2-1.
ヴァジムの視線の先では、剣を持った花が踊っている。別に彼は詩人などではないし、歯の浮く飾り付けた言葉を口にするほど軟派な性でもない。それでも彼女を例えるにこれ以上に相応しい言葉をヴァジムは思いつかなかった。
片刃の剣――この国では刀と呼ぶべきものであったか――を構え、大の大人の男三人を手玉に取る見事な武勇。自分では辿りつけぬ業の境地。勇猛でありながらも体捌きからは無骨さは感じられず、優美さと気品を醸し出している入嵩西莉桜の姿を、ヴァジムは羨望をもって見詰めていた。
対して自分は喧騒から身を隠すために藪の中である。自分より一回り以上も年下の、しかも少女一人で野盗に立ち向かわせるなど男として恥ずかしくないのかと謗りを受けても仕様のない状況だ。ヴァジムとて情けないと思わないでもない。だがこれが最善手であるのだからどうしようもないのだ。
ヴァジムは厳ついだけの男である。
特に鍛え上げたわけではないのに勝手に育ってしまった太い筋肉を持つ四肢。同郷人と比べてもずいぶん縦に長く伸びてしまった身長。善人と言い張るほど面の皮は厚くないが、女子供には一目でも目が合うだけで逃げられる凶相は悲しいかな生まれつきだ。ヴァジムは図体がでかいだけの見かけ倒しの男である。ああして莉桜のように剣を持ち、しかし刃を向けることなく鮮やかに立ち回る芸当など、逆立ちしたって出来はしない。
ヴァジムが最も手に馴染む刃物といえば、包丁であった。異国流れの者たちを中心に構成されている傭兵部隊の一員といえば勇ましく聞こえるが、実際のところ、ヴァジムの部隊での役回りはもっぱら飯炊きなのである。
一応は、と剣術や体術の指南を受けたこともあった。ヴァジムは決して運動能力が鈍い男ではない。しかし武術は、からっきしであった。部隊の誰もがこいつには何をやらせても無駄だと一斉に匙を投げるほどに、武術の才がなかった。
この体躯ゆえに力はある。片手で丸太を担ぎ上げられる程度の膂力はあるのだが、何故だかどうしてその力を体術に活かすことが出来なかった。ヴァジムは臆病な気質ではない。しかし外見に見合った荒事向きの豪胆な気質を持っているというわけでもなく、厄介事は出来ることなら避けたいと考えるごくごく一般的な気質の人間であった。
そんな彼がどうして傭兵部隊などというきな臭い組織に身を置いているのか。まあ生きていれば自分でも予想だにしない道へ踏み入ってしまうこともある。望んで踏み入った道ではない。しかし望むと望まざるにかかわらず、部隊に身を置くなら多少なりと身を守る程度の腕は磨け、という部隊長の言葉に従い受けた指南であったが。
結果が、この有り様だ。
剣を持てば地面に突き刺さる。体術を習おうとも投げ飛ばされるのは自分ばかり。
歴戦の勇士と言っても誇張ではないと言えるほどの体躯を持ちながら、剣も拳も振るえぬ飯炊きだけが能の男。それがヴァジム・ホーキンスという男であった。
だからこそ、ヴァジムは莉桜に憧れてやまない。いや、莉桜という個人にではなく彼女の持つ武術の才に憧れ惹かれている、というのが最も正しい。彼女個人に対してヴァジムは特別な想いを重ねてはいなかった。自分よりも一回りも下の小娘。背丈もヴァジムの胸元にあの小さな黒髪の頭が届く程度の小柄具合だ。そんな子ども相手に情を持ってしまうような特殊性癖は持ち合わせていない。
そう、入嵩西莉桜は成人前の子どもだ。
ガキにすら力で劣る自分を情けないと、思わないわけがない。
だが莉桜に対して僻みだとか嫉妬であるとか、その手の感情は不思議と湧いてこなかった。そんな浅ましい感情を抱かせないほどに、莉桜の力は比類なく強かった。加えてその強さに相応しい気高さも持ち合わせており、それはヴァジムが抱き続けていた理想でもあったのである。
自分も男だ。男は誰しも強さに憧れを抱く。だが憧れに反して、剣も拳も満足に扱うことが出来ない惰弱な身であるのはヴァジム自身が誰よりも重々に理解している。若い頃はこんな己に憤りもした。しかしそれも三十路の半ばを過ぎれば諦めへと変わっていく。年を食うとは、そういうことなのだろう。どうにか自分を変えようと躍起になっていた青年時代の情熱は、いつしか己が持つ才への諦念へとすり替わっていた。
けれどやはり、ヴァジムは男なのである。
自身の力量に見切りをつけようと、男という生き物は青臭い少年の時分であっても枯れた老人の時分になっても、強さに憧れて惹かれるものなのだ。
莉桜が子どもであるとか、女であるとか、そんなものはどうでもいい。
彼は純粋に、彼女が持つ戦いの力に魅入られている。
自分も、かくありたい、と。
「(……まあ無いものねだりでしかねぇけどな……)」
憧れは、手に入らないと判っているから、憧れで終わるものなのだ。
若い時分に莉桜と出会えていれば、その強さに憧れと嫉妬を抱き、一念発起してまた新たに自分を叩き上げられたかも知れない。けれどそのような情熱を持つには、もうヴァジムは年を重ねすぎていた。自分はもう四十の手前である。諦め、ということ知ったこの年で若い頃のような情熱を取り戻すにはいささか遅すぎた。
身を潜ませた茂みの隙間から窺う莉桜は、すでに最後の一人を相手とするのみだ。容赦なく振り下ろされる斬撃を、詰まらない様子で軽々と避けている。
思えば最初に出会った時も、彼女はあんな顔をしていたのだったか。
ヴァジムは何度と莉桜が闘う様を見たことがあったが、彼女が意気高揚と剣を振るう様は未だに見たことがない。それだけの相手が、彼女の前に現れたことがないのだろう。
そうあの時だって、莉桜は虫を払うような詰まらない表情であの剣を振るっていた。
莉桜、引いては入嵩西家とヴァジムが身を置いている傭兵部隊がかかわりを持つことが出来たのは偶然としか言いようがない。デカい仕事だ! と部隊長が興奮に顔を赤くさせながら声を上げて駆けこんで来たことは今でも記憶に新しい。
軍人家系の貴族――この国では華族と呼ぶらしいが――の中でも特に名の高い入嵩西家。その当主である夫と娘を帝都まで護衛する、というのが仕事の内容であった。
入嵩西家の本家は帝都にある。この時は隠居している先代当主夫妻に現当主の家族が訪れていたとのことであった。当主は急ぎの用があるからと一足先に帝都へ戻っており、後に残った夫とその娘が帝都へ帰るのに用心棒を探しているという話をどこからか部隊長が耳聡く聞きつけ、なおかつ仕事をもぎ取ったらしい。
仕事の内容としては、それほど大したものではない。ただの護衛任務である。それを部隊長が興奮冷めやらぬ様子で仲間へ声高に伝えたのは、この国の名家と仕事の縁を得られたこと、そして何より帝都というのが大きいところであった。
この国は数百年の長きにわたって他国との関わりを絶ってきた国である。
それを二代前のヤヒロノミカド、という国主が国を開くことを決断し、それからこの国は国内の人間ではなく他国の人間とも交流を始めるようになったのだ。
国を開いた当初は、見慣れぬ異国人やその文化を受け入れぬ者が多かったと聞く。月日を経るごとに国を出る者、国へ入ってくる者が増え、今では自国の文化に他国の文化を入り混じらせた奇妙な風景がこの国ではそこかしこで見られる。
それでもまだ、異国人がこの国で商業を営むには門戸が狭い。数百年も自国人の人間だけと関わりを持ってきた国なのだ。見慣れぬ風貌の、国の名を聞いてもどこにあるのか知らないような所から来た人間を容易に受け入れられるはずもない。
そこへ突如振ってきた幸先のいい仕事である。うまくいけばこの国の中心である帝都で仕事を広げられる足がかりになると、部隊長は息巻いていた。
部隊仲間も部隊長の意気込みに同調したが、ヴァジムを含む数名はやや疑問を感じていた。どうして国の貴族が、よりにもよって異国人の用心棒を雇い入れようと決めたのか。それに軍人家系の名家が用心棒を探している、ということも引っ掛かった。貴族を名乗るほどの名家ならば、その家が抱える護衛なるものがいるものではないのか。
疑念はあれど、うまい話であるのは確かだ。
目先にある大きな餌に釣られて下手を打つ人ではあるまい、という今まで自分たちを率いてくれた部隊長に対する信頼も相まって、結局、疑念を発する者もなくヴァジムらは数日後に入嵩西家の護衛の任に就いた。
「異国の人は身体の大きな人が多いんだねえ」
貴族の親子を護衛する部隊員は四名。それに加えて道中の雑用要員であるヴァジムを含めて五名の面々を見て、入嵩西家の夫君はのんびりとそう呟いた。
ヴァジムを含め、部隊員の国籍は様々だ。しかし全員が西大陸の出であり、中肉中背が平均的な体格であるこの国の人間から見れば確かに大柄な人種と見えるのだろう。実際に部隊でも一番に小柄な仲間と比べても入嵩西家の夫君はわずかばかり身長が劣っていた。
雇い主に言ってはあれだが、夫君にはどこか間の抜けた印象が拭えなかった。けれどこの鷹揚な雰囲気は貴族という人間には見慣れた雰囲気である。さほど気に掛けることではないし、任務に支障を起こすような厄介な人柄でないのなら喜ばしいことだ。
一方の令嬢といえば、父親の背後に身を潜ませたままでいる。
見慣れぬ異国人だと怖がられるのは見慣れた反応だった。けれど、この令嬢からはそんなかわいらしい様子は一切うかがえず、むしろ自分たちを品定めしているかのようにじっと深い黒の瞳で見詰めているのである。正直なところ、不気味だった。
会話はもっぱら夫君が口を開き、令嬢は一言も声を出さない。
この国の女というものは、家族以外の男と軽々しく口を利くのははしたないという風潮があるとは聞いていたので、この令嬢もご多聞に漏れず、といったところなのだろうと仲間内で納得しあった。
そうして三日間の護衛任務がはじまった。
開国前であれば、移動手段は徒歩か籠に人を乗せて二人がかりで運ぶという恐ろしく原始的な方法であったらしい。いずれにしろ人の足で進まねばならなかったところだが、今は馬車という文明的な移動手段がある。ヤヒロノミカドなる国主が国を開いたがゆえにもたらされた偉大な功績だ。でなければヴァジムらは人を積んだ籠を肩に担いで帝都を目指す羽目になっていただろう。
貴族の親子は馬車に乗せ、その周囲を馬に乗った護衛役が固めた。
道中、ヴァジムは雑用要員らしく休憩時の馬と貴族親子の世話や、宿の手配、入用な物資の調達と様々な雑務に追われた。旅は存外、穏やかに進んだ。このまま順調に進めば予定の旅程より早く帝都に辿りつけるだろうと、仲間が賃金の割には楽な仕事だったと笑い合うほどに。
そんな自分たちを、あの令嬢はじっと見詰めていた。
見詰めるだけで、相変わらず一言も声は発さなかったけれど。
「あのお嬢さんはなんかおっかなくねぇか」
思わずヴァジムがそう仲間にこぼすと、彼らは皆そろって笑った。
「あんな小さいお嬢ちゃんに何を怖がるってんだ」
「そうだそうだ。どうせ、俺らみたいな異国人が物珍しいだけだろう」
「我らのお袋は肝っ玉まで小さくなっちまったのかぁ?」
お袋ってのは肝っ玉が図太いもんだろう、という仲間の揶揄に怒りも湧かないほど、彼らの言い分にヴァジムは納得できなかった。
確かに見かけは、お貴族のご令嬢らしくかわいらしい。黒い瞳はぱちりとした二重で、癖のない黒髪は艶を持ちまっすぐに流れている。身体つきも華奢で、ナイフにフォーク以外に重いものは持ったことがありません、と言われれば充分に説得力があった。
しかし令嬢というものは、こう、もっと華やかな雰囲気があるものではないのか?
それはヴァジムの持つ貴族に対する偏見と言ってしまえばそれまでだ。けれどあの貴族然とした朗らかな夫君に比べて、令嬢のまとう雰囲気には棘があるような気がしてならなかった。
あの、自分たちを無感動に見詰める黒い瞳。
内心の知れぬあの瞳が、どうしても仲間のようにヴァジムには笑い飛ばせなかったのである。
「(……けどまあ、あと一日だけの付き合いだしな……)」
ヴァジムが気に掛けようと、目的地である帝都はもう直ぐである。帝都にある入嵩西家の屋敷まで護衛任務を全うできれば、あの不気味なまなざしを寄越す令嬢とも関わりはなくなるのだ。
そう思い直し、ヴァジムは任務の最後になるだろう一日を迎えた。
だが先人に曰く、青天に稲妻が落ちるとはよく言ったもので、帝都までもうわずかだというところで彼らは盗賊の襲撃に遭ってしまう。