15.初恋日和⑦
音弥と知り合ったのは、杏子が臣と付き合いだした頃。中1の終り頃だった。受験生になる兄の家庭教師として臣を通じて家にやってきた。
黙っていると怖そう。口も態度も悪いけれど、本当は優しい人だと知ったのはいつだろう。教師になりたくて、大学で一生懸命勉強していて、家庭教師のバイトもその為で、夢の為に努力を惜しまない音弥の姿をかっこいいと、目で追い始めたのはいつからだっただろう。
教師になる為に、家庭教師のバイトを辞め、疎遠になっていく音弥に、繋がりを失いたくなくて、先生と生徒でもいいからと、彼の就任した高校を受けた。
音弥を困らせたい訳ではなかった。彼がどんな思いで教師になったかを知っているから、高校生のうちは、想いを伝えるような事も、誤解を招くようなこともしないと決めていた。
音弥が好きだから、大丈夫だと思っていた。彼と自分には、他の人とは違う繋がりがある。だから、大丈夫だと、そう、思っていた。でもそれは、“柚子の世界”の中での話だ。柚子に、音弥の知らない世界がある様に、音弥にも、柚子の知らない、“音弥の世界”がある。“小山美桜”という女性は、“音弥の世界”の中の登場人物だ。
好きだから、特別な繋がりがあるから…。そんなもの、幻想だ。綺麗ごとだ。だから今、柚子は自分の知らない“音弥の世界”を受け入れることが出来ない。
「そっか。柚子の好きな人って、辻利先生だったんだ。」
音弥が好きな事。その音弥を追って、この高校を受けた事。先ほど出会った音弥の元カノの話を終えると、槙は呟いた。
昇降口ではいつ人が来てもおかしくない為、3人は滅多に人の来ない、屋上の扉の前に座り込んでいた。
「ごめんね、隠してて。あんまり胸張って言える事でもないからさ。」
苦笑いを浮かべる柚子に、槙はふるふる、と首を横に振った。
槙がこの高校を受けたのは、千夏を追いかけてだったが、柚子にもこの高校に入りたい理由があったのだ。3年間、ただ想い続けるだけの恋であったとしても、一緒にいる為に。
「音くんに、私の知らない知り合いがいる事くらい、当たり前なのにね。いい大人なんだから、彼女がいたことがあっても、不思議じゃないのにね。」
そんなの、考えた事もなかった。好きの気持ちがあれば、上手くいく。そんな、少女漫画みたいなことを、無意識の内に、信じていたんだろう。
「でも、元カノだったんでしょう?なら、今は関係ないんじゃないの?」
「音くんがどう思っているかはわからないよ。でも、あの人は音くんに会いに来たんだと思う。」
じゃなかったら、高校の文化祭に1人で来たりするわけがない。
「でも、イコール復縁するってわけじゃないしさ。」
「そうだね。……でも、そうじゃないんだ。」
「柚子ちゃん?」
「……私に、音くんとあの人を邪魔する権利はないんだよ。あの人だけじゃない。音くんが誰かと恋をすることを、私はただ、見ていることしか出来ない。」
だって、音弥は“先生”で、柚子は音弥の“生徒”なのだから。“生徒”が“先生”の恋愛に口を出すことなんて、出来ないのだから。
「そんな、だって、好きなのに…。」
泣き出しそうな顔で、震える声で途切れ、途切れに言葉を紡ぐ槙に、柚子は眉尻を下げて笑った。本当は一番泣きたいはずなのに、笑う柚子の笑みに、槙は唇を噛みしめた涙を耐えた。
「じゃあ、柚子ちゃんはこのまま、苦しい思いをしながら、音弥くんへの気持ちが消えてなくなるのを待つの?」
自分の知らない“音弥の世界”を想像する度に、告げられない想いを飲み込む度に、柚子は何度傷つき、何度泣くのだろう。もし、本当に音弥が誰かと付き合うことになったら、柚子はどうなってしまうのだろう。
想像しただけで、切なさに胸が苦しくなる。大切な半身が、傷つく姿など見たくはないのに。何も出来ない自分が悔しくて、握った拳が震える。
「ふふ。何で、2人の方が泣きそうなのよ。」
「柚子ちゃんが泣いてくれれば、こっちだって思い切り泣けるんです。」
恨みがましく睨まれ、柚子は双子の姉の頭を優しく撫でた。それで耐えられなくなったらしい杏子の瞳からぽろり、涙がこぼれた。
「何で、私が泣くのよ~…。」
柚子の胸に顔をうずめ、嗚咽をもらして泣く杏子の頭を撫でていたら、背中に額を押し当てられ、背後からも嗚咽が聞こえてきた。
「ごめん、柚子…。泣くつもりなんて、なかったのに…。」
「あはは。槙まで泣いてるの?困ったなぁ。……本当、困ったなぁ。」
天井を振り仰げば、後頭部に、こつん、と槙の頭がぶつかる。
泣き虫2人に前後を挟まれながら天井を見上げた柚子は、心を決める。そして、決意を固めるように、そっと瞳を閉じた。
ねぇ、音くん。わがままな私の、最後のわがままを、あなたは聞いてくれるかな?