克己
「負けちまったなぁ・・・」
タバコの煙が吸引される音が聞こえる。目をつぶり、何を思っているのか、それとも思っていないのかわからない顔で、親父は俺の真正面に座っていた。
「・・・はい。負けてしまいました。」
ピアノのコンサートのことである。負けてしまったというのは。
本来ピアノに勝ち負けなんてあるとは誰も思わないかもしれない。だが、音楽家は誰にだってほんの少しでも誇りというのがあるのだ。長い年月をかければそれだけ誇りは積もる。
積もった誇りはやがて、自分と同じ誇りを持ったものと会ったとき、なんらかの方法で競い合おうとしてしまう。
俺が弾いたのは普通のコンサートでのことだった。どちらが優秀かを競うようなものですらない学校の単純な。しかしこういうコンサートを開くと、自分の思っていなかったような人がエントリーをする。
そしてあいつもそうだった。
俺がそいつの腕を垣間見たのは、音楽室に残って先生のアドバイスをもらおうとしたときだった。そいつは難しい曲を暗譜ですでに綺麗にこなしていた。曲の強弱がやや弱いところもあったが、音は正しいときに正しいタイミングで奏でられている。ほんの少し、曲の序章を聴いた程度でもわかる。同等、あるいは自分よりも優れて・・・。
だから俺は親父の言われたとおり、闘争心を抱いて、誇りをかけて練習をし始めたのだ。
あいつにはないものが俺にはある。それがはっきりわかっているから、俺は徹底的に勝ってやると誓った。
「親父・・・俺は・・・悔しい・・・!」
俺は自分のピアノの特徴というのを知っていた。静かでゆっくりな曲に、自分なりのアレンジを加えて引くのが一番得意だということも知っていた。親父にもそれを認められた。ピアノを弾きこそしないが、ゆったりとした曲のみを何千と聴く親父にそれを認められたことは、誇れることだった。
だから、コンサートの日、自分が負けた事を認めなければいけなかったのが余計に悔しかった。そいつはその日、いつもどおり、スムーズに滑らかに弾けていた。澱みなく水が流れるように。少し淀みがなさ過ぎるのが玉に瑕だが、間違いなく完璧と言って差し支えない。親父も
そいつの演奏を聞いて拍手をしていたのを俺は垣間見た。
(「お前にだけは負けねぇ・・・」)
そいつの演奏を聞いてから、俺は誓った。10年以上に積み重なった誇り。それが崩れては、俺にはもう自分が自分である証拠を失ってしまう。
だが弱点があった。俺にはひとつ弱点があった。指の震え。大舞台をそれなりに経験してきたが、どんな時でも必ず演奏するときにははじめに指の震えが起きるのだ。
ガラスのように透き通り、霜のように触れれば崩れるように仕上げなければならない静かな曲。Clair de Lune。月光という名を冠した曲を選択したのは、俺の弱点を知ればまさに間違いであるとしかいいようがない。だが、それでも俺は弾きたかった。これこそ俺の最良。ベストを尽くした曲。
だが、弾き終わったとき俺は負けを認めていた。ガラスには、ほんの少しのヒビが入ったのだ。
「俺は・・・親父の言うとおり、闘争心を抱き、誇りを抱いて練習しました。なのに俺はあいつに勝てなかった・・・なぜです!?」
崩れていく。自分の唯一誇れるものがなくなる。なぜかそれが、そうなってしまう前から怖かった。これをなくしたら、まるで俺はこれから先、まるで雲のように流されてしまう気がしたのだ。そして俺は、なくしてしまったのだ。
「お前は・・・おまえ自身に負けたのさ・・・」
煙草をガラスの灰皿に親父は置いた。煙が一筋、まっすぐに昇り続た。
「俺も、ピアノこそこんな喧嘩ばっかやってた指ではやったことがないが、敵と勝負するときはかならず震えたのさ。」
はっと親父の顔を俺は見た。気づかないうちに俺は下を向いていたようだった。手に何粒かの水滴が付いている。目もほんのすこしぼやけていたが、だんだんその視界が晴れていった。
「闘争心を抱け。誇りを抱けってのは、なにも相手を負かすためなんじゃない。俺はいつもその精神を抱いて、何をしたかって言うとな、恐怖を忘れようとしたんだよ。」
ふっと親父が笑った。おそらく俺に見せる初めての親父の弱さ。
親父もそれを知って笑ったのだろうか。
「お前は本当に俺の若いころにそっくりだよ。表面じゃ紳士だが内部じゃ負けず嫌いの精神が
しっかりある。だのに本番になると、なんでか怖くなっちまうんだもんな・・・。」
灰皿から煙草を拾い一息に吸うと、それを灰皿につぶして親父は立ち上がった。
「練習しな。負けたならまた立ち向かえ。誇りをなくしたなら、また作り直せ。それしか方法はない。怖がってる自分がいやなら、練習して自信をつけろ。自信こそ恐怖を克服する鍵だ。」
「けど、俺は何万回と練習したのに、それなのに本番で怖くなってしまったんですよ?」
「・・・恐怖を知らないやつはいないよ。俺が言ってるのは自信を持って、知った恐怖に立ち向かえってことだ。」
部屋のドアを親父は開けた。俺は何も言えずただ目で追うばかりだった。
「・・・自分に勝て。お前は、おまえ自身には負けねぇとおもって練習しろ」
ふりむかずに、静かに、まるで願うかのように親父は言って部屋を出て行った。
気づけば俺はピアノに向かっていた。目をつぶっても弾けるまでに練習したこの曲。
光はいらない。光は指が知っている。拍手もいらない。一人だけ、静かに、聞いてくれる人がいる。
だが、誇りだけは忘れない。そう誓った。
俺は、己にだけは負けない。