2-2.
周囲の異変にまず勘付いたのは部隊長であった。止まれ、という急な全体指示に戸惑いながらも従うと、自分たちが進んでいたであろう道先に数本の矢が突き刺さった。それを機に街道の藪から前方に五人、後方に三人と見るからに堅気のものではない集団が現れたのである。射抜かれた矢は奇襲であったのだろう。射抜いた箇所が人間の頭でも四肢でもどこであろうが傷さえ与えられればヴァジムらにとっては痛手になる。護衛対象である貴族親子の他に、負傷した仲間も庇わねばならない。そんな中で野党と交えるのは非常なハンデとなるのだ。さらに馬を射止められれば足も減らせる。いくら健脚な人間でも馬の脚には敵うわけもなく、獲物に逃げられては元も子もない。
奇襲し足並みを乱したところを一気に攻める。そういう考えが襲撃者にはあったに違いない。よくある手だが、定石ともいえる。だがその奇襲も部隊長に気取られたがゆえに失敗となり襲撃者は仕方なく姿を現したのだ。
数では明らかにこちらの不利である。しかし金で雇われた以上、どのような状況下であっても任務は果たさねばならない。それが傭兵の矜持というものであった。
部隊長をはじめ仲間たちは得意の得物をもって、迫りくる挟撃を迎え撃つ。
そしてヴァジムは――ただ御者台の上で座っていた。
貴族親子の乗る馬車はヴァジムが手綱を持っていたのである。それは勿論、彼が戦いの頭数にならないがゆえの雑用要員として任せられた仕事のひとつだった。この襲撃の中でヴァジムが出来ることといえば、なるべく襲撃者である野盗たちから貴族親子を遠ざけることだけである。
だが、ヴァジムは躊躇った。四対八。数の不利を踏まされている仲間たちは見るからに苦戦を強いられている。
野党に馬の乗り手はいない。一見、その点に置いては有利かと思われたが野盗らは馬上の獲物に対する扱い方には手慣れているようだった。二人一組で相対し、ひとりが人間を相手にしている傍ら、もう一人が馬の動きを抑え込もうと縄で首を括ろうとする。すでに仲間の一人は馬上から転がされてしまっていた。
まだ死傷者はいない。しかし苦戦から転じる好機も見えない。
ヴァジムは戦うことのできない、図体ばかりがでかい木偶の坊である。しかしこの苦境を前に、ひとり貴族親子を逃がすべく手綱を振るうべきか、ヴァジムは躊躇った。契約主を危険の最中に留まらせておくわけにはいかない。だが仲間を置いていくのも心残りだ。
優先されるべきは契約である。苦戦の中に仲間が開いた脱出の活路を脇目も振らずに逃げるのが、ヴァジムが取るべき正しい傭兵としての行動だった。
だがその脱出の糸口も、いまだ見えない。
前方も後方も、仲間たちは馬車に野盗を近づけさせまいとどうにか応戦するのに手一杯で、それもわずかにずつだが押されつつあった。このままでは貴族親子に野盗の手が伸びるのも時間の問題である。
無理やりにでもこの状況を突破するべきか。
唇を噛んで苦慮するヴァジムの背に、場にそぐわない温和な声がかけられた。
「どうやら害虫の掃除に手を焼いているようだね?」
は、と振り返れば、入嵩西家の夫君が襲撃を受けているこの状況をまるで何事もないかのように小窓の向こう側でにこりと笑んでいた。その底知れなさに思わず背筋が粟立つ。
夫君は状況を理解していないのではない。充分に理解したうえで、笑っているのだ。命の危機がすぐそこまで来ているかもしれないというのに、この男は笑えるのだ。虚勢でもなく、心から。その底知れぬ豪胆さにヴァジムはぞっとした。
「虫というのは多勢でやってくるから厄介なものだよね。大した傷にもなりはしないのに、虫刺されというのは痒みが長く身に残るから僕は嫌いなんだ。君はどうかな、ホーキンスくん。虫は好きかい?」
「は、……え、いや、その……俺も好きというほどでは……」
「そうかい。なら早々に追い払わないとね。――莉桜」
奇妙な夫君の言い回しにヴァジムが要領を得ないでいると、彼はふいに令嬢の名を呼んだ。
「害虫の掃除を手伝っておあげ」
「……害虫は叩き潰すのが一番ではないですか、お父様」
「害虫駆除は専門家に任せてしまえばいいよ。それにお前のかわいい手を虫で汚すこともないだろう?」
奇妙な親子の会話の中で、初めてヴァジムは令嬢の声を聞いた。甘やかに高い、蕾から花が咲き開くならこのような愛らしい音であろうと思わせるような。現実に花の音が紡いだ言葉は、叩き潰すなどという物騒なものではあったが。
がたりと、何か硬いものが立てた音が馬車の内から聞こえてくる。ヴァジムの見る小窓からは夫君の顔しか見えず、何の音であるのか判別はつかなかった。
「では、お父様の仰るとおりに」
令嬢が花の声を発すると同時に、馬車の扉が開かれる。くるりと花飾りをあしらった髪紐で一纏めにした黒髪を揺らしながら、軽やかに令嬢は馬車から降りてきた。白魚の手に握られたものにヴァジムは目を剥く。
木剣だ。
貴族の令嬢が持つにはあまりにも似つかわしくもないものを、さも当然のような顔で手の中に収めた彼女は、呆気に取られて声が出ないでいるヴァジムを置いて歩いて行く。怒号と剣戟が飛び交う争いの中へと。
は、と正気に返りヴァジムはまず夫君を見た。彼はゆったりと座席に腰を落ち着けている。娘が野盗の元へ木剣一本だけを持って向かっていたというのに、相変わらず口元をゆるりと歪めているだけなのだ。この男は一体どういう神経の持ち主であるのだろう。自身の命の危機にも、娘の命の危機にも、まったく一片の動揺もなくこうして穏やかな笑みを保ち続けられるなどヴァジムには全く理解できない。
仲間の様子を慌てて見遣れば、馬の背に乗っているのは部隊長だけとなっていた。他の者は馬上から引きずり降ろされ、地べたを這うように応戦したり落馬した際に打ち身を作ってしまったのか片手をかばいながら防戦一方であったりしている。
その喧騒の中へ、場に不似合いな華奢な身体が駆けていく。
「お嬢さま……っ!?」
驚愕の声を上げたのは、自分であったか部隊長であったか。
令嬢はそんな声に耳を貸さず、黙って野盗めがけて木剣を構えた。彼女を視線に捉えた野党は、にたりと厭らしい笑みを浮かべる。獲物が自ら懐に入り込んできた、と蔑む色がありありとその薄汚い顔には浮かんでいた。
野党と相対しても令嬢の表情は変わらない。剣先を下に構え、まっすぐに駆けていく。
「おいっ、ガキがわざわざ向こうから捕まりに来たぜ! 傷つけるんじゃねぇぞ、ガキでも女はいい値で売れるからな!」
野党の頭目だろうか。どこからかそんな野卑な大声が上がった。
その瞬間、令嬢の冷めた瞳が大声を上げた男へとぎょろりと動く。駆けていた先にいた野党が令嬢を捕えようと襲い掛かるが、彼女はその手前で右足を強く地に踏みしめて軌道を急転換させた。捕え損ねた野党の腕が空を切る。その勢いに流されて姿勢を崩した野党の隙を仲間の一人が見逃さずに、咄嗟に得物で鳩尾を深く抉り刺した。胃にめり込んだ衝撃に耐えきれず、野盗は胃液を吐いてその場に崩れ落ちる。
その間も、令嬢は迫りくる野党の手をすり抜けながら駆け抜けていった。
彼女の表情には何もない。焦りも、恐怖も、父親のように笑みひとつ令嬢の顔には浮かんではいなかった。ただただ無感動に、羽虫を振り払うように彼女は駆け抜けていく。
剣を振り上げた者には、その手の甲を木剣でもって叩きつけ剣を取り落とさせた。馬の首を括る縄を持った者には投じられた縄の輪に剣先を引っ掛け、逆に引き摺り返して地面を舐めさせた。二人がかりで向かってきた者には巧みな足捌きでその背後へと回り、無防備な背中へと木剣の打撃を与えた。
一瞬前まで覆せぬ不利な状況が、華奢な少女一人の為に塗り替えられていく。
令嬢を捕えようとし、逆に反撃を食らった野党は次々と仲間が最後の一撃を加えていき連中の数は一人、また一人と減っていった。
そうしてついに、その場に残る野党は三人だけになった。一気に不利な状況へと追い込まれた野党の頭目と思しき男は焦りの表情で舌打ちをして、その場から逃げ去ろうとする。打ちのめされた仲間を救う気は更々ないらしい。
「くっそ……っ退くぞおい!」
「で、もっ、お頭!? あいつらは……」
「ガキ一人にいいようにされやがったあんな役立たずどもなんぞ知るか!!」
這う這うの体で逃げようとするその情けない背を、令嬢の冷めた声が追いかける。
「ならず者の集まりとはいえ、長を預かる者が自ら部下を見捨てるか」
令嬢は駆け続けてきた足でもう一度、地を踏みしめると乾いた土埃を巻き上げるほどに強く爪先を蹴りだした。瞬時に野盗の頭目へと距離を詰める。驚愕に目を剥く男の顎を柄で突き上げ、大きく仰け反ったその顔面に令嬢は容赦のない一撃を振り下ろした。
「所詮、下郎は下郎にしか成り下がれんというわけか」
頭目の顔にめり込む木剣の刃。ごき、と鈍い音がやけに大きく響いたのは鼻の骨でも折れたからだろうか。
顎を突く衝撃からの打撃。二連の打撃に頭目は苦悶の声を上げることもできず、そのまま静かに膝から崩れ落ちて地面へと倒れ込んだ。令嬢の一撃は、頭目の意識すら押し切ってしまったようである。伏した地面に、どろりと折れた鼻からのものと思われる血が広がっていった。
場をあっさりと塗り替えてしまった、可憐にしか見えない少女。
しかしその見た目から想像もつかない武力を示したみせた彼女に、残されたもう二人の野党はすっかり腰を抜かして怯え切った眼差しで令嬢を見上げていた。戦意を失った彼らに令嬢は見向きもしない。
そして、ヴァジムら護衛の面々を、その無感動な黒い瞳で見据えた。冷めた表情がようやくわずかにだが感情らしきものを露わにする。
侮蔑という、情を。
「役立たずどもは貴様らの方だ」
苛立ちに満ちた黒い瞳と共に吐き捨てられた侮蔑が、彼女が初めてヴァジムらに向けた言葉であった。
普通に考えれば、護衛の任を全うできず、しかも護衛すべき存在に身を救われた傭兵部隊など使い物にならないと切り捨てるのが全うな雇用主の姿であろう。
しかし入嵩西家の夫君――入嵩西宗司はあの底の見えない温和な笑みで契約破棄を言い渡されるであろうと覚悟していた部隊長にこう言ったのだ。
「じゃあ行こうか。帝都まであと少しだ。残り短い付き合いだけれど、よろしく頼むよ」
部隊長はもとより、ヴァジムを含めた部隊全員がその言葉に目を疑った。父親の言葉に令嬢は何も言わず、黙したまま馬車に戻っていく。
何とも言えぬ居心地の悪さを誰しもが抱えたまま、その後は何ら障害もなくヴァジムたちは無事に貴族親子を屋敷まで送り届けた。報酬は、きちんと交わした契約に違わぬ額の金が支払われた。
さらに妙なことは続く。宗司は何を考えているのか、その以後も時折自分らへ仕事を頼むようになったのである。あれほどのみっともない失敗を見せた傭兵部隊へどうして仕事を回す気になれるのか。最初こそ訝しんだ部隊長や仲間も、今ではすっかり帝都で仕事が出来るお得意様だと宗司を好意的に捉えるものが多い。
けれどヴァジムは、やはりどうしても宗司という人間が理解できず苦手に感じていた。
そして何故か自分にお鉢が回ってきた、入嵩西莉桜というそんじょうそこらの人間では敵うべくもない少女の用心棒、というの名のお世話役の任である。やはりあの男の思考は理解不能だ。
「――って、あ」
ぼんやりと過去を振り返っていると、莉桜が最後の一人の腕を掴み上げ無残にもその関節を折り曲げている光景にはっとヴァジムは現実に立ち返った。聞くに堪えない絶叫に、思わず両手で耳を塞ぐ。
「……お嬢はどうしてああもえげつないのかねぇ……」
おっかねぇ、おっかねぇ。と、ヴァジムは眉を顰めて莉桜の姿を見つめる。その姿は初めに出会った頃と変わらず花の愛らしさを誇っていた。あの白魚の手に真剣を握ってさえいなければ、この国でいう立ち姿は芍薬、という女性を賛美する言葉が似合っていたであろうに。
しかし当の莉桜はそういったことには無頓着であった。
彼女くらいの娘であれば、顔を美しく整える化粧に身を飾り立てる装飾の類に興味津々であろうに、莉桜はまったく興味を示さない。
莉桜が見詰める先には、ただ武の道がある。
それが、入嵩西家の血筋を受けた者が持つべき意志なのだと、彼女は言って憚らないのだ。顔はともかく、性格に髪の毛一筋ほども可愛げのない莉桜に果たして婿など見つかるのだろうか。旅の目的を思い出し、ヴァジムは思わず嘆息した。
彼は結婚経歴のない男であったが、莉桜のような恐ろしい女を妻に迎えるなどまかり間違っても御免だと思わざるを得ない。
これから向かうという三家の子息は、莉桜を見てどのような反応を示すのだろうか。
女が剣を取るべきではない、という莉桜が最も嫌うような発言をして彼女の機嫌を損ねるようなことにはならないでくれと、ヴァジムは信仰もしていないどこかの神に祈らずにはいられない。
「ヴァジム。もういいぞ」
茂みの向こうで、お嬢様からお許しの声がかかった。
旅の行く末に漠然とした不安を思いつつ、ヴァジムはよっこらしょっと立ち上がる。お嬢様はさて今度はどんな雑用を自分に命じなさるのかねぇ、とそんなことを現実逃避に近い心境の中で思った。