1-2.
入嵩西家は尚武の家系である。祖は刀鍛冶であったというが、刀を知るならその扱いも知るべし、という家訓により鍛冶師でありながら剣術にも精通した家として名を上げるに至ったと聞く。やがて特に一族のものから武術に秀でたものが時の華族より衛士として召し上げられ、武官として身を立てるに至ったのが武家としての入嵩西家の始まりである。
さてこの入嵩西家だが、現当主は女だ。古来より女流家系というわけではない。相続権を持つ兄弟の内、最も武術に秀でたものに家督を相続するという武家として身を立てるに至った祖先にあやかった習わしだ。
入嵩西家はその祖の興り故に、もっとも武を重んじる。他の名家に見られるような男女の境など無い。男系継承を当然とする考えは異国との関わりが深まってきた昨今において古い時代のもの、という意識が人心に芽生えたのは本当にごくごく最近のことだ。
国を閉ざしてきた前時代まで、男系継承は至極当然のものであった。女が当主におさまるなど以ての外。そのような考えが一般的であり絶対とされる中であっても、入嵩西家だけは男女の境より武に重きを置いてきた。
当主が女であれ男であれ、その伴侶は他家より迎え入れるのは特殊な家風を持つ入嵩西家であっても同じことである。当主が女であれば婿をとる必要があった。一般的な名家であれば幼き頃より定められた許嫁がいるものであるが、そこは他家とは一線を画す入嵩西家、そのような考えは元より持ち合わせてはいない。
一族の中で最も武に秀でたものを当主とするならば、それに相応しい伴侶を伴え。それがこの家においての婚約における決め事だ。
まあとどのつまり、
「己の伴侶は己の目で見出すもの。判りますね、莉桜」
きらりと鋭い切っ先のような眼差しと共に、余談を許さぬ母の硬い声が莉桜の耳を打つ。はい、と莉桜は従順に頷いた。わずかに視線を落とした先には三人の男の写真がある。
その日、莉桜は母に広間へ来るようにと呼び出された。そして赴いた西洋風に作られた広間には呼び出した母が上座に、その傍らに父が椅子に座って莉桜を待っていた。そして広間の中央に設えたテーブル。その上に並ぶ写真。
この時点で、母の話がなんであるか大体の見当を莉桜は付けていた。
「お前も十五の年を迎え、後一年もすれば婿を取る身。そこの三家に赴き、己の伴侶を見定めてきなさい」
「なあ藤尾、まだ莉桜が後継に決まったわけではないだろう? やっぱり許嫁探しはまだ先でいいんじゃないかい」
背筋をぴんと正した母の隣で、相反するように鷹揚に構える父がそう口にした。
「お前と私が婚約したのだって、藤尾が我が家を相続すると決まった後じゃなかったかい?」
目尻がやや垂れた和やかな視線が母を見て、それから莉桜へと微笑みかける。
しかし母は、きっと父の笑みを斬りつけるような視線を飛ばした。
「あなた。一度は頷いた話をこの場で蒸し返すのは感心しません。わたくしの時はわたくしの事情。莉桜が同じくする道理はありません。確かに莉桜はまだ家督相続の資格を有する内の一人。まだ後継と決まったわけではありませんし、特別に莉桜だけに目をかけているつもりもありません。しかし入嵩西家の血を受け継ぐ人間として、相応しい伴侶を見定めるのは当主であろうがなかろうが関係ありません。娘に相応しい婿を、そう望んだのはあなたも同じだったでしょう」
「それはもちろん。可愛い娘に、変な虫が付くのは僕も嫌だからね」
反りのない鋭い刃のような母の雰囲気と違い、ふわりとしているがどこか捉えどころのない雰囲気を纏う父。どこかちぐはぐに見える夫婦であるが、莉桜にとっては慣れ親しんだ両親の図である。
静かに莉桜が見守る中、夫婦の話は進んでいく。
「でもね藤尾。やはり莉桜一人で出かけさせるのは危ないんじゃないのかなあ」
父の宗司の声に、莉桜は写真へ落としていた視線を上げる。
「ひとり、ですか」
「ええ、そうですよ。莉桜」
応えたのは宗司ではなく、母の藤尾であった。
「そちらに選んだ三家の子息はかねてより我が家と付き合い浅からぬ家。婿に迎え入れたとて不足はないとわたくしが選びました。ですが先ほども言ったとおり、己の伴侶は己で見出すもの。この三家の子息のいずれかと縁を結べとは申しません」
お前が伴侶と見定めたのならそれはそれで構いませんが、と藤尾は最後に付け足した。
莉桜は密かに内心で首を傾げる。母は伴侶となる許嫁を見定めるよう三家に行けと言いながら、別にこの三家を袖にしてもいいと言うのだ。それに莉桜一人で赴かせるようなことを呟いた父の言も気になる。
娘の疑問を察しているのか、藤尾は続けて言葉を切り出した。
「八島の鵜飼家、初瀬の八文字家、周防の千季家。この三家には莉桜、お前ひとりで赴いてもらいます。必要な旅費は無論渡しますが、世話役は一切伴わせません。旅路の間は女一人の身だからと侮り、野盗のひとつふたつくらいは出遭うでしょうね。ですが莉桜、我が家の一の家訓は?」
母に振られ、莉桜は反射的に口にした。
物心のつきはじめた幼少の頃より、心身に叩き込まれた入嵩西家の律条。
「武なるは貴し、武を以て誉あらん」
淀みなく答えた娘に藤尾は満足げに頷いた。相変わらずその硬い表情はぴくりとも笑みに緩むことはなかったが。
「そう。入嵩西家の血を繋げるために最良の伴侶を見定めるは責務でありますが、我が家が最も重きを置くのは武の強さ。お前は同世代の者にこそ力では劣りませんが、我が家の内においてはまだまだ未熟。よって莉桜。お前には三家に赴き伴侶たるか見定めること、そしてその道中において武術の研鑽を積みなさい。これは母として、そして入嵩西家現当主としての命です」
「承りました。お母様」
こくり、と莉桜は否やを口にすることなく、すんなりと母の命を受け入れた。
要は婿探しにかこつけて武者修行をして来い、ということだろう。藤尾には莉桜の他に三人の子どもがいる。その第一子が莉桜なのだ。
この国において婚姻が許されるのは女子が十六、男子が十八の年を迎えてからと定められている。莉桜が十六歳の誕生日を迎えてしまえば直ぐに婚儀を行う、という考えは今までの母の言葉から察するにないと思われるが、武家の名家と名高い入嵩西家の長女が十六になっても許嫁もいないとあってはいささか体裁も悪い。
いくら武を重んじる家とはいえ、入嵩西家も華族として上流社会に身を置く一族。上流には上流の常識というものが厄介なことにあるものなのである。
三家のいずれかの子息を莉桜が見初めればそれで良し。
いずれの子息も伴侶とするに値しないと莉桜が見定めれば、それも結構。
入嵩西家の長女が許嫁相手を探している、その事実だけが世間に伝われば充分だと藤尾は考えているのだろう。
通常のところは家長が娘の婿に相応しい家柄と血筋を持った子息を宛がうものであるが、武の家として上流社会の中でも入嵩西家は良くも悪くも特別視されている。名家の令嬢が自分の足で婿探しをしているなど、他家なら品のないことだと非難されることだろう。だがその点、入嵩西家には「あの家ならやりかねない」と思われるだろう妙な信頼を上流社会の中で培っていた。
古くより名家としての常識を歯牙にもかけなかった家である。他家の批評など、気に掛ける家風でもない。
「ではわたしは支度を……」
旅の支度を整えて参ります、と告げようとしたところで宗司から声が上がった。
「おや、莉桜は本当にひとりで行ってしまう気なのかな」
「あなた」
突き刺すような非難の響きを含んだ母の声が父の声を遮ろうとする。妻の睨みにもふわりと笑みをもって父は平然と微笑み返した。
「まだ早い気もするけれど、莉桜にとって良縁が見つかるのならば僕としても万々歳だよ? でもね、かわいいわが子を一人で旅に送り出すのはやっぱり父親としては心配かな」
「……お父様は、女の一人旅が危ういと仰るのですか?」
だとすれば、ひどい侮辱だ。
母にはまだ未熟と言われようと、莉桜は幼い頃より武の研鑽を積んできた。少なくとも同世代の男子よりは、剣術の腕は莉桜の方が一枚も二枚も上手であると自負している。
十年に渡って重ねてきた努力を、他ならぬ父に信用されていないのか。そう思われているのかと宗司の言葉から思い、莉桜は腹の奥から怒りが煮えたぎりはじめるのを感じた。
「莉桜が女の子だから、というのは関係ないよ。わが子のことを案じるのは父親としておかしいことかな?」
こて、と小首を傾げながらそう言われては、莉桜の中で火のついた怒りも霧散する。
「い、いいえ……」
「僕は入り婿の身だけれど、家のことはちゃんと理解しているさ。今回のことで、莉桜がもっと武術に磨きをかけられるのならそれは勿論、父親として誇らしいことだよ。けれどそれよりも怪我ひとつなく、元気な姿で帰ってきて欲しいのが僕のいちばんの望みでもあるんだ。ねぇ藤尾。こう考えてしまう僕は、我が家に名を連ねる資格のない臆病者なのかな?」
父は相変わらず温和な笑みを浮かべて母を見遣る。
武なるは貴し、武を以て誉あらん。これが先ず入嵩西家の子らが心身に叩き込まれる一の家訓である。自らの武と相手の武はその力量の差に関係なく等しく貴ぶべきものであり、その武は己の誉れとするべきものである、というものだ。
宗司の言葉は、この家訓を思えば入嵩西家に相応しくない者の発言と取れるだろう。
だが藤尾は、夫の言葉に首を横に振った。
「そう思うあなただからこそ、わたくしの夫に相応しいと選んだのです」
母のにこりとも笑わない声に、父はこの上なく嬉しそうに笑っている。つまり藤尾も宗司の考えには賛同しているということなのだろうか。両親の間に流れる何やら割り込めない空気に、ひとり莉桜は困惑した。
「まあ、そういうわけだからね。莉桜」
「はあ」
「お前の護衛もかねて用心棒を一人くらいは連れて行って欲しいと思うんだよ。三家のいずれも、この帝都からは少し離れているし数日の旅程じゃ済まないだろうからね。人手はないよりあったほうがいいと思うよ?」
別に莉桜としては単身で出かける方が身軽であるし気楽であったのだが、
「お父様がそのように仰るなら」
父の気遣いを無碍にしようという気も、莉桜にはなかったのでこれにも彼女は素直に頷いた。娘の反応に宗司はうんうんと満足そうに笑みを深めている。
「それじゃあ莉桜は旅の支度を整えておいで。出立はそう急ぐことでもないだろう? 藤尾」
「そうですね」
「なら一週間後に出立ということにしようか。その間に、お前の世話をしてくれる人を僕は当たっておくとしようか」
「そのことですが、あなた」
許嫁探しを建前とした武者修行の旅の話が進む中、ふと母が父を見遣る。
「莉桜につけるというその世話役でも用心棒でも何でも構いませんが、きちんと素性の知れた者でないと、例えあなたの人選とはいえわたくしは認めませんよ。莉桜は大事な跡継ぎ候補の一人です。あなたの言う宛てとやらは、ちゃんと信用のおける人物なのでしょうね?」
「勿論だよ。言っただろう? 可愛い娘に変な虫が付くのは嫌だってね。人柄については僕が保証するから安心おし」
そう言って父はにっこりと妻と娘に対して微笑んで見せたのだった。
確かに、人柄を言うのならヴァジムはまともな人間だ。時折、莉桜を苛立たせる言動はするものの、だからといって彼という人間を疎ましく思うほどではない。
唾棄すべきは、人柄についてではなく。
その見かけに反する、軟弱さだ。
ヴァジムは異国人によく見られる高身長に加え、一見するとたゆまぬ努力を積んだと思わせる頑健な筋肉を持ち合わせた偉丈夫だ。頬や腕に走る幾つもの傷痕は歴戦の功績と誰もが思うだろう。
男子の体格は中肉中背であるのが平均的な人種とするこの国において、ヴァジムの大柄な体格はまさに護衛として従えるには適役であるのだ。現に彼は、この国に流れてきた異国人を中心とする傭兵とかいう民間の部隊組織に属している。ならばこの体格であるのだ。さぞかし優れた技量を持つ武人なのだろうと誰しも思うだろう。
しかし――誰が思うだろうか。
ヴァジムの肌に残る傷痕がいずれも戦いのそれではなく、ある時は猫に引っ掻かれある時は犬に噛みつかれある時は包丁の手際を誤った際に負った傷ばかりであるのだと。
思わず歴戦の勇士と仰いでしまう彼の仲間内での通り名が、「お袋ヴァジム」であると。
果たして、誰が想像しえたというのだろうか。
父が莉桜のために旅の供として見繕ったヴァジム・ホーキンスという男は、護衛というには枯れ木の小枝ほどにしか役の立ちどころがない、ただの下男であったなどと。
2015.9.9第1話本文を分割。読みやすい文字数を考え、1話5,000字前後とすることにいたしました