものと言えば、その髪を纏めるために使用していた花とリボンを組み合わせたようなデザインの髪飾りくらいだろう。
総じた印象は、『魔女』──そう呼ぶに相応しい。
──なんというか、片付け下手な臭いがする。
深陽が持った感想は間違いではない。そんなの、彼女の背後にある一切床が見えないほど散らかった部屋を見れば誰でも思うことだ。
しかしアルファルドはそんなことを全く気にせず──慣れているのだろう──女性に「本ありますか」と訊いている。そんな彼に、女性はふにゃふにゃと笑いながらのんびりとした口調で「まぁそう慌てなくても」と言った。
「その子は例の新入生?」
女性の左右違う目の色が深陽に向く。
「ああ、日本から……」アルファルドが自己紹介しろと言うように深陽の脇を肘でつつく。
「深陽です」
「よろしくミハル。わたしね、イザベル。チョコが好き」
「よろしくお願いします。俺もチョコ好きです」
夢心地の人のようなどことなくふわふわとした声だった。差し出された手を握ると、銀と灰の目が嬉しそうに細まる。
──綺麗な目の色だな。
オッドアイなど初めて見た深陽は、平凡にそんな感想を抱いた。
しばらく二人で手をニギニギとする。
深陽は特にずっと握っていたいと思っていたわけではなかったが、イザベルが離す気配が無かったため、彼もまた離そうとしなかった。
数秒後。
「いや、いつまでやってんだよ」
痺れを切らしたアルファルドが繋がれた手をチョップで断った。
「そーじゃなくてさぁ、やべぇんすよパイセン。もう集合十分前なのにどこの本も混みまくってんだ」
「ん? 何言ってるんだいアッ君、あと一時間はあるよ」
「そりゃパイセンの部屋の時計が一時間間遅れてんじゃねっかな」
ぽけぽけした顔のイザベルが振り返って壁にずれて立てかけられた時計を見る。深陽も一緒に見てみれば、確かに時計の針は一時間分ずれていた。
するとイザベルがゆっくりと二人の方を見て、
「……ィィヤ゛ァア」
と焦燥と困惑と絶望が混ざったような妙な声を喉から引き絞り出した。
膝から崩れ落ち、
そのまま上体を後ろに反らして、
嘆きを叫ぶように両手を顔に当てた。
深陽はそれを見て、体が柔らかい人だな、と思った。
「っていうかパイセン四年代表の言葉言うんじゃないですっけ」
「三十分前集合でリハをする予定だった」
「終わったな」
「アッ君一緒に校長せんせに謝って……」
「でっけぇ大人があに言ってんだよ、早く本貸せ」
アルファルドの下手くそな敬語もどきがついに命令口調になり、イザベルは器用に嘆きのポーズのまま部屋から一冊の本を発掘して持ってきた。
「終わった……四年連続始業式遅刻……もうこのまま六年間遅刻した方がいいかな……」
「ナンセンスなことすんなや、はよ手ェ乗せろ。……おいミハル、お前もだよ」
アルファルドに手を引かれ、深陽は本の上に重なったイザベルとアルファルドの上に手のひらを置かれた。
「『この瞳は万色の識別眼』」とアルファルド。
「うっ……『この命は賢者たちの心臓』」とイザベル。
そして、二人の視線がこちらを向く。
「……えっ」
──同じようなことを言えと?
流れからしてそういうことだろうが、生憎深陽には思い付くような口上は存在しない。うーん、と悩む彼にアルファルドが、
「ええと……『こいつは新入生』」
と深陽から見てもかなり雑な口上を述べた。
──そんな感じなのか。
駄目なのでは、と戸惑う深陽に反し本は微かに震え、三人の肉体を飲み込んだ。波に飲み込まれるような衝撃の中、深陽は「あれで良いんだ……」と目を閉じた。




